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第五章

5-3.夜番

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「ジン殿。ここは自分が」

 仁たちがダンジョンの中層に足を踏み入れてから4日後、ダンジョン17階層で、仁たちの行く手を塞いだ魔物の前に、ロゼッタが歩み出る。尖った鉱物を先に付けた短槍を手にした魔物は、2足歩行の蜥蜴トカゲだった。体長2メートルほどの蜥蜴人リザードマンは、体表を緑の鱗に覆われており、人と同様に手で武器を用いることのできる魔物だった。

 蜥蜴人リザードマンのような魔物は、魔物の中でも特に亜人と呼ばれており、魔物と人の中間の存在として見られている。帝国では亜人と獣人が混同され、獣人差別の理由の一端にもなっていた。獣人が人の特徴を多く持つのに対し、亜人は魔物の特徴を多く有しており、魔物同様に魔石を体内に持つ。亜人の中にはごく稀に人と意志の疎通ができるものがいたという言い伝えは残されているが、現在では作り話だというのが定説となっている。もっとも、ダンジョンで生まれた亜人は地上のものとは異なり、ダンジョンの魔物としての攻略者に襲い掛かる存在でしかなかった。

 仁は不測の事態に備えて常に気を巡らしていたが、ロゼッタは危なげなく蜥蜴人リザードマンに止めを刺し、誇るように石突を地に突き立てた。10階層で迷宮王牛ミノタウロスと戦って以降、ダンジョンの中層では亜人が多く出没した。今でこそ無難な立ち回りが出来ているものの、2本の足で立ち、手に武器や盾を持つ魔物たちとの戦いは玲奈やミル、ロゼにとってはあまり経験したことのないもので、多くの戸惑いをもたらしたのだった。

「じゃあ、みんな。今回はここで引き返そう」

 仁は手持ちの食糧と玲奈たちの疲労状況から撤退の判断を下した。ミルやロゼッタは20階層の中層ボスとも戦いたがっている様子だったが、玲奈と共に説得し、またの機会にすることに決まった。仁は観察者と名乗るラストルの記憶を持つという存在に会うために最下層を目指したい思いはあったが、自らの事情に玲奈たちを巻き込みたくないと考えていた。それに、前人未到の最下層にそう簡単に辿り着けるとも思っていなかった。

「私とミルちゃんとロゼの1番の目標は無事に達成できたし、今回の合宿も大成功だったね」
「今回も合宿だったんだ」
「うん。家に帰るまでが合宿だから、仁くんもまだ気を抜いちゃダメだからね」
「それは合宿じゃなくて遠足じゃない?」

 仁がツッコミを入れると、玲奈は少しだけ疲労の色を滲ませる顔に、朗らかな笑みを浮かべた。



 地上への帰還を決めた日の夜、仁が17階層の安全地帯で見張りの準備をしていると、一緒に夜番をするはずのミルではなく玲奈が近づいてきて、仁の隣に座った。

「玲奈ちゃん、どうかしたの?」
「えっとね。ミルちゃんと見張りの順番を代わってもらったの。ダメだった?」
「そうなんだ」

 基本的に安全地帯には魔物は侵入できないため、見張りの主な役目は不測の事態に備えるためと、他のパーティへの警戒のためだった。そのため、ミルとロゼの2人でも特に問題はないと仁は判断した。

「それは構わないけど」

 仁は肩が触れてしまいそうなほど近い距離に玲奈の存在を感じ、胸が高鳴るのを感じた。思えば、玲奈と2人きりになるのは久しぶりのことだった。この世界に再召喚されなければあり得なかっただろう距離感に、仁は何とも言えない複雑な思いを感じた。

「ねえ、仁くん。何があったの?」

 玲奈は間近で仁を見つめた。玲奈の様子を横目で盗み見て目を丸くする仁の様子に、玲奈は小さな笑い声を零した。

「こっちの世界に来たときもそうだったけど、仁くん、演技力なさすぎだよ。数日前の朝から、明らかに様子がおかしかったよ。ミルちゃんもロゼも気になってる様子だったけど、仁くん、気付いてなかったでしょ?」

 数日前というのは観察者が現れた翌日のことだろうと仁は当たりを付けたが、表に出さないように心がけていたため、指摘されるとは思っていなかった。

「私たちに言えないことなら無理には聞かないけど、もし話せることなら私たちの誰にでもいいから相談してほしいな。聞くことしかできないかもしれないけど、一人で悩んで溜め込むよりはいいと思うんだ」

 リアルお悩み相談コーナーだよと微笑んで見せる玲奈に、仁は目頭の奥が熱くなるのを感じた。

「ありがとう。わからないことも多くて考えもまとまってないんだけど、それでもよければ俺の話を聞いてほしい」

 仁は玲奈が優しく頷くのを確認し、数日前の夜の出来事を玲奈に話して聞かせた。



「そっか。そんなことがあったんだね」

 玲奈は仁の話を聞き終え、噛みしめるように言った。

「じゃあ、元の世界に戻る前にやらなくちゃいけないことができたね。ルーナとの約束のために、強くなって元の世界に戻る方法が見つかるまで生き延びるだけじゃなくて、そのアシュレイさんを探すのと、このダンジョンの最下層の観察者さんに会いに行くこと。具体的な目的があった方が励みになるよ」

 笑顔を浮かべる玲奈に、仁はしばし言葉をなくした。

「俺の事情に玲奈ちゃんやみんなを巻き込むわけにはいかないよ」

 表情を硬くする仁に、玲奈は静かに首を横に振った

「私たちは巻き込まれるんじゃなくて、仁くんのお手伝いがしたいんだよ。いつも私たちを助けてくれる仁くんの力になりたいの。ミルちゃんやロゼもきっと同じ気持ちだよ」
「玲奈ちゃん……」
「仁くんは強いから、私たちじゃ足手まといになっちゃうかもしれないね。もしそうなら遠慮せずに言ってね。そのときは邪魔にならないように仁くんの無事を祈って待ってるから」
「足手まといなんてそんな。俺は玲奈ちゃんたちにいつも助けられてるよ。それに俺の一番の目的は玲奈ちゃんやミルたちが無事でいることなんだから、俺だけ離れるなんてありえないよ」
「うん。ありがとう。それならこれからもずっと一緒だね」

 仁は優しく微笑む玲奈を天使のようだと思った。

「具体的なことは何もわからないから、すぐにどうこうって話ではないけど、もしその時が来たら、お願いするね」

 仁の言葉に、玲奈は満足げに頷く。それから仁と玲奈はミルとロゼッタが起きてくるまで、とりとめのない話をして過ごした。仁にとって奇跡のような幸せな時間だった。その後、見張りを交代した仁が自分用に別のテントを取り出そうとしたところ、ミルとロゼッタに止められた。何かあったときにすぐ近くにいた方がいいからと強引に玲奈と同じテントに放り込まれ、仁は久々に眠れない夜を過ごすことになったのだった。
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