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第六章

6-13.黒本

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「ジーク、どうかしたの?」

 椅子の背もたれに体重を預けたコーデリアの視線が、黒い装丁の本を手にしたまま固まる仁に向いていた。

「い、いえ。何でもありません」

 仁は慌てて答えながら、なぜ手を止めてしまったのかわからず首を傾げる。改めて視線を本に向けるが、特に変わったところはないように思えた。

「ああ。その本ね」

 コーデリアは仁の手にしている本を目にすると、納得がいったというように大きく頷いた。

「その本は超古代文字で書かれていて、誰も読むことができないのよ」
「え」
「本が見つかった状況から、わたくしの研究に役立つことが書かれていると考えられているのだけれど、誰にも解読できないのでは宝の持ち腐れでしかないわね」

 コーデリアは体を起こすと机の上のカップを手に取った。仁はコーデリアの優雅な所作に目もくれず、本のタイトルの金刺繍に釘付けになっていた。

“無属性魔法大全”

 仁の頭は間違いなく本のタイトルを理解していた。仁は何が起こっているのか理解できず、目をしばたかせた。コーデリアは紅茶を飲み干すと、カップをユミラに渡し、再び机に向かった。ユミラが手を止めたままの仁を叱責し、仁は作業を再開する。仁の頭の片隅にはいつまでも金のタイトルが浮かんでいた。



「姫様が戻られるまでに食事を終えて、しっかりと身を清めておきなさい」

 仁は今日の警護の任を解かれ、コーデリアの寝室の檻に戻って来ていた。仁の目の前には食事の他に、木製の桶に張られた水と、雑巾と見間違うほどに薄汚れたタオルが1枚用意されていた。ユミラは高圧的に命じると、檻に施錠をして足早に部屋から出て行く。仁は手早く兜と甲冑を脱ぐと、大きく息を吐いた。

「あ、あの……」

 檻の中は仁ひとりではなかった。仁が声のした方を向くと、青い前髪の間から覗く垂れ目と目が合うが、すぐさま逸らされる。

「た、隊長。鎧を脱ぐのを手伝ってもらえませんか……?」

 慣れない鎧に戸惑うセシルは目線を横に向けつつ、仁に縋るような声を出した。仁はセシルの背に回り、留め具を外す。セシルは鎧を脱ぎ去り、ホッとしたような表情を浮かべた。

「あ、ありがとうございます……」

 仁は軽く手を上げ、床に置かれた皿の前に座り込んだ。仁は硬いパンを一口サイズに千切り、口に運ぶ。仁の横に座ったセシルも無言で手と口を動かした。仁はセシルが両手に収まるくらいの大きさのパンを食べ終えるのを待って、水の入った桶をセシルに寄せる。

「えっと。セシルが先に使っていいよ」
「い、いえ。隊長を差し置いて私が使うわけには……」

 セシルは桶を仁の前に移動させようとするが、仁が押しとどめる。

「女の子より先に使うわけにはいかないよ」
「でも……」
「いいからいいから。それに、ちゃんと後ろ向いてるから安心して使って」

 尚も逡巡するように桶と仁を交互に目を遣るセシルに、仁は追い打ちをかけるように言葉を投げかける。

「ほら。早くしないとご主人様が戻って来ちゃうしさ」
「わ、わかりました。では、先に使わせてもらいます」

 セシルが頷くのを確認した仁は、4畳ほどの檻の端に移動し、セシルに背を向けた。しばらくして背後から聞こえてきた衣擦れの音が、仁の心を大いにかき乱す。無意識的に敏感になった仁の耳がセシルの微かな吐息を捉え、仁の胸の鼓動が早まる。セシルがタオルを洗う水音が、仁には淫靡な色を含んでいるように感じられた。

「た、隊長。お先に失礼しました」

 背後からかけられた声に、仁はビクッと背筋を震わせる。仁が振り向くと、ほんのり頬を染めたセシルが桶を仁の方に寄せた。

「こ、今度は私が向こうを向いていますね」

 仁は後ろを向くセシルを目の端に捉えながら、桶の縁にかけられたタオルを手にする。仁は頭を振って脳裏に浮かぶセシルが体を拭くシーンを追い出し、深呼吸をしてから自らの体に当てた。ひんやりとした感触は仄かに熱を持った仁の体に心地よく感じられた。



「セシルは魔法が使えるんだよね」

 仁は体を清め終えた後、沈黙が支配する気まずい雰囲気に負け、セシルに声をかけた。微妙な距離を空けて隣り合っていたセシルが床から視線を離し、横目で仁の姿を捉えた。

「は、はい。光魔法だけですけど……」
「あのさ、無属性魔法って何かわかる?」
「無属性魔法ですか……?」

 仁は自然と魔法の存在を受け入れているが、記憶と一緒にどこまで知識が失われているかわからなかった。少なくとも仁は無属性魔法というものに関して大した情報を持っていなかった。セシルは視線を斜め上方に送って考えをまとめると、ゆっくりと口を開く。

「えと。いわゆる属性魔法以外の魔法でしょうか」
「ごめん。俺の記憶が正しいか答合わせさせてほしいんだけど、属性魔法というのは火、水、風、土、光、闇、氷、雷の魔法ってことでいいんだよね?」
「はい」

 仁は記憶を確認するように、目を閉じて何度も頷く。

「それ以外ってなると、具体的にどんな魔法になるのかな?」
「一般的なものだと、回復魔法がそうですね。あとは最近ではあまり使い手がいませんけど、召喚魔法などでしょうか。それから、今ではほとんど失われてしまって魔道具を用いる形でしか残っていない隷属魔法も無属性魔法の一種ですね」

 セシルは自身の首元の隷属の首輪に手を当てて、悲しげな表情を浮かべた。

「回復魔法に、召喚魔法と隷属魔法……」

 仁は呟き、黙考する。脳裏に浮かんでいたのは黒い本だった。

「あの、それがどうかしましたか?」
「あ、いや……」

 仁は誰にも解読できなかったとコーデリアが話していた超古代文字が読めてしまったという事実をどう受け止めればいいのかわからず、言葉を濁す。セシルはそんな仁の様子に小首を傾げた。

「あ、そうだ。俺も魔法を使えるような気がするんだけど、自分が魔法を使えるかどうかってどうやって確認すればいいのかな」

 仁は誤魔化すように言うが、それも気になっていたことだった。なんとなく自身も魔法を使えるような気はしているが、具体的にどのような魔法を使えるのかわからなかった。

「え?」

 セシルは何を言われているのかわからないといった表情を浮かべる。

「あ、いや、ほら。ご主人様から聞いてないかな。俺、記憶がなくてさ」

 セシルは苦笑いを浮かべる仁を眺め、納得したように頷く。

「すみません。聞いてはいたのですが、そんなことまで忘れてると思っていなくて……」
「いや、いいよ。それで、何か方法はあるのかな」
「はい。目を閉じて、ス――」

 セシルが突然言葉を切り、痛みに耐えるように床に手を突いて前傾姿勢をとった。

「セシル!?」

 仁は何が起こったのか理解できず、セシルに駆け寄る。仁がセシルの肩に触れると、セシルは苦痛に歪んだ顔を仁に向けた。

「だ、大丈夫?」
「は、はい。もう大丈夫です」

 仁の心配そうな視線を受けたセシルは取り繕ったような笑みを浮かべる。結局自分の使える魔法を知る方法を聞くことができなかったが、仁は再びセシルに聞く気にはなれなかった。

 その後、寝室に戻ってきたコーデリアがベッドに入るのと同時に、仁とセシルはお互いに背を向けて金属製の檻の床に横になった。仁はもやもやした思いを抱えながら寝心地の悪い硬い床の上で体をごそごそと動かす。仁は明日からの仕事を頑張って、少しでも待遇を改善してもらおうと心に決めた。
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