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第七章

7-3.望郷

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「まずわたくしがあなたを召喚した経緯だけれど、簡潔に言うのなら、ただの偶然ね」

 コーデリアは前傾姿勢を維持したまま、膝の上で両の手を忙しなく組み合わせる。

「俺を召喚しようとして召喚したわけではないと?」
「ええ。わたくしはただ、魔法陣に新たな調整を加えた状態で正常に起動するか試そうとしたのよ。あのとき、魔法陣には異世界の壁を越えられるほどの魔力は充填されていなかったから、召喚は間違いなく失敗するはずだったわ」

 仁は眉間に皺を寄せ、首を傾げた。

「ちょっと待ってください。あの魔法陣は異世界から勇者を召喚するものですよね。意図したことでないのなら、いったい何をどうしたら既にこの世界にいる俺が召喚されるなんてことになるのですか?」

 仁の問いに、コーデリアは一瞬迷うように目を泳がせたが、すぐに表情を引き締める。

わたくしもそれが気になってずっと考えていたのだけれど――」

 コーデリアはあくまで仮説だとしながらも、以前ルーナリアが玲奈たちに話した説とほぼ同じ内容を仁に話して聞かせた。熱心に耳を傾けていた仁の眉間の皺が段々と深くなっていく。

「あの魔法陣が、俺個人を召喚するためのもの……?」

 仁が考え込むように呟く。仁は頭の中でコーデリアの仮説を検証し、その仮説に信憑性があるという考えに辿り着くと同時に、ある可能性が脳裏に過って目を見開いた。

「そ、そんな……」

 仁は顔を伏せ、肩をがっくりと落として項垂れた。

「まさか、俺のせいで玲奈ちゃんを巻き込んだ……?」

 仁の全身を脱力感が襲う中、仁の両の拳だけが痛いくらいに握りしめられる。仁の脳裏に、元の世界のステージ上で輝いていた玲奈の姿が浮かんだ。仁を含めた多くのファンに元気や勇気、楽しみや感動を与えてきた玲奈のパフォーマンスが、仁自身が原因で失われるなどあっていいことではなかった。

「玲奈ちゃん……」

 今は側にいない玲奈を思うと、元の世界で参加した玲奈のイベントやライブの思い出が鮮明に蘇る。

 アニメのキャラクターを通して声や演技を気に入り、アニメのOPやEDで歌声に魅了され、購入したCDの特典映像のMVのダンスのクオリティの高さに驚かされ、同じくMV内のドラマパートやメイキング映像で可愛さの虜となり、ラジオや動画配信などで人柄に触れた。とてつもない緊張感で臨んだ初めての握手会で間近に接して、佐山玲奈という存在が実在するという当たり前の事実に魂が震えるほどの昂揚感を味わい、人生で初めて参加したライブでの玲奈の圧倒的な存在感に心を奪われた。

 記憶を失くしていた反動か、仁の元の世界での玲奈に関する思いが次々と湧き上がる。異世界から帰還して以降の仁の生活は玲奈が中心だった。それに付随して元の世界での生活が色褪せない生の感触を持って思い出された。仁の様々な感情と共に思い出すのは多様な表情を見せる両親や妹、学校の友人たち。記憶を失くす前は取り立てて強く感じることのなかった望郷の念が、仁の心の中で嵐のように吹き荒れた。

 家族や友人と離れた寂しさや心細さ、玲奈を巻き込んでしまった申し訳なさや、やるせなさ。様々な感情が混じり合い、仁の心中に暗い影を落とす。

「だ、大丈夫?」

 コーデリアが気遣わしげな声を上げながら、仁の顔を心配そうに覗き込む。

「一つだけ言っておくと、レナ・サヤマが召喚されたことは、あなたには非はないわよ。非があるとすれば、隷属魔法が中途半端な状態で召喚してしまったルーナリア姉様、ひいては、召喚魔法陣に隷属魔法を組み込むように命じてきた歴代の帝国皇帝、即ち、帝国だわ」

 コーデリアの真剣な声音に、仁はゆっくりと顔を上げる。

「コーディーは優しいですね」
「や、やさしくなんてないわ。普通よ普通」
「他人を気遣える人、俺は好きですよ」
「なっ」

 仁が力なく笑うと、コーデリアはバッと首を横に向けた。その白い頬は心なしか赤みが差しているように見えた。

「何を勘違いしているのか知らないけれど、あなたが腑抜ふぬけていると困るのよ。そう。わたくしの計画に支障が出ると困るの。ただそれだけなんだから」

 後半がぼそぼそと聞き取り辛いものになっていたが、仁の耳にはきっちりと届いていた。仁は、今度はもう少しだけ明るく笑うと、気を引き締め直して正面を見据える。玲奈を召喚したのが自分のせいだろうとなかろうと、玲奈を元の世界に戻す、ひいては一緒に元の世界に帰るという目的には何の変わりもなかった。目的を達したとき、仁と玲奈が側にいられなくなることをミルに告げられていないという事実が棘のようにチクチクと仁の心に突き刺さったが、とりあえず今はまだ棚上げにするしかなかった。

「それで、コーディー。あなたの計画というのは何ですか? その計画と、俺の正体を周囲に隠したことに関係があるんですね?」

 コーデリアは仁に向き直る。仁の瞳に力が戻っているのを確認し、コーデリアは小さく息を吐く。コーデリアは咳払いをすると、再び表情を真剣なものに変えた。仁はコーデリアの力強い意志の宿った眼光に射抜かれ、生唾を飲み込む。コーデリアがゆっくりと口を開く。

わたくしは皇帝になりたいの。いいえ、必ずなってみせるわ。皇帝になって、馬鹿げた侵略戦争を止めさせる。そのために、あなたの力が必要なの。わたくしには、あなたがるわ」

 鋭さを感じさせる、やや釣り目の碧眼が仁を見つめる。澄んだ金髪が日の光を反射してキラキラと宝石のように輝いている。仁はコーデリアから溢れ出る高貴さに、瞬きすることすら忘れて見入ってしまっていた。

「ちょっと。聞いているの?」
「え」
「何を呆けているのよ。ちゃんと聞いていたの?」
「え、ええ」
「本当かしら」

 仁が誤魔化すように言うと、コーデリアの瞳が疑わしげに細められた。

「こ、皇帝になりたいんですよね。ちゃんと聞いてましたよ。それに俺の力が必要って、まさか、反乱でも起こすつもりですか?」
「そ、そんなわけないじゃない!」

 勢いよく立ち上がって慌てて否定するコーデリアに、仁は安堵の息を吐いた。帝国軍3000を蹴散らした仁でも、国家転覆、皇位簒奪などどうすればできるのか見当も付かない話だったが、皇帝を暗殺して済む話ではないことだけは確かだった。

「まったく。さっきのユミラみたいに誰かが聞き耳を立てていたらどうするのよ。滅多なことは言わないでちょうだい」

 コーデリアは額に手を当て、椅子に倒れ込むように座り込む。仁は苦笑いを浮かべながら謝罪の言葉を口にした。

「そんなことをしなくても、今の帝国には皇位継承権を持つ者が合法的に後継者に選ばれる手段があるのよ。わたくしの場合、他の候補者に比べて幾分か厳しい立ち位置であるのは確かだけれど」

 コーデリアは息を整えると、その手段と自身の計画について話し始めた。
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