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第八章

8-20.誤魔化し

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「と、ところで、ヴィクターさんは小さい女の子が好きなんですか?」

 居たたまれない空気に耐えられず、仁が口を開いた。直後、このタイミングで何を聞いているんだと後悔の念が湧き上がってきたが、一度口から出た言葉は戻らない。ヴィクターの鋭い視線が仁を射抜く。

「あ、いえ、その、決して変な意味ではなくてですね。ヴィクターさんはいつも若い子たちをサポーターに雇っていますけど、その、いつも女の子ばかりだなーっと」
「ああ、そのことか……」

 溜め息一つ、ヴィクターが目を細め、ここではないどこか遠くを見遣った。仁は緊張の面持ちでヴィクターの次の言葉を待つ。

「何度か同じことを聞かれたことがあるんだけど、僕はね、小さな女の子が好きなんじゃなくて、女性が好きなんだ」

 想定外のヴィクターの答えに、仁の時間が止まる。てっきり小さい子が好きなのかと思っていたが、年齢問わず女性なら誰でもいいと言うのだろうか。嗜好はともかく、誠実そうに感じていたヴィクターのまさかの告白に、仁は驚きで目を見張る。

「あ、勘違いしないでくれよ。女性と見れば誰彼かまわず手を出そうとするような輩と一緒にしないでほしい。男が女性を好きなのは普通のことだろう?」
「あ、そういう意味ですか……」

 ホッとした仁はとんでもない勘違いをしていたとヴィクターに申し訳なく思い、謝罪しようとするが、口を半分だけ開いたところで動きを止める。仁の頭の中で、先ほどまでのやり取りが再演されていた。仁の額にじんわりと汗が滲む。ヴィクターはミルもファムも“女の子“ではなく“女性”として扱っていた。

「ヴィ、ヴィクターさん。ちなみに、女性の好みは小柄な人だったりしますか……?」
「そうだね。背の高い女性が嫌いなわけではないけど、どちらかといえば小柄な女性が好みではあるね」

 仁はやはり幼い女性女の子が好きなのではとツッコミを入れたい気持ちでいっぱいになるが、爽やかな笑みを浮かべて即答するヴィクターに、仁の脳がこれ以上この話題を続けるのは危険だと警鐘を鳴らす。

 仁のヴィクターに対するロリコン疑惑は膨らむばかりだったが、その一方で、仮にそうだとしても、仁がミルと添い寝しているだけで苦言を呈するほどの倫理観を持つヴィクターならば女の子の弱みにつけ込んだり幼さを利用したりするような真似はしないだろうと、ある種の安心感も芽生えていた。そのくらいには仁はヴィクターを信頼していた。

「そういうジンくんはどんな女性がタイプなんだい?」

 仁の心中を知ってか知らずか、ヴィクターが仁に話を振った。仁はこれ幸いと話に乗っかる。

「俺ですか? 端的に言うと、玲奈ちゃんみたいな人ですね」
「なんだ。やっぱりレナさんが好きなんじゃないか。お付き合いしているわけではないのかい?」
「いやいや。俺なんかが玲奈ちゃんと付き合うなんて、あり得ませんよ」

 苦笑いを浮かべた仁が胸の前で右手を左右に大きく振ると、ヴィクターは不思議そうに目を丸くした。

「そうかい? 僕は初めて会ったときからお似合いだと思っていたけど」
「俺と玲奈ちゃんでは住む世界が違うんですよ」
「君は事情があってレナさんの奴隷をしているだけで、実際は主人と奴隷という関係ではないのだろう?」
「それはそうなんですけど……」

 大きく首を傾げるヴィクターを前に、仁はどう説明したらいいものかと頭を悩ませる。“ファン”という言葉が上手く伝わらない以上、仁と玲奈の関係を簡潔に言い表す言葉が見当たらなかった。

 この世界のどこかでは演劇などが行われている可能性は低くはないと仁は考えていたが、少なくとも帝都やメルニール、かつて召喚されたラインヴェルト王国でも見たことがなかった。もし演劇が一般的なものであれば、声優という職業が存在しなくても演者のファンは存在していたかもしれないが、無いものねだりをしていても仕方がなかった。仁が眉間に皺を寄せてうんうんと頭をひねっていると、ふとルーナリアとコーデリアの姉妹の顔が思い浮かんだ。天啓のような閃きを得て、仁はパッと表情を晴れやかなものにする。

「ヴィクターさんはルーナを見たことありますよね?」
「ルーナリア皇女殿下かい? ああ。僕も調印式を見ていたからね」
「ルーナはすごく可愛くて綺麗でしたよね? もしヴィクターさんがルーナを気に入ったとしても、一冒険者と帝国の皇女という立場の違いがある以上、憧れることはあっても本気で付き合いたいとは思わなくないですか?」

 仁がドヤ顔で例え話を披露すると、ヴィクターは難しい顔をして首を捻る。

「うーん。確かに綺麗だとは思うけど、正直僕の好みからは少し外れているから想像しづらいな。ルーナリア皇女殿下がもう少し小柄だったら……」

 仁は小柄ではなく幼いの間違いではと問いたくなる気持ちを抑えてヴィクターの反応を待った。しばらく悩んでいたヴィクターは大きく頷くと、仁を正面から見据える。

「ジンくん。やっぱり僕にはわからないな。仮に僕がルーナリア皇女殿下を好きになったとしたら身分の差に思い悩んで結果的に諦めざるを得ないかもしれない。でも、身分が同じだからと言って相手に振り向いてもらえるとは限らない。こればっかりは自分だけではどうすることもできないことだけど、最終的には相手の気持ち次第というところは一緒なんじゃないかな。もちろん身分が違えば越えなければならない壁は高くなるかもしれないが、ジンくんはそれ以前にそもそも好きにならないと言っているのだろう? それは身分の差を言い訳に、自分の気持ちを誤魔化しているだけなんじゃないのかい?」

 例え話でわかってもらえると思っていた仁は、ヴィクターの想定外の反応を受けて言葉に窮する。思わず胸に当てた右の手のひらから、僅かに速度を上げた自身の鼓動が伝わる。

「余計な詮索かもしれないが、もしかしてレナさんは君たちの故郷の国の王族なのかな?」
「い、いえ、そういうわけではないですが……」

 仁は何とか絞り出すように答える。速まる鼓動に合わせるように、仁の脳裏に元の世界とこちらの世界での玲奈のいろいろな表情が次々に浮かび、頭の中を満たしていく。こちらの世界に召喚されてから、仁は元の世界では決して見られない玲奈の様々な姿を目にしてきた。握手会以降、玲奈から向けられた言葉や気持ちは、大勢いるファンではなく仁個人に向けられたものではなかったか。そして仁がこれまで玲奈に伝えてきた言葉や思いは、果たして本当に憧れの声優へ宛てたものだっただろうか。玲奈という一人の女性に向けたものではなかったか。仁の中で、徐々に声優とファンという明確な関係の輪郭がぼやけていく。

 思考の渦に嵌っていく仁の心に、自分の気持ちを誤魔化しているのではないかというヴィクターの言葉が大きくのしかかっていた。視線を地面に向けて思い悩む仁を、ヴィクターは口を閉ざして見守る。仁の自身の心との対話は、夜番の交代の時間が訪れてクランフスが姿を見せるまで続いたのだった。
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