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第九章

9-5.予感

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「ねえ、仁くん。なんだかおかしくない?」

 緊張を帯びた玲奈の声音が深い森の木々の狭間に消えていく。仁と玲奈が初めての喧嘩と仲直りをした翌日、仁たちは小盾を構えた玲奈を先頭に魔の森の深部を目指して進んでいた。

「やっぱり玲奈ちゃんもそう思う?」

 足を止めて周囲に警戒の視線を巡らせる玲奈の横に仁が並ぶ。

「うん。昨日よりも奥にいるのは間違いないのに、魔物が少なすぎると思う」

 朝早い内に出発してから昼前の今まで、散発的に何度か魔物と遭遇したが、引っ切り無しに襲ってきた昨日と比べると、その差は一目瞭然だった。仁は玲奈と同じ感想を抱いていたため、頷いて同意を示す。

「ジン殿、レナ様。魔物が少ないのは良いことなのでは?」

 仁が振り返ると、ロゼッタが首を傾げていた。ミルとセシルもロゼッタと同意見なのか、静かに仁の反応をうかがっている。セシルの持った檻の中のイムは退屈そうに欠伸をしていたが、仁と目が合うとサッと顔を背けた。

「それはそうなんだけど、何て言ったらいいのかな。魔物が縄張りを持つのは知っているよね」

 例外はあるにしても、魔物の多くは縄張りを持ち、同種、別種問わず、魔物同士で縄張り争いが行われているのは広く知られていることだった。しかし、同じ地域に暮らす魔物たちが常に争っているわけではなく、力関係を元にしたある種の秩序が存在する場合も多い。この魔の森も元々はそれなりに安定した地域だったのだが、突如入り込んだ合成獣キメラや、縄張りを出た火竜ファイヤードラゴンが森を荒らした。その上、魔物けの結界が消えて縄張り的な空白地帯が生まれたことで、仁は魔の森の秩序は失われ、魔物たちも血気に逸っていると思っていたのだった。

「あ、あの。ジンさんや皆さんの強さを恐れて近づいてこないというのは考えられませんか?」
「仮にそうだとしても、ここまで襲われないのはちょっと不気味に感じちゃうな」

 木々の間を縫うように冷たい風が吹き抜ける。葉々がざわざわとざわめき、皆の胸中に生じた得体の知れない不安をあおった。

「ごめんごめん。漠然としたものだから、あまり気にしなくていいよ。まぁ、ここでこうしていてもどうにもならないし、襲われない間に昼食を済ませて距離を稼ごう」

 重くなった空気を一掃するべく、仁は明るく振る舞う。仁がアイテムリングからミルの大好物の串焼きを取り出すと、仁から顔を背けていたイムが仁の手の先に視線を固定した。

「ほら、イムもお腹空いたよね」

 仁が声をかけながら焼き鳥を檻の外からイムの鼻先に近付ける。

「ほら。イムは熱々のこれが大好きなんだよね。食べたいよね」
「グ、グルゥ……!」

 イムは僅かに涎を垂らしながらも、仁からの施しなど受けるものかとでも言いたげに、勢いよく顔を逸らした。

「あ、いらないんだ。じゃあ、これはセシルのね。はい」

 仁がセシルに串を差出す。セシルは戸惑いの表情を浮かべながら杖剣を地面に突き刺し、檻を持っている手とは逆の手で受け取る。イムが仁とセシルを睨んでいた。その悔しげな視線に、仁は勝ち誇った笑みを浮かべる。

「仁くん。それはちょっとひどくない?」
「ジンお兄ちゃん。イムちゃんにいじわるしちゃダメなの」
「ジン殿。お気持ちはわかりますが、少し大人げないような気がします」
「あ、あの、ジンさん。わ、私を巻き込まないでください……」
「うっ」

 女性陣から一斉に非難を受け、仁はたたらを踏む。仁としてはちょっとした冗談のつもりだったのだが、半ば理不尽に嫌われるイムに対する意趣返しが過ぎたようだったと反省の念を抱いた。

「その、なんだ。イム、ごめん」

 仁が改めて焼き鳥をイムの眼前に差し出すと、今度はイムが勝ち誇ったようにまだ小さな白い牙を覗かせた。イムは檻の格子の間から小さな手を出して仁の手から串焼きを奪い取り、檻の中へと引っ張り入れた。

「グルルッ」

 イムは肉に噛り付きながら、度々仁に顔を向けては目を細めて口角を吊り上げた。

「ねえ。確かに今回はちょっと意地悪したけど、俺だけが責められるのはおかしくない!?」

 仁の心からの叫びに、皆は声を上げて明るく笑ったのだった。



 その後も大して魔物に襲われることなく快調に歩を進め、日が傾く頃には仁たちは予定をはるかに超える距離を踏破していた。仁たちは昨日と同様にキャンプを張るため、一帯の魔物を排除しようと予定地の周りを巡回するが、魔物の姿はほとんど見られなかった。仁たちは一様に首を傾げたが、昼間のロゼッタの言のように、現状では仁たちにとって都合のいい状況であることは間違いなく、そのままキャンプの設置に移る他なかった。

「次はセシルお姉ちゃんの番なの。今日はあまり戦えなかったけど、ミルは強くなった気がするの。ジンお兄ちゃんの特訓のおかげなの。だからきっとセシルお姉ちゃんも強くなれるの」

 夕食を終えた後、ミルは嬉しそうにイムに話しかけていた。イムの世話係として側で一緒に話を聞いていたセシルがおずおずと口を挟む。

「あ、あの、ミルさん。ジンさんとの訓練はどんな感じでしたか?」
「えっとね、ミルの中にジンお兄ちゃんが入ってきて、くすぐったかったの。でも、ジンお兄ちゃんと一つになれて、とっても気持ちよかったの」

 ニコニコと上機嫌のミルの言葉に、セシルがゴクリと大きく喉を鳴らした。はたから聞いているとミルの発言はいろいろ危険な気がして仁は急いで間に割って入る。

「セ、セシル! そ、そろそろ始めようか!」
「ひゃ、ひゃい!」

 セシルがビクッと背筋を逸らした。ぎこちなく立ち上がるセシルを、仁は苦笑いを浮かべて見守る。

「ジ、ジンしゃん。よ、よろしくお願いしみゃす!」

 顔を赤く染めて噛み噛みで話すセシルを、仁は不覚にも可愛く思ってしまった。セシルの際どいところに直接触れる様が脳裏に浮かび、仁の頬が熱を持つ。耳まで真っ赤にして俯く二人を、玲奈が目を細めて見つめていた。

「仁くん。えっちなことはしちゃダメだからね」
「し、しないよ!」

 釘を刺すような玲奈の言葉に、仁は慌てて顔を上げる。見透かすような玲奈の視線が仁の心にチクチクと突き刺さった。

「じゃ、じゃあ、セシル、行こう――」

 セシルに向けられた仁の顔が素早く左右に振られる。

「皆! 武器を取って! 戦闘準備! 囲まれてる!」

 仁の張り上げた声を打ち消すかのように、仁たちのキャンプの四方八方の暗闇の奥から獣の咆哮が一斉に轟いた。長い夜の始まりだった。
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