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1話 ただのパン屋の看板娘よ
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――ふわりと、焼き立てのパンの香りが広がる。
それは、わたしがパン屋の娘だから――だけじゃない。最近になってから度々起こるようになったこの嗅覚への刺激は、パンが身近にない時でもその香りを届けてくる。――事件と、共に。
例えば、怪我をした猫を道で拾った時。
友人のテレサの家(その場から近かったのだ)に猫を運び、手当てをし、その日はとりあえず彼女に預けて帰宅したのだが、ここで、パンの香りが鼻腔を刺激する。そして、次に差し入れを入れたバスケット片手に彼女の家に向かったところ――
「猫? なんのこと?」
と心底不思議そうに尋ねてきた。とぼけているというより、そもそも猫を助けたことさえ全く憶えていない様子だった。
例えば、貧民街で昼日中から殺人事件があった時。
騎士が一人と一般人二人が死体になって発見されるという凄惨な事件が起こり、その噂はこちらの一般市街区にまで届き、にわかに騒ぎになった。しかし、ここでパンが香る。するとその数時間後には騒ぎは不自然なほどに収まり、やがて誰もその話を口にしなくなった。
例えば、騎士団の詰め所が襲撃された時。
魔術によると思われる(誰かが詠唱の声を聞いていたらしい)爆発により、標的にされた詰め所のみならず、近隣の建物まで巻き込んだ大規模な火災に見舞われた。その詰め所はうちのパンをよく贔屓にしてくれているお得意さんだったため、さすがに心配になって見に行ったが、現場は大変な惨状になっており、中からは数人分の焼死体が発見されたと人づてに聞き、心を痛めた。
顔見知りの騎士であるアルテアの姿が見えないことも不安を加速させ、そこに追い打ちをかけるように例のパンの香りがする。そして数日空けて落ち着いてから再び覗きに行ったところ、詰め所はもう何もなかったかのように元通りに復旧しており、そればかりか、周囲に飛び火したはずの火事の痕跡なども綺麗に消えていたのだ。
アルテアの無事もそこで確認できたが、事件について彼女に尋ねたところ――
「あぁ、襲撃犯は現れたが、事前に捕らえることができたよ。火事? いや、そこまでの被害は出ていないが」
という答えが返ってきたため、思わず首をひねる。
(……夢でも見ていたのかしら……)
わたしの認識だけが世間からずれているような気持ち悪い感覚。自分の記憶に自信が持てない。
しかし夢や幻と切り捨てるには、心身共にハッキリとした感触が残りすぎていた。現実感、と言えばいいんだろうか。わたしにとってはここ数日で起きた事件の記憶と、起こらなかった記憶とが、どちらも現実のものと思えて仕方がない。さらに例のパンの香りが、その感触を余計に補強していた。
そして、気になる点はもう一つ。
(あの、見慣れない服を着た女の子……)
不可思議なパンの香りを感じるようになったのと同時期に、ここいらでは見覚えのない一人の少女の姿を、しばしば目撃するようになったのだ。
年の頃は十五、六くらいだろうか。黒髪を短く切り揃えた、可愛らしい少女だった。背はあまり高くない。その特徴だけなら、そこまで珍しくはないけれど……
目を引くのは、着ている衣服だった。
少女は白い上着を着ているのだけど、その背中部分からは直接フードが伸びて一体化している。フード付きのマントとも違うようだ。上着にはポケットが左右についている。
下半身は紺のスカートを穿いているけれど、その丈が短すぎる。膝どころか健康的な太ももまで露出していた。少なくともこの辺りで暮らす一般人女性にはありえない装いだ。通常なら短くても膝下くらいで、かく言うわたしも|脛(すね)まで届くスカートを穿いている。
鎧を纏う騎士や冒険者ならば、動きやすいように短いものやズボンを穿いたりするけれど……その少女はなんの武器も持っておらず、到底そうした職種には見えなかった。かといって、男を誘う娼婦のようにも見えない。
(なら、よそから来た旅人……?)
今まで見かけなかったのだからそうなのかもしれない。が、旅人にしては彼女は汚れが少なく、旅荷物も少なすぎた。背負い鞄(これも見たことのないデザインだった)を一つ持っているだけで、中身もそんなに入っていないように見える。
何より彼女は、事件のあった貧民街や騎士団詰め所などで、複数人から目撃されていたという証言がある。事件自体に関わっているのか、たまたま居合わせただけなのかは分からないけれど……
身の周りで起きる不可解な現象。時を同じくして現れた謎の少女。二つが関連しているかは不明だけど、どちらも無性に気になって仕方ない。とはいえ……
(考えても分からないし、ひとまずしょうがないか)
家業であるパン屋は今日も忙しい。パン作りや販売などの通常の業務に加え、定期的に騎士団などに配達もしなければならない。物思いにふける時間も惜しい。
「母さーん! リター! 配達行ってくるわねー!」
店番をする母さんと従業員のリタに一声かけ、パンを積み込んだ荷運び用の馬車の元に向かう。荷はこぼれないよう布にくるまれている。
「お願いね、ウィル」
「うん、任せてくれ」
馬車と共に待っていた青年――近所に住む幼馴染で、賃金と引き換えによく手伝ってもらっている――に声を掛けながら、わたしは馬を撫でてなだめ、それから先導するように歩き出す。ウィルに手綱を引かれた馬車がそれに続いてくる。
詰め所の場所はここから通り二つほど過ぎた辺りなので、そこまで遠くない。事故もなく無事に辿り着いたわたしたちは、詰め所の玄関口でいつも通りに呼び掛ける。
「すみませーん! パンの配達に来ましたー!」
呼びかけると、そう間を置かずに、中から一人の女性騎士が姿を現す。
「やあ、マリナ。そうか、もう配達の時間か。いつもありがとう。ウィルも荷運びご苦労様」
彼女――アルテアは、平均より少し高めの身長で、長い金髪をポニーテールにまとめたキリっとした女性の騎士。配達の際はいつも彼女が応対してくれるので、わたしもウィルも以前からの顔馴染みなのだ。
「注文通り持ってきたつもりだけど、一応確認してくれる?」
「ああ、今数える。……よし、問題ないな。みんな、中に運び込んでくれ」
アルテアの掛け声で詰め所内にいた他の騎士たちが動き、大量のパンを運び込んでいく。これが彼らの数日分の食料になるのだ。わたしとウィルも手伝った後――
「それでは、今回の代金だ。次もよろしく頼むよ、マリナ」
「ええ。いつも注文ありがとう、アルテア。またね」
いつも通りの態度。いつも通りの挨拶。殺人事件や詰め所の襲撃があったなどとは思えないほど変わりのない……
それに納得のいかない思いもあるが、口に出しても変な目で見られるだけだとも分かっている。なんとか気持ちを抑え込んで、馬車の前で待つウィルと合流し、うちに帰ろうとしたところで……一人の少女が、詰め所までやって来るのが目に入る。
「あぁ、おかえり、ミレイ」
「あ、た、ただいま、アルテアさん。これ……」
「どれどれ……うん。ちゃんと施療院までのおつかい行ってきてくれたみたいだね。ありがとう」
少女から渡された布袋の中身を確認し、アルテアが満足げに頷く。騎士団は訓練や事件への対処で生傷が絶えないし、包帯や傷薬などの備品だろうか。いや、そんなことより……
「アルテア、その子は……」
その少女は、フードと衣服が一体化したような、奇妙な白い上着を着ていた。紺色のスカートは短く、健康的な太ももが露出している。背はわたしより少し低く、黒髪を短く切り揃えた……
「ん? あぁ、そういえばマリナにはまだ紹介していなかったか。彼女は――」
そのアルテアの台詞が終わらぬうちに、わたしは先刻受け取った代金をウィルに強引に押し付け、半ば反射的に少女の手を取っていた。
「ごめん、ちょっとこの子借りていくわ! ウィルは先にうちに帰っていて!」
「え? え?」
ぽかんとするアルテアとウィルを置き去りにして、わたしは困惑する少女を詰め所の陰の路地裏に連れ込む。騎士団が常駐する建物のすぐ傍だからか、辺りには誰もいない。
「ここなら、はぁ、しばらく誰も、来ないでしょ」
急に走ったのでちょっと息が上がってしまった。落ち着けるために胸に手を当てる。
「あ、あの……?」
その声に、もう片方の手には少女の手を握ったままだったことを思い出す。彼女は戸惑った表情でわたしのことを見ていた。慌てて手を離す。
「あ、と、急にごめんなさい。怪しい者じゃないわ。わたしはマリナ・ベッカー。ただのパン屋の看板娘よ」
「はぁ」
状況についていけてないのか、少女が生返事を返す。構わずわたしは勢いのままに口を開いた。
「あなた、最近この街に来た子よね?」
「は、はい」
「名前は?」
「え、と、橘……いえ。ミレイ・タチバナ、です」
あまり聞き馴染みのない響きだ。やはり先刻の予想通り外国からの旅人だろうか。
そう。今目の前にいる彼女――ミレイ・タチバナは、事件の前後に現れ、事件現場付近でその姿を目撃されていた、先刻思い起こしていたあの少女だったのだ。
「そう、ミレイっていうのね。ねぇ、ミレイ。単刀直入に聞くわね。この前、貧民街で起きた殺人。それにこの詰め所が襲撃された件。どちらも付近であなたの姿が目撃されてるらしいんだけど……二つの事件について、何か知ってる?」
「え……?」
彼女の口から呆然とした声が漏れる。それを聞いて、ふと我に返った。
いきなり何を聞いてるんだ、わたしは。気持ちが抑えきれずにこんな質問をしてしまったけれど、冷静に考えれば他の人と同じく彼女にとっても、事件そのものが起こっていない認識でしかないはずだ。これ以上口走れば今以上に変な目で見られてしまうのは必定。
「ごめんなさい、突然変なことを聞いちゃったわね。今のは忘れて――」
わたしは慌てて発言を撤回しようとする。しかし、彼女から返ってきた反応は……
「……憶えて、るんですか……?」
「え?」
ミレイは呆然とした表情から一転、顔をくしゃっと歪め、目に大粒の涙を湛え――
「――!」
「うわっと!?」
――唐突にわたしに抱き着き、わっと泣き出した。
「いたんだ……憶えてくれている人が……! もう誰も、元の記憶はないんだって諦めてたけど……こんな、近くに……!」
「えー、と……?」
先ほどとは反対に、今度はこちらが状況についていけてない。なんで急に泣き出したんだろう。
しかもその涙の理由は悲しみ、もありそうだけど、どちらかというと嬉しさが溢れているような……
「……マリナさん!」
「は、はい?」
ミレイはぐずぐずの泣き顔を上向けて、わたしの目をまっすぐ見つめる。そして、こう切り出した。
「私、私は――……別の世界からここにやって来て、何度も死んでループして、過去をやり直してるんです!」
「……へ?」
言葉の意味がすんなりとは理解できず、頭に疑問符が浮かぶ。その中でなぜか特に気になったのは、この単語だ。
ループって……何?
それは、わたしがパン屋の娘だから――だけじゃない。最近になってから度々起こるようになったこの嗅覚への刺激は、パンが身近にない時でもその香りを届けてくる。――事件と、共に。
例えば、怪我をした猫を道で拾った時。
友人のテレサの家(その場から近かったのだ)に猫を運び、手当てをし、その日はとりあえず彼女に預けて帰宅したのだが、ここで、パンの香りが鼻腔を刺激する。そして、次に差し入れを入れたバスケット片手に彼女の家に向かったところ――
「猫? なんのこと?」
と心底不思議そうに尋ねてきた。とぼけているというより、そもそも猫を助けたことさえ全く憶えていない様子だった。
例えば、貧民街で昼日中から殺人事件があった時。
騎士が一人と一般人二人が死体になって発見されるという凄惨な事件が起こり、その噂はこちらの一般市街区にまで届き、にわかに騒ぎになった。しかし、ここでパンが香る。するとその数時間後には騒ぎは不自然なほどに収まり、やがて誰もその話を口にしなくなった。
例えば、騎士団の詰め所が襲撃された時。
魔術によると思われる(誰かが詠唱の声を聞いていたらしい)爆発により、標的にされた詰め所のみならず、近隣の建物まで巻き込んだ大規模な火災に見舞われた。その詰め所はうちのパンをよく贔屓にしてくれているお得意さんだったため、さすがに心配になって見に行ったが、現場は大変な惨状になっており、中からは数人分の焼死体が発見されたと人づてに聞き、心を痛めた。
顔見知りの騎士であるアルテアの姿が見えないことも不安を加速させ、そこに追い打ちをかけるように例のパンの香りがする。そして数日空けて落ち着いてから再び覗きに行ったところ、詰め所はもう何もなかったかのように元通りに復旧しており、そればかりか、周囲に飛び火したはずの火事の痕跡なども綺麗に消えていたのだ。
アルテアの無事もそこで確認できたが、事件について彼女に尋ねたところ――
「あぁ、襲撃犯は現れたが、事前に捕らえることができたよ。火事? いや、そこまでの被害は出ていないが」
という答えが返ってきたため、思わず首をひねる。
(……夢でも見ていたのかしら……)
わたしの認識だけが世間からずれているような気持ち悪い感覚。自分の記憶に自信が持てない。
しかし夢や幻と切り捨てるには、心身共にハッキリとした感触が残りすぎていた。現実感、と言えばいいんだろうか。わたしにとってはここ数日で起きた事件の記憶と、起こらなかった記憶とが、どちらも現実のものと思えて仕方がない。さらに例のパンの香りが、その感触を余計に補強していた。
そして、気になる点はもう一つ。
(あの、見慣れない服を着た女の子……)
不可思議なパンの香りを感じるようになったのと同時期に、ここいらでは見覚えのない一人の少女の姿を、しばしば目撃するようになったのだ。
年の頃は十五、六くらいだろうか。黒髪を短く切り揃えた、可愛らしい少女だった。背はあまり高くない。その特徴だけなら、そこまで珍しくはないけれど……
目を引くのは、着ている衣服だった。
少女は白い上着を着ているのだけど、その背中部分からは直接フードが伸びて一体化している。フード付きのマントとも違うようだ。上着にはポケットが左右についている。
下半身は紺のスカートを穿いているけれど、その丈が短すぎる。膝どころか健康的な太ももまで露出していた。少なくともこの辺りで暮らす一般人女性にはありえない装いだ。通常なら短くても膝下くらいで、かく言うわたしも|脛(すね)まで届くスカートを穿いている。
鎧を纏う騎士や冒険者ならば、動きやすいように短いものやズボンを穿いたりするけれど……その少女はなんの武器も持っておらず、到底そうした職種には見えなかった。かといって、男を誘う娼婦のようにも見えない。
(なら、よそから来た旅人……?)
今まで見かけなかったのだからそうなのかもしれない。が、旅人にしては彼女は汚れが少なく、旅荷物も少なすぎた。背負い鞄(これも見たことのないデザインだった)を一つ持っているだけで、中身もそんなに入っていないように見える。
何より彼女は、事件のあった貧民街や騎士団詰め所などで、複数人から目撃されていたという証言がある。事件自体に関わっているのか、たまたま居合わせただけなのかは分からないけれど……
身の周りで起きる不可解な現象。時を同じくして現れた謎の少女。二つが関連しているかは不明だけど、どちらも無性に気になって仕方ない。とはいえ……
(考えても分からないし、ひとまずしょうがないか)
家業であるパン屋は今日も忙しい。パン作りや販売などの通常の業務に加え、定期的に騎士団などに配達もしなければならない。物思いにふける時間も惜しい。
「母さーん! リター! 配達行ってくるわねー!」
店番をする母さんと従業員のリタに一声かけ、パンを積み込んだ荷運び用の馬車の元に向かう。荷はこぼれないよう布にくるまれている。
「お願いね、ウィル」
「うん、任せてくれ」
馬車と共に待っていた青年――近所に住む幼馴染で、賃金と引き換えによく手伝ってもらっている――に声を掛けながら、わたしは馬を撫でてなだめ、それから先導するように歩き出す。ウィルに手綱を引かれた馬車がそれに続いてくる。
詰め所の場所はここから通り二つほど過ぎた辺りなので、そこまで遠くない。事故もなく無事に辿り着いたわたしたちは、詰め所の玄関口でいつも通りに呼び掛ける。
「すみませーん! パンの配達に来ましたー!」
呼びかけると、そう間を置かずに、中から一人の女性騎士が姿を現す。
「やあ、マリナ。そうか、もう配達の時間か。いつもありがとう。ウィルも荷運びご苦労様」
彼女――アルテアは、平均より少し高めの身長で、長い金髪をポニーテールにまとめたキリっとした女性の騎士。配達の際はいつも彼女が応対してくれるので、わたしもウィルも以前からの顔馴染みなのだ。
「注文通り持ってきたつもりだけど、一応確認してくれる?」
「ああ、今数える。……よし、問題ないな。みんな、中に運び込んでくれ」
アルテアの掛け声で詰め所内にいた他の騎士たちが動き、大量のパンを運び込んでいく。これが彼らの数日分の食料になるのだ。わたしとウィルも手伝った後――
「それでは、今回の代金だ。次もよろしく頼むよ、マリナ」
「ええ。いつも注文ありがとう、アルテア。またね」
いつも通りの態度。いつも通りの挨拶。殺人事件や詰め所の襲撃があったなどとは思えないほど変わりのない……
それに納得のいかない思いもあるが、口に出しても変な目で見られるだけだとも分かっている。なんとか気持ちを抑え込んで、馬車の前で待つウィルと合流し、うちに帰ろうとしたところで……一人の少女が、詰め所までやって来るのが目に入る。
「あぁ、おかえり、ミレイ」
「あ、た、ただいま、アルテアさん。これ……」
「どれどれ……うん。ちゃんと施療院までのおつかい行ってきてくれたみたいだね。ありがとう」
少女から渡された布袋の中身を確認し、アルテアが満足げに頷く。騎士団は訓練や事件への対処で生傷が絶えないし、包帯や傷薬などの備品だろうか。いや、そんなことより……
「アルテア、その子は……」
その少女は、フードと衣服が一体化したような、奇妙な白い上着を着ていた。紺色のスカートは短く、健康的な太ももが露出している。背はわたしより少し低く、黒髪を短く切り揃えた……
「ん? あぁ、そういえばマリナにはまだ紹介していなかったか。彼女は――」
そのアルテアの台詞が終わらぬうちに、わたしは先刻受け取った代金をウィルに強引に押し付け、半ば反射的に少女の手を取っていた。
「ごめん、ちょっとこの子借りていくわ! ウィルは先にうちに帰っていて!」
「え? え?」
ぽかんとするアルテアとウィルを置き去りにして、わたしは困惑する少女を詰め所の陰の路地裏に連れ込む。騎士団が常駐する建物のすぐ傍だからか、辺りには誰もいない。
「ここなら、はぁ、しばらく誰も、来ないでしょ」
急に走ったのでちょっと息が上がってしまった。落ち着けるために胸に手を当てる。
「あ、あの……?」
その声に、もう片方の手には少女の手を握ったままだったことを思い出す。彼女は戸惑った表情でわたしのことを見ていた。慌てて手を離す。
「あ、と、急にごめんなさい。怪しい者じゃないわ。わたしはマリナ・ベッカー。ただのパン屋の看板娘よ」
「はぁ」
状況についていけてないのか、少女が生返事を返す。構わずわたしは勢いのままに口を開いた。
「あなた、最近この街に来た子よね?」
「は、はい」
「名前は?」
「え、と、橘……いえ。ミレイ・タチバナ、です」
あまり聞き馴染みのない響きだ。やはり先刻の予想通り外国からの旅人だろうか。
そう。今目の前にいる彼女――ミレイ・タチバナは、事件の前後に現れ、事件現場付近でその姿を目撃されていた、先刻思い起こしていたあの少女だったのだ。
「そう、ミレイっていうのね。ねぇ、ミレイ。単刀直入に聞くわね。この前、貧民街で起きた殺人。それにこの詰め所が襲撃された件。どちらも付近であなたの姿が目撃されてるらしいんだけど……二つの事件について、何か知ってる?」
「え……?」
彼女の口から呆然とした声が漏れる。それを聞いて、ふと我に返った。
いきなり何を聞いてるんだ、わたしは。気持ちが抑えきれずにこんな質問をしてしまったけれど、冷静に考えれば他の人と同じく彼女にとっても、事件そのものが起こっていない認識でしかないはずだ。これ以上口走れば今以上に変な目で見られてしまうのは必定。
「ごめんなさい、突然変なことを聞いちゃったわね。今のは忘れて――」
わたしは慌てて発言を撤回しようとする。しかし、彼女から返ってきた反応は……
「……憶えて、るんですか……?」
「え?」
ミレイは呆然とした表情から一転、顔をくしゃっと歪め、目に大粒の涙を湛え――
「――!」
「うわっと!?」
――唐突にわたしに抱き着き、わっと泣き出した。
「いたんだ……憶えてくれている人が……! もう誰も、元の記憶はないんだって諦めてたけど……こんな、近くに……!」
「えー、と……?」
先ほどとは反対に、今度はこちらが状況についていけてない。なんで急に泣き出したんだろう。
しかもその涙の理由は悲しみ、もありそうだけど、どちらかというと嬉しさが溢れているような……
「……マリナさん!」
「は、はい?」
ミレイはぐずぐずの泣き顔を上向けて、わたしの目をまっすぐ見つめる。そして、こう切り出した。
「私、私は――……別の世界からここにやって来て、何度も死んでループして、過去をやり直してるんです!」
「……へ?」
言葉の意味がすんなりとは理解できず、頭に疑問符が浮かぶ。その中でなぜか特に気になったのは、この単語だ。
ループって……何?
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