あのパンの香りが届かないように

八月森

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10話 うちに誘って正解だったってことね

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「それじゃ、実際にパンを作っていくわよ」

「はい、お願いします」

 食事を終えたわたしたちは作業場に移動していた。全員エプロンと三角巾を身に着けている。

 複数人の徒弟に教えていた経験もある我が店には、道具や場所にもある程度の余裕がある。わたしがミレイを、少し離れた場所では母さんがリタを、それぞれ一対一で指導する形だ。粉を入れる深さのある練り台の前に立ったところで、わたしはミレイに問いかける。

「そういえばミレイは、自分でパンを作った経験はあるのかしら」

「いえ、初めてです。好きなので、よく買って食べてはいたし、大まかな作り方は知っているんですけど」

「そうなんだ。パンが好きなのはいいことね」

 パン屋の娘としてはそれだけでも嬉しい。そう思ったところで、ミレイがポツリと呟く。

「……それにパンなら、部屋で一人で食べれば済みますし……」

「え?」

「い、いえ、なんでもありません」

「そう?」

 よく聞き取れなかったけれど、本人がなんでもないというならまぁいいか。

「作るの初めてなら、今日はひとまず見学だけのほうがいいかしらね。まずは流れを掴まないと教えたことも呑み込めないでしょうし」

「そうしていただけると助かります……」

 恐縮して頭を下げるミレイに苦笑しつつ、準備を整える。上から紐で吊るしたふるいにライ麦粉を入れていく。

「それじゃ、まずは粉のふるいがけね」

「ふるいがけ……そのままでは使わないんですか?」

「粉を挽いただけだとまだ荒くて、大きな粒とか殻の破片とかが残ってるからね。それに、毒が混ざってることもあるし」

「ど、毒……!?」

麦角ばっかくって言って、ライ麦にはたまに混ざってることがあるの。口に入れると色々危険な症状が出るから、ふるいがけの段階でちゃんと取り除いておかなきゃいけないのよ」

「……」

 ミレイが沈黙する。ことのほか衝撃が大きかったようだ。

「聞いたこともないってことは、ミレイの世界ではそういう心配いらないのかしら」

「……私が暮らす現代は製粉技術が発達してて、そのまま使っても大丈夫って聞いたことがあるので……多分、そういうのが全部取り除かれた状態で売っているんだと思います」

 だからそのまま使わないのかと聞いてきたのね。

「それは……羨ましいわね。ふるいがけも結構大変なのよ。さっきも言ったけど、安全のためには必要だし、何度も繰り返さないと十分に取り除けない。規則正しくふるわないと粉も均一にならないしね」

 言いながら、手際よくふるいがけを終わらせる。こう見えても親方の資格を持ってるパン職人だからね。慣れたものよ。

「上手く分けられたら、サワー種と水を入れて混ぜていくわ」

「サワー種?」

「ライ麦と水で作るパン種よ。ライ麦で作るパンは他のパン種だとあまり膨らまないけど、サワー種は上手く膨らませてくれるの」

「へぇ……」

「それでも白パンよりは膨らまないし、使うためには長い時間寝かせておかないといけないけどね。この種は、昨日仕込んだもの。これを混ぜて……あとは、ひたすら、こねる!」

 これが結構重労働。しばらくの間はこね続けなきゃいけない。額や頬を汗が伝う。

「ミレイ! 今手が離せないから代わりに汗拭いて!」

「は、はい!」

 生地をこね続けながら、彼女に布で汗を拭いてもらう。これも徒弟の仕事の一つだ。

「こね上がったら、しばらく生地を寝かせておく。その間にかまどに火をつけるわ」

 かまどの前に移動し、火打石に火打金をぶつけて火口ほくちに火を点け、火種を薪に移し……そうして育てた火がかまどの中で立派に燃え盛るのを見届けてから蓋を閉じ、ミレイの手を取り作業場の隅の椅子に座らせる。わたしも隣の椅子に腰を下ろした。

「生地を寝かせるのもかまどが暖まるのも時間がかかるから、しばらくは休憩ね。生地の大きさが倍ぐらいになったら作業再開」

「分かりました」

 二人揃って一息つく。

「それにしても不思議よね。魔術も使ってないのに、こねて寝かせておくだけで膨らんでいくんだから。これも大地の女神の恵みなのかしら」

「発酵してるんですよね。確か、酵母菌の働きで炭酸ガスやアルコールを発生させて――」

「はっこう? こーぼきん……?」

「え? あ……そっか。そういえば、発酵って概念が広まったのは結構近年になってからって聞いたような……すみません、なんでもありません」

「そう?」

 よく分からないけど、まぁいいか。と思うと同時に、しみじみ感じる。

「……ミレイは、ちゃんとした教育受けてる感じがするわよね」

「え? 急にどうしたんですか?」

「いえ、薄々思ってはいたのよ。言葉の端々が賢そうだなって。今もわたしにはよく分からないこと言ってたし。わたしは、神殿で読み書きや簡単な計算教わっただけだから、それとは違うなって」

 それを聞くと、ミレイは少し言葉を選んだ様子で答える。

「……私の住んでた国では、九年間無償で教育が受けられましたから」

「九年も!? しかもタダ!?」

 神殿はこっちから寄進を納めないと勉強させてくれないのに!?

「はい。だから、教育の水準は高いほうだと思います。私を賢そうだと思ってくださるなら、そうして受けた教育のおかげなんじゃないかと」

「はー……白パンが普通に食べられることといい、ミレイの国は豊かなのね」

「そう、ですね……他の国に比べれば治安もいいですし、恵まれたほうだと思います」

 わたしは感嘆のため息をつきつつ、わずかな間、押し黙る。そして、躊躇いがちに問いかけた。

「……ねえ、ミレイ」

「はい? なんですか?」

「……うちに来たこと、後悔してない?」

「え……?」

 戸惑うように聞き返すミレイ。言葉にこそしなかったが、その先の台詞も聞こえた気がした。どうして、そんなことを聞くのか、と。

「その……あの時、ミレイがこの世界で一人ぼっちだと思って、この世界で生きていけるようにって、勢いでうちに連れてきちゃったけど……本当に、それでよかったのかしら」

「……」

 彼女は何も言わない。反応を待たずにわたしは口を開き続けた。

「話を聞くだけでも、ミレイの世界はいいところよ。治安がいいのも、タダで勉強ができるのも、白い小麦粉が普通に使えるのも羨ましい。それに比べてこっちは土地が痩せてるし、魔物の被害も常に警戒しないといけない。家族にだって会いたいでしょ? だったら、今からでも元の世界に帰る方法を探すほうがいいんじゃないか……元の世界に、帰りたいんじゃないか、って……」

 それは、ミレイを連れ帰ってきてからずっと抱いていた懸念だった。
 この子のことが放っておけなくて、胸に溢れた勢いだけで行動してしまったけれど……向こうの世界の話を聞く度に、こちらとの差を痛感させられ、本当は帰りたいんじゃないのかと、柄にもなく不安を抱いていた。
 彼女の気持ちを、今後を、真剣に考えるなら、うちに招いたのは本当に正しかったのか――

「――マリナさん。私、向こうの世界でも一人ぼっちだったんです」

 思わず顔を上げる。言葉とは裏腹に、少女の表情に悲しみの色は薄かった。

「一人……? ……家族は?」

 そう問いかけると、彼女は頭上を小さく見上げ、思い出すように口を開く。

「お父さんは、仕事と自分を第一に優先して、家庭を顧みない人でした。不機嫌になると黙って威圧してくるタイプで、私は子供の頃から機嫌を損ねないようにビクビクして暮らしていました。褒められた記憶もありません」

 そんな寂しいことを語る彼女の横顔は、どこか晴れやかさを感じさせた。

「お母さんは、そんなお父さんに嫌気がさしたのか、別の男の人を家に連れ込むようになりました。私は邪魔者扱いされて、生活費だけ渡されて放っておかれて……お店で買ってきたパンを、部屋に閉じこもって一人で食べる毎日でした」

「……」

「友達もいません。自分から話しかけるのは苦手でしたし、いつもオドオドしてるからか、いじめられることもありました。私の居場所なんてどこにもなかったんです。だから、マリナさん」

 ミレイはふわりとわたしに笑いかける。

「こっちの世界に来て、マリナさんたちに出会って、一緒にご飯を食べられて……私、すごく嬉しかったんです。確かに向こうに比べれば不便なところもあって、生活に慣れるのも大変ですけど、それでも、私はこの世界で生きていきたい」

 こちらに向けられるその瞳に、嘘はない。少なくとも、わたしにはそう感じられた。

「……本当に、元の世界に帰らなくていいの?」

「はい。そもそも方法があるかも分からないですし。このお店で、きちんとパン作りを教わって、自分の力で生活できるようになりたいです」

「……そっか。うん、そうね。ミレイが納得してるなら、それでいいわ。つまり、結果的にはうちに誘って正解だったってことね!」

「ふふ、そうですね」

 ミレイが可笑しそうに笑う。あの時連れてきた結果、この笑顔が見られたと思えば、わたしの勢い任せの行動も捨てたものじゃないと思える。あー、ホっとした。

「結構時間も経ったわね。そろそろ生地の様子を見に行きましょうか」

「はい」

 二人揃って立ち上がる。ひとまず休憩は終わりだ。

「生地が無事に膨らんでいたら、もう一度寝かせて、あとは取り分けて成形して焼き上げるだけ。レシピごとに細かい工程が違ったりもするけど、大まかな流れはこんな感じね。覚えられそう?」

「はい。頑張って覚えます」

「よろしい」

 今後の生活が懸かっているからか、元から真面目だからか、ミレイは真剣な表情でわたしの言葉に頷く。真面目に聞く子にはこちらも応えたくなる。
 彼女を一人前のパン職人にするべく、わたしはその後の指導に熱を入れるのだった。
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