あのパンの香りが届かないように

八月森

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19話 何度も繰り返してきたのよね

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 ――ふわりと、パンの香りを感じる。焼き立てのパンの香ばしい香り。

 けれどそれは、いつもうちで嗅いでいるものとはどこか違う。嗅覚と共に記憶を刺激する、わたしが作るものとは別のパンの香りで……
 この香りが鼻腔に残っているってことは……

「――マリナさん!」

「……ん……」

 悲痛な声で名前を呼ばれ、わたしは目を覚ました。
 いや、というより、最初から目は開いていたのに、目の前の景色が視界に入っていなかった感じだ。気に留める意識が消えていたから、受け止められなかった。今は、心配そうな表情でこちらを見ていた少女の顔が――その顔が安堵に歪むのが、ハッキリ見える。

「ミレイ……?」

「マリナさん……よかった、無事で……」

 無事で、って、何をそんなに心配して……というか、わたし、今まで何をして……? なんだかパンの残り香も感じて……

 右を見る。左を見る。見覚えがあるようなないような裏路地だ。視線を下に向ける。わたしは建物の壁を背にし、地面に座り込んでいた。再び顔を上げる。泣きそうな顔を見せるミレイと、その後方で取り押さえられる黒いローブの男たちの姿――

 そこまで目にしたところで、意識を失うまでの出来事が洪水のように脳内に押し寄せ、今の状況を認識させてきて……ああ、そうだ。わたしは……

「……! ――ミレイ!」

「わっ!?」

 わたしは彼女を強引に引き寄せ――

「マ、マリナさん?」

 ――困惑する彼女にしがみつき、強く、強く抱きしめた。

「ミレイ……ミレイ……!」

 そのまま、胸に蘇ったとてつもない恐れに――死の恐怖に、身を震わせる。

 生前の善悪を量られ、善行のほうが多ければ神々の園へ招かれ、その後に新たな生を得るという、神殿が教える死後の希望。

 けれど、つい先刻味わった感覚は、そんな希望など全く見出せないほど暗く、冷たい、恐ろしいものだった。次の生など望めない、目覚めの時など訪れない、永遠の眠り。わたしという意識が消えてしまう恐怖。

 その恐怖が、わたしの心に多大な衝撃を与えていたのだろう。ミレイの加護でこうして死ぬ前の過去に戻っても、しばらく心神喪失から抜け出せないほどに……

「……怖かった。痛かったし、苦しかった。もう、二度と目が覚めないのかと思った。死ぬって、こんなに辛くて、怖いんだ、って……わたし……」

「……大丈夫。もう大丈夫ですよ、マリナさん。怖かったですよね――」

 震えるわたしを、ミレイが抱きしめ返す。背に回された手がわたしを慰めようと力を込める寸前で――

「――こんなに怖い思いを、ミレイは何度も繰り返してきたのよね……」

「!」

 彼女の身体がビクリと強張る。息を呑む音が聞こえた気がした。

「今も、あのパンの香りが残ってた。わたしを助けるために、死ぬ目に遭ったってことでしょ……? でなきゃ、あの傷でわたしが生きてるはずないもの。まったく、結構無茶するわよね、あなたは……」

「……それは、その……」

 とがめられたと思ったのか、叱られた子犬のようにしゅんとするミレイ。わたしは彼女の頭に手を添え、そっと撫でた。

「でも、あなたが無茶をするのは、いつも誰かを助けるためだものね……だから――ありがと」

「う……マリナ、さん……」

 わたしを抱く手に力が入り、わずかに震えが伝わる。少し泣いているのかもしれない。死の苦痛に恐怖。その苦労を理解された喜び。それらの気持ちが混濁しているのかもしれない。他人を助けるために何度も死に飛び込む気弱な少女。ああ、やっぱりこの子は放っておけない。そうだ、本当に怖いのは――

(――……怖いのは、ミレイを置いてわたしが死ぬこと。やり直しても記憶を保ってる唯一の人間であるわたしが死ねば……この子は、になってしまう。……それだけは、できない。もう、この子を一人になんてさせない……!) 

「マリナ! ミレイ! 無事か!?」

 そこで、こちらを呼ぶ声が聞こえてくる。わたしはミレイから身体を離し、奥にいる彼女に顔を向けた。

「アルテア。ええ、わたしたちは大丈夫よ。そっちは?」

「こちらも負傷者はいないし、賊も逃さず取り押さえることができたよ。君たちも怪我がなくて何よりだ。さっきの今でミレイの叫び声が聞こえた時は、何事かと思ったけどね」

 少し悪戯っぽく笑うアルテア。基本真面目一辺倒だけど、場を和ませるために冗談言ったりもするのよね。言われたミレイはちょっと恥ずかしそうにしてたけど。
 それに少し微笑ましさを覚えつつも、わたしは表情を引き締め、口を開く。

「アルテア。あの三人は昼の鐘を合図に、この近辺の建物を爆破して暴動を起こすって言ってたわ」

「なんだって? なんのためにそんなことを?」

「確か、騎士団や冒険者の注意を引くため、って……」

「……陽動、ということか? つまり、それは――」

「ええ。その隙に、司祭が目的を果たすとかなんとか……」

「司祭……悪魔を信奉する集団に、序列が……? 思った以上に組織立っているのか……? それに……。……お前たち、その目的というのは――」

 アルテアの後半の台詞は、捕らえた悪魔崇拝者たちに向けてのもの。彼らにその計画の全容を吐かせようとしたところで――

 カーン、カーン、カーン……

 神殿の鐘楼しょうろうが鐘を鳴り響かせる。いつの間にか昼の時刻になっていたらしい。この音を合図に彼らは行動を開始するはずだったのだ。

(けど、悪事を働こうとした連中は捕まえたんだから、もう大丈夫――)

 そう考えたところで――遠く離れた場所から爆音が鳴り響き、地面がかすかに揺れた。それも、幾度か続けて。

「えっ!? な、何!?」

 わたしは反射的にビクリと身体を震わせた。ミレイも同様だ。アルテアは何が起きているのか確かめようと、左右をキョロキョロ見回している。その奥で、縄で縛られた悪魔崇拝者たちの一人、例の眼鏡の男が笑みを浮かべているのが視界に入り……それと同時に、嫌な予感が脳裏に走る。

「もしかして……」

 わたしが何かに勘付いたことに、男も気づいたのか。浮かべていた笑みをさらに深くして愉快そうにこちらを見てくる。わたしは思わず食ってかかった。

「どういうこと!? 最初に動くのはあなたたちのはずじゃ……!」

「ハハっ! 動くのが僕らとは言っていないよ。初めから、他の場所でも同時に暴動を起こす予定だったのさ」

「そんな……!?」

 振り返ったミレイが悲痛な声を上げる。アルテアは男に鋭い視線を向けるが、それに男は勝ち誇った顔を返す。

「陽動は三か所。僕らは失敗してしまったが、他の二か所は無事成功したようだ。今頃、暴動の報告が騎士団本部に届けられ、対応を迫られている頃だろうね。いや、その後の対応が早ければもう、君たち以外の騎士は現場の鎮圧に駆り出されているかもしれない」

「……そうして戦力を分散させている間に、手薄になった場所で目的を果たすというわけか。……それは、どこだ? ――目的とは、なんだ?」

「焦らなくても、じきに分かるさ。……ほら、聞こえてくるだろう……?」

 聞こえる? 何が……?

 疑問に思ったところで、鐘楼の鐘が、カン、カン、カン、カン! と、短いリズムで激しく打ち鳴らされる音に変わる。有事の際に市民を避難させる際の鳴らし方だ。先ほどの爆発に対してのものだろう。しかし、それがしばらく鳴り響いた後で――

 ドォン!!

 と、鐘の音を上回る爆音――さっきのものより近い――が再び響いたかと思うと……避難を呼びかける鐘の音が、

「……まさか……」

 アルテアがわずかに血の気の引いた様子で表通りに顔を向けてから、騎士たちに呼びかける。

「ラルフ! アウグスト! 君たちは賊の護送を頼む! ディルクは私についてきてくれ!」

 駆け出すアルテアとディルク。わたしとミレイも立ち上がり、彼女たちの後を追う。

 表通りを抜け、大通りに出ると、人々は混乱していた。立て続けの爆音に驚いた――だけじゃない。彼らはその場で立ちすくみ、ある一点を凝視して顔を青褪めさせていた。わたしたちもそちらに視線を移し……その理由を、否応なく理解させられる。

 そこにあったのは、この街を代表する建造物であるアスタリア神殿――その中でも最も高い場所にあり、人々に時刻を、報せを、危険を告げてくれるはずの――

「……鐘楼が……」

 街を守護する象徴たる鐘楼が……無残にも、破壊されていた姿だったのだ。

「なんてことだ……」

 普段冷静なアルテアも、さすがに呆然と呟く。しかし、騒ぎはそれだけにとどまらなかった。
 街の東側から、大勢の人々が殺到してきたのだ。彼らは何かに追い立てられるように、必死の形相で足を動かし続ける。その恐怖に満ちた悲鳴の一つが、わたしの耳に入り込んできた。

「誰か、誰か助け――追いかけてくる――……魔物が!」
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