あのパンの香りが届かないように

八月森

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20話 少しくらいは、借りを返せたかよ

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 私も、マリナさんも、アルテアさんも、状況をすぐには理解できずに混乱していた。なぜなら――

「魔物が……東門から、魔物が!」

「逃げろ! 殺されるぞ!」

「どけ! どいてくれ!」

 そう口々に叫び、必死の形相で、街の東側から市民が大挙して逃げてきたからだ。

「魔物だって……!? 鐘楼が破壊されたこんな時に……! いや、それより、東門の守備隊が突破されたのか……!?」

 押し寄せる人の波に耐え、アルテアさんは街の東側に険しい視線を飛ばす。彼女を尻目に、人々は東門から離れようとパニックを起こしながら大通りを駆け抜けていく。その背後から――

「ゲギャァ!」

 緑色の肌。子供ほどの背丈。尖った耳に黄色く濁った瞳を持つ人型の怪物が数匹、おぞましい奇声を上げながら、手にした武器を掲げ、逃げる人々を襲おうと追いかけていた。

(あれが、魔物……!?)

 その特徴から、おそらくゴブリンだと推察できる。ファンタジー作品に触れたことのある人なら誰でも知っているモンスターだ。作品によっては一般人でも倒せるほど弱かったり、人に友好的に接するほどの知性を持っていたりもするけれど……

「ガアァ!」

 尖った歯を剥き出しにし、理性の感じられない瞳を爛々と光らせるその姿。この世界に来てから初めて遭遇する、現実に直面する怪物の異様は、容易に死の恐怖を私に抱かせる。

 人々が逃げ惑うのも無理はない。向けられる敵意に身体が強張る。人々の逃げ道を護るように騎士の二人がゴブリンたちを迎撃する。それを、見ていることしかできない。

「くっ、数が多い……!」

 ゴブリンの石斧の一撃を防ぎながら、ディルクさんが苦々しそうに呟く。よく見れば、ゴブリンの他にも犬頭で二足歩行の魔物や、地を駆ける狼のような魔物も彼らを襲っている。アルテアさんも複数の魔物に襲われ身動きが取れていなかった。その脇を、他の個体がすり抜けて……

「あ……」

「! ミレイ! 逃げろ!」

 アルテアさんが発する警告の声がどこか遠くに聞こえる。ゴブリンの一匹が棒立ちになっていた私に狙いを定めたようだ。しかし逃げようにも、足が動かない……

「――ミレイっ!」

 横から抱き着かれ、地面に押し倒される。マリナさんが私をかばって覆い被さってくれたのだ。けれどそれじゃ、今度はマリナさんが魔物の毒牙にかかって――

(――! そんなこと、させない……!)

 ここでようやく私の身体は動いてくれた。マリナさんと入れ替わるように転がり、魔物の武器を私の背中で受け止める体勢を取る。
 こんな行動に意味はないのかもしれない。極端な話、仮にマリナさんが殺されたとしても、すぐに私も後を追えば、死ぬ前の時間にループすることができるはずだ。でも……

(もう、マリナさんに死ぬ思いなんてさせたくない……!)

 どのみちループするのなら、死ぬのは私だけでいい。訪れるその時を目をきつく閉じて待ち構え……

「ギュ、ギ……!?」

「……?」

 待ち構え……けれど、いくら待ってもそれが訪れないことを不思議に思い、目を開けて周りを見ると……

「帰りが遅ぇから探しにきてみれば……」

 そこには、私たちを襲おうとしていたゴブリンを、いつか見た短剣で切り伏せている、赤髮の少女の姿。

「何やってんだよ、あんたら」

「リタさん!」

 そう。元貧民街の少女で、今はお店の同僚であるリタさんが、私たちを助けてくれたのだ。

 その頃には周囲の魔物は一掃されていた。騎士の二人はまだ周囲を警戒していたが、それは彼らに任せればいいと判断したのか、リタさんは息を一つ吐きながら短剣を鞘に納める。

「……少しくらいは、借りを返せたかよ」

「え?」

 よく聞き取れず聞き返してしまうと、リタさんは少し顔を赤くしながらまくしたてる。

「~~なんでもねぇ。それより、今の状況だ。大きな音と揺れがきたと思ったら避難の鐘が鳴り響いて、今度はそれが途中で止まりやがった。外に出てみればこの大騒ぎで、しまいには街中で魔物を見る始末だ。いったいどうなってんだ?」

「それが……」

 説明のために口を開こうとしたのだが――

「あの、ミレイ……もう大丈夫みたいだから、降りてもらえると……」

 私に庇われ下になっていたマリナさんが、少し申し訳なさそうに声を上げるのが聞こえた。

「あ、す、すみません!」

 慌てて彼女の上から退いて立ち上がると、彼女は自分よりも私の様子を確かめるように視線を向けながら、その場で立ち上がる。

「目立った怪我はないみたいね。まったく……あなたは本当に無茶をするんだから」

「だ、だって、あのままじゃ、マリナさんが死んでしまうかもしれなくて……」

「わたしは……仕方ないじゃない。身体が勝手に動いちゃったんだから」

「それなら、私だって……!」

「おい、そこの二人。イチャついてんじゃねーぞ」

「「違っ……!」」

 リタさんの言葉に二人揃って抗議しようとしたところで――

「マリナ、ミレイ、リタ。三人とも無事かい?」

 周囲の安全は確保したのだろう。アルテアさんとディルクさんがこちらにやって来る。

「アルテア。ええ、リタのおかげで助かったわ」

「本当に、ありがとうございました、リタさん」

「そうか。君が来てくれて助かったよ、リタ。私とディルクだけでは危うく護り切れないところだったからね」

「そ――んなに褒めても、何も、出ねぇからな……」

 立て続けに感謝されたリタさんは顔を赤くして照れてしまった。かわいい。面と向かってお礼を言われることに慣れていないのかもしれない。その様子を微笑ましく見守ったところで――

「さて、あまりのんびりもしていられない。人々の動きから見ても、魔物が侵入したのは東門からだと思って間違いないだろう。私とディルクはそちらに向かい、守備隊の状況を確認してこようと考えている」

 そのアルテアさんの言葉に、マリナさんが疑問を差し挟む。

「悪魔崇拝者のほうは? 鐘楼を破壊したのは彼らでしょう?」

「確かにそちらも問題だが、まずは魔物の対処が最優先だ。そうだろう?」

「……そうね。確かにそうだわ。でも……」

 マリナさんはそこで言い淀む。その理由を、私はなんとなく理解していた。

 理屈では分かっているのだ。ただ、私と同様、悪魔崇拝者たちの不気味さを肌で感じ取った彼女は、彼らの動向が気になって仕方がないのだろう。

 いや、もしかしたら、このタイミングで魔物が侵入してきたことさえ彼らの仕業だと考えているかもしれない。――私と、同じように。

 ただ、それには根拠がまるでない。悪魔崇拝者たちの言葉からその可能性を連想したというだけだ。この状況でどちらを優先するべきか、どう行動するべきかの判断も、情報が少なくてつけられない……

「とにかく、君たちはお店に帰ってしっかりと鍵をかけて閉じこもるんだ。安全が確認されるまで身を護って――」

「あ、あの!」
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