あのパンの香りが届かないように

八月森

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27話 分の悪い賭けでしたけど

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「ミレイ!!」

 背後から響く蹄の音と共に届けられたのは、少し前に別れたはずの――ここで聞こえるはずはない、彼女の声。けれど、反射的に振り向いた私の目に映るのは、間違いなく彼女――マリナさんだ。

 その姿を認めて嬉しさを覚える私もいたが、それ以上に激しく驚愕し、狼狽する。こんな危険な戦場に来れば命に係わることくらい、彼女も分かっているはずだ。それなのに、どうして……!

 しかし、その理由に気づく間もなく、再び彼女が叫ぶ。

「――これ、使って!」

 そう言って、マリナさんは背負っていた荷物を馬上から投げ渡してくる。緩やかな放物線を描いて飛んでくるそれは、店の自室に置いてあったはずの私のリュックだった。

(……???)

 体感時間が鈍化し、スローモーションで飛んでくる私のリュック。それが到達するまでのわずかな間に、私は頭に疑問符を浮かべていた。

 だって、彼女の意図が分からない。危険を冒してまでこの場所にやって来たのも、そうして届けた物がこのリュックなのも、理由が分からない。戦況を変えるような物は入っていないはずだ。この中に入っているのなんて、せいぜい……

(――! もしかして……!)

 それは、ふとした閃きだった。同時に、思い出したこともある。マリナさんに街を案内された際、自分が口にした言葉。神話と英雄譚。その中の一人――

 それが本当に可能かどうかも分からない。正直に言えば賭けだ。けれど、これしかないと直感したのだ。私はリュックをしっかり受け止め、急いでバックルをパチンと外し、蓋を開ける。そして、ある物を取り出してから再び前を向き、

「あら? ようやく私と目を合わせてくれる気になったのですか? 嬉しいですね。でしたら、さあ、今度こそ……お友達に、なりましょう――?」

 リーゼさんの紫色の瞳が同色の光を帯びる。あの瞳と視線を合わせれば、私は善悪の区別を失い、選択を誤り、彼女同様に正気を失ってしまう。だから――

 だから私はリュックから取り出したそれを――コンパクトを開き、鏡の側を外に向け、私の目の高さに……リーゼさんと視線が交わる位置に、掲げた。

「――!?」

 悪魔の加護であるリーゼさんの視線は鏡によって反射され、光の速さで彼女自身に返っていった。

「え、あ……? は……?」

 すでに悪魔の声を聞き、正気を失っていた彼女に、悪魔の加護はどう働いたのか。彼女はその場で膝をつき、虚空を見つめて呻いていた。

「……英雄ペルセウスは、鏡のように磨き抜かれた盾にメドゥーサの姿を映し出すことで、自身が石になるのを防ぎ、彼女を討伐した……正直、分の悪い賭けでしたけど……」

 そう。それが先刻思い出した、かの英雄の物語。〝相手の姿を鏡に映し出す〟ことで、リーゼさんの視線を彼女自身に返せば、この事態を打開できるのでは、と考えたのだ。まぁ、ペルセウスはメドゥーサの視線を反射させたわけではないけれど、もしかしたら、という閃きの参考にはなった。実行し、成功するかは本当に賭けだったが……どうやら、賭けに勝ったらしい。

「あ……ぁ……」

 リーゼさんは私の言葉に反応を見せない。焦点の合わない瞳で宙を眺めるだけだ。許容量を超え、脳の処理能力がパンクしたのか。あるいは、ここで茫然自失で座り込むことが、彼女にとっての誤った選択なのか。

「魔物の動きが止まった! ディルク! 今のうちに二人の安全を確保してくれ!」

「了解しました!」

 意識を乗っ取っていたリーゼさんの意識が奪われたからだろうか。魔物たちも同じように動きを止め、虚空を見つめていた。訪れた好機にアルテアさんとディルクさんが猛然と剣を振るい、劣勢を挽回する。

 周囲を見れば、仲間に斬りかかっていた守備隊の面々も、魔物たちと同様に呆然とし、武器を握っていた腕を力なくぶら下げていた。斬りかかられていた騎士たちは初め怪訝な様子を見せていたが、もう同士討ちの心配がないと分かると続々とこちらにやって来て、アルテアさんたちの加勢に回る。

 まだ魔物たちは多数残っており、時間をかければ正気を取り戻す可能性もあるため、あまり悠長にはしていられない。けれど、大勢たいせいは決したと見ていいのではないだろうか。ひとまずこれ以上街が襲われることはないだろう。

 それもこれも、マリナさんが私のリュックをこの場に持ってきてくれたおかげだ。仮に方法を思いつけていたとしても、リュックに入れていたコンパクトがなければ実現不可能だった。彼女がリュックを丸ごと持ってきてくれたおかげで……そういえば、なんで持ってきたんだろう。

「あの、ミレイ? 今、何がどうなってるの?」

 その本人はミルトちゃんから下りると、棒立ちの魔物たちを恐る恐る眺めながら不思議そうな顔を浮かべている。それがなんだか可笑しい。私は彼女の質問に質問で返した。

「マリナさん。どうして私の荷物を、ここまで持ってきてくれたんですか?」

「え? だって、ミレイが無事に帰ってくるのを待ってたら、不意にあのパンの香りがして……またあなたが無茶をして死ぬ目に遭ってるんだと思ったら、居ても立っても居られなくなって……」

 そうだ、私が死んで過去に戻ると、マリナさんは不可思議なパンの香りを嗅ぎ取るんだった。さっき一度死んだのもバレているんだ。なんだかちょっと恥ずかしいし、心配かけて申し訳ない。

「それで、なんとか助けられないかと思ってたら、ミレイの荷物の中に『ばんそーこー』があるのを思い出して……」

「……絆創膏?」

「ええ。それがあれば怪我が治せるんでしょ?」

「確かに、ちょっとくらいの傷なら治せますけど……」

 とはいえ、戦場で負うような怪我に使うには足りなくて誤差の範囲のようなものだし、仮に使ったとしても魔法みたいに即座に治るわけじゃない。彼女は絆創膏の効力を過信しすぎて……いや、この状況、短い時間では、そんな物しか頼れるものがなかったのかもしれない。それでも来てくれた彼女に感謝するしかできない。

「でも、どうして荷物全部……?」

 それを聞くと、マリナさんはちょっとだけ恥ずかしそうに顔を赤らめる。

「……だって」

「だって?」

「開け方分からなかったし……」

「え? あ……」

 言われてみれば、現代技術であるプラスチックのバックルが、この異世界に存在するとは考えづらい。開け方の説明もし忘れていたし、分からなくても不思議はないかもしれない。

 つまり、そのおかげで彼女はリュック丸ごとを――その中のコンパクトごと、ここまで運んできてくれて、結果として私はリーゼさんの加護を防ぐことができた……?

 一歩間違えればこちらが破滅していた綱渡りの状況だったことに内心でゾっとしたが、それ以上に胸にこみ上げてくるものがあって……

「あ――あはは! あははは!」

 私は笑った。

 まだ危険な戦場にいることは変わりないのに、可笑しくて堪らなかった。

 この世界の神々は肉体を破壊され、触れる手を失ったと聞いた。神の奇跡がない世界だ。そのはずなのに、私にはこの一連の出来事が、神さまが贈ってくれた小さな奇跡のように感じられたのだ。そして、その奇跡を引き起こしたのは……

「ミ、ミレイ?」

「あははは……! ごめんなさい、本当に、嬉しくて……マリナさんに会えてよかった、って思ったら、気持ちが抑えられなくて」

「え、な、何それ。なんで今、そんな……?」

 照れて狼狽えるその姿に、私はまた笑った。それはこの世界に来てから初めての、心の底からの笑顔だった。
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