未亡人クローディアが夫を亡くした理由

臣桜

文字の大きさ
15 / 58

イグナットの死

しおりを挟む
 あとは結婚誓約書にお互いサインをし、形式上の夫婦となる。

 イグナットは調子のいい日と悪い日があるようで、クローディアは毎日ソルに彼の体調を聞いて、良さそうな日には食事を彼の寝室に運び、一緒に食べていた。

 いくらイグナットが結婚は形だけと言っても、冷たい関係の夫婦になるのは嫌だ。

 イグナットは優しくて良い人だし、あと数年しか生きられないのなら、楽しい思い出を作ってあげたいと思った。

 バフェット城の使用人たちとも徐々に仲良くなり、クローディアが連れてきた侍女や騎士たちも、この土地の者たちに受け入れられているようで安心した。

 ラギや騎士たちと一緒に湖まで行って釣りをし、料理人に採れた魚を調理してもらった。

 その魚料理をイグナットの元に自ら持って行き、「私が釣ったのですよ!」と自慢げに言うと、彼は楽しそうに目を細めてくれた。

 クローディアはあえてありのままに振る舞い、イグナットを笑わせた。

 ソルも涙ぐんだ様子で「こんなに楽しそうな旦那様を、近年見た事がありません」と感謝を述べてきた。

 城の者たちは全員イグナットを敬愛しているようで、彼に良い変化を与えたクローディアの事も、いつしか好いてくれるようになっていた。





 だが楽しく穏やかな生活も、永遠には続かない。

 イグナットに面会できない日は増えてゆき、バフェット領に来て二年目の冬に彼は帰らぬ人となった。

 大量の血を吐いての最期だった。

 ソルに「お辛そうにしている姿を、クローディア様に見せたくないと言われています」と制されても、クローディアはイグナットの寝室に入った。

 覚悟を決めた瞳で次第に生気を失うイグナットを見つめ、最期の最期まで、彼の手を両手で握っていた。

 彼が亡くなった冬の朝、連日イグナットに付き添っていたため寝不足になっていたクローディアも、緊張の糸が切れて気を失ってしまった。

「お嬢!」

 焦ったラギの声が聞こえた気がしたが、椅子ごと倒れるようにして、クローディアは意識を失った。





 目が覚めると、四柱式のベッドの帳の向こうで、暖炉の火が爆ぜる音が聞こえる。

 薄暗い中でゆっくりと手をもたげ、表、裏と返してイグナットの手を握っていた己の手を確認する。

「……ラギ」

 小さな声をかけると「ここにいます」と護衛の声がした。

「イグナット様は?」

「そのまま、寝室にいらっしゃいます。今、城の者が葬儀の準備をしています」

「……そう」

 肺にある空気をすべて出すような溜め息をつき、クローディアは眦から涙を零した。

「……いい人、だったわ」

「はい」

「……っ私、最初はこの縁談をとても嫌だと思ってしまったの。お爺さんに嫁ぎたくないって……、酷い事を考えてしまったわ」

 涙混じりのクローディアの懺悔を、ラギは黙って聞いてくれる。

「それなのに、イグナット様はすべてを了解した上で、私を温かく迎え入れてくださった……! ここに来た最初のうちも、まだ少し警戒していたの。でも、本当に彼は私がここで楽しく過ごす事を望んでいた。妻というより、まるで孫娘を見ているようないたわりの目で、私が話す事すべてを、楽しそうに聞いてくださった」

 脳裏に思い浮かぶのは、イグナットとの穏やかで優しい日々。
 決して彼は床を動く事はなかったけれど、精神的に満たされた時間だった。

「旦那様は幸せだったと思いますよ。お嬢は人を幸せにできる才能がある。最期の二年間で、旦那様は沢山の幸せをお嬢にもらったのです。それでなければ、あんなに穏やかなお顔にはなりません」

 目を閉じ、まな裏に蘇るのは、イグナットの最期の苦しげな呼吸。
 大量に血を吐いて寝具が赤黒い血にまみれ、それでも彼は決して弱音を吐かなかった。

 生の化身ともいうべく若いクローディアに恨み言を言うでもなく、今の妻である彼女の前で、前の妻や子供に「いま行く」と口にする事もなかった。

 最期までイグナットは、物静かで苦しみやつらさを一人で抱え込む人だった。

 優しすぎる夫に心からの感謝を抱きながら、クローディアは「お疲れ様でした」と彼に告げ、血で濡れた唇に生まれて始めてのキスをした。

 白くなった髪を優しく撫でつけ、ハンカチで夫の口元を拭いた。

 侍医が傍らに立ち、ソルが声もなく慟哭する中で、イグナットは妻に見守られて静かに旅立った。


 そのあと、クローディアは気を失ってしまったのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』

夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」 教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。 ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。 王命による“形式結婚”。 夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。 だから、はい、離婚。勝手に。 白い結婚だったので、勝手に離婚しました。 何か問題あります?

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

八年間の恋を捨てて結婚します

abang
恋愛
八年間愛した婚約者との婚約解消の書類を紛れ込ませた。 無関心な彼はサインしたことにも気づかなかった。 そして、アルベルトはずっと婚約者だった筈のルージュの婚約パーティーの記事で気付く。 彼女がアルベルトの元を去ったことをーー。 八年もの間ずっと自分だけを盲目的に愛していたはずのルージュ。 なのに彼女はもうすぐ別の男と婚約する。 正式な結婚の日取りまで記された記事にアルベルトは憤る。 「今度はそうやって気を引くつもりか!?」

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。

ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。 ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。 対面した婚約者は、 「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」 ……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。 「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」 今の私はあなたを愛していません。 気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。 ☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。 ☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

愛する夫が目の前で別の女性と恋に落ちました。

ましゅぺちーの
恋愛
伯爵令嬢のアンジェは公爵家の嫡男であるアランに嫁いだ。 子はなかなかできなかったが、それでも仲の良い夫婦だった。 ――彼女が現れるまでは。 二人が結婚して五年を迎えた記念パーティーでアランは若く美しい令嬢と恋に落ちてしまう。 それからアランは変わり、何かと彼女のことを優先するようになり……

処理中です...