泥に咲く花

臣桜

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第二十九章

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 それから十七時過ぎには未来が一華と沙夜を伴ってマンションを訪れ、姉妹が顔のギプスの取れた桜を見て「良かったね」と笑顔を見せる。
 ソファに座った桜の両脇に姉妹が座り、沙夜が真剣な顔をして柔らかな指先でそっと桜の鼻をなぞり、一華が少し怒った様な顔で「やめなよ」と妹を窘めた。
「ええんよ、いっちゃん。さっちゃんは桜ちゃんのお鼻を心配してくれてるんやもんね?」
「うん!」
 元気に答えた沙夜が、ちょんちょんと触れた桜の鼻が大丈夫そうなのを確認してにっこりと笑い、それに一華も対抗意識を燃やす。
「私だって桜ちゃんの心配してるもん!」
「ふふ、分かってる、いっちゃん。いっちゃんもお見舞いしてくれておおきに。お家で泣いてくれたんやて?」
「……泣いてないもん」
 小学校一年生の一華は、そういう事に敏感だ。
 恥ずかしそうな、怒った様な顔をして、桜の腕にしがみついている。
「ふふ、ならそうしとく」
 未来は電話台の引き出しからちらしを出して、時々桜が出前を頼んでいるらしい寿司店に電話をかけて注文をしていた。
 忠臣は慣れないながらも、キッチンクローゼットから寿司用の小皿や、電話口で未来が話しているのを聴いて、唐揚げ用の取り皿、箸などを出している。
「お姉ちゃん! ママが茶碗蒸しって言ってた!」
「ホント!? やったぁ!」
 桜の取り合いをしながら母親の電話に耳を澄ませていた姉妹が騒ぎ、それを見て桜も目を細めた。
「忠臣くん、大丈夫?」
 注文の電話が終わった未来が忠臣に心配そうな目を向けるが、彼が未来にも事情を話している事を知った桜が、ソファに座ったまま忠臣の代わりに答える。
「忠臣さん、今は美味しく食べれるんやて」
「え?」
 それを聴いて未来のアーモンド形の目がパチパチと瞬き、彼女に向かって忠臣がむず痒そうな表情で少し笑む。
 未来が忠臣を見詰めて、桜の言葉を理解するのに三秒。
「良かったじゃない!」
 忠臣の両手を掴んで未来が上下にブンブンと振り、自分の事の様に喜んでくれる。

 まただ。
 この人たちは、どうしてこんなに温かいんだろう?

 まるで童話に出てくるレンガの家の暖炉みたいだった。
 誰もが一度は憧れる形で、手をかざしてその温かさに触れてみたくなる。
 けれど、理想のままの家などそうそうない。
 だからそれは見た限りではとても温かそうで、とても懐かしくて、綺麗で。
 絶えず形を変えて揺らめく火は、人の心のよう。
 温かくて、どこか物悲しい。

 けれど憧れの形は、手に入ってしまえば現実になる。
 現実にはいつか飽きが生じて、また別の憧れが生まれる。
 人の欲はきりがない。

 それを知っている忠臣は、だからこそ今まで何にも手を差し伸べなかった。
 自分の淡い気持ちを現実に否定されるのが怖い。
 でもこの温かな家族や桜になら、自分の秘密を言う事が出来た。
 
 きっと、大丈夫。

 自分を信じる事もままならない忠臣が人を信じるには、まだまだ多くの事が不確かすぎる。
 それでも先の安心を約束された道などない。
 信じることが出来れば、きっと前に進む事が出来る。
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