まだ名前を知らない

くおん

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まだ名前を知らない

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シオンは私の事をいつも、「困った弟子だ」と言う。
シオンは私が失敗するといつも、後始末をした後、私を叱る。
シオンは私が落ち込むといつも、夜部屋にホットミルクを持ってきてくれる。
シオンは私が頑張るといつも、頭をなでようとする。
シオンはいつもため息をつきながら、私といてくれる。



    木の机の上で固定された丸いフラスコに、ねずみ色に近い水色が渦を巻く。
    その中に緑色の小さな塊を落とすと一瞬フラスコが輝いて、次の瞬間には少し濃くなった水色が渦巻く。
    フラスコの中に緑を入れた瞬間が、私はたまらなく好き。私が大好きな色の組み合わせだからだ。
    何度も見たくて、テーブルに肘をついて何個も塊をフラスコの中に入れると、どんどんどんどんフラスコの中の色は濃く、濁ってくる。
    もう好きな色とは程遠くなってしまったフラスコの中身に、ため息と頬杖をついた。

「…マルカ…」

    ずりずりとずれてきた肘に任せるままに腕枕をしようとしたとき、低い声が背後から聞こえて反射で体がビクッと震える。
    木でできた椅子の背もたれに寄りかかってゆっくりと上を向くと、緑色の瞳が私を見下ろしているのが目に入った。

「シ、シオン…」

    姿勢を正して上半身だけひねって振り返り、ご機嫌をとるように片頬をあげて私の師匠を見上げる。

「お前は今何をしてたんだっけ?」

    シオンがうんざりしたように薄い水色の髪をかき上げながら言った。

「そうだね、多分…」

「そう、睡眠薬の生成だ、定期的にネオゴールの店に持っていくアレだ。期日は明日。ところで、今日俺が今まで何をしていたかは知ってる?」

「うん、確か…」

「そう、キルケットさんの所に診察に行っていた。喜ばしい事に彼女は五人目の子どもを授かり、臨月だ。家で産みたいという彼女の願いに沿うために、用心し過ぎるほどに用心を重ねないといけない。最近じゃ毎日診察に行っている。今日も勿論行くつもりだった。でも、ネオゴールの睡眠薬の期日は明日。勿論スケジュール管理を怠った俺が悪いんだけれども、まぁまだ間に合う。時間は十分にあった。でも、俺はやらなければならない仕事を残した状態で診察には行きたくない。気持ちが急いてしまうからね」

    シオンは椅子の背もたれに手を付き、斜め上を眺めながら自分の長い前髪をフッと吹き上げた。

「どうしたものか考え悩んでいた俺に、お前はなんて言ったんだっけ?」

    私はもう何も言うまいと口をつぐんで、ただシオンを見上げた。そんな私にシオンは眉を軽くあげて、短く鼻を鳴らす。

「シオン、睡眠薬は任せて!私だって伊達にシオンの弟子を一年もしてるわけじゃないんだから、睡眠薬くらいちゃんと作れるよ。心配しないで、いつもシオンが作るの見てたし、練習したし、だから大丈夫。赤ちゃんによろしくね!…こんな感じだったっけ?」

    わざとらしく声を高くして、厭味ったらしく数時間前私が言った事を復唱するシオンに、前より声真似がうまくなったなぁとなんだかしみじみとする。

「こら、マルカ、分かってる?明日までに二〇〇本!俺がいない間に何本睡眠薬を作った?ん?五十本か?それとも四十?」

    眉を寄せて言うシオンに、私の体はどんどん縮こまっていく。数時間前の私を叱りつけて、庭の木にでも縛っておきたい気分。

「…十本…」

「ほう…数時間で十本ねぇ…俺なら一〇〇本は作ってるな…?」

    眉をグッと寄せた後に、シオンはとてつもなく優し気にほほ笑んだ。思わず「ひっ」と声が漏れた私の肩を掴んで、シオンの口が弧を描いたままにゆっくりと動いた。

「お、し、お、き」

    薬でガサガサと固くなった手が私の顎をするりと撫でて、そのままの流れで頬を思い切りつねった。

「痛い痛い痛い痛い!」

    物凄く痛いが、これはおしおきではない。おしおきであれば耐えるけれど、シオンの言うおしおきとは、こんな生ぬるいものではないのだ。従って、この痛みは不必要な痛み。不当な痛みには泣き寝入りせず、立ち向かわなければならない。
    断固仕返しをしようと右腕を振り回したけど、シオンが私の手が出る前にパッと体を離したせいで、私の握り拳は手ごたえ無く空をきる。シオンはクツクツと笑って、椅子ごと私の体を反転させた。

「どうぞ?おしおきの中身は分かってますね?」

    紳士のように優雅に私の手を取るシオンの手を、女にしては強い自慢の握力で思いっきり握る。シオンは指先をピクッと動かすだけで、全く痛がる様子はない。それがまた――ムカつく。はぶてた時の癖で、片頬を膨らました私を見て笑うシオンに、私の頬はますます空気を蓄える。

「そうはぶてるなって。お前が家事してる間に睡眠薬は作っといてやるからさ。」

 ダメダメな弟子のフォローは師匠自らがさせていただきましょう、と言いながら私を椅子からどかし、首を鳴らしつつ椅子に座るシオンは、彼の言う通り私の師匠だ。
    五歳の時に両親を亡くした私を十五歳だったシオンが引き取って育ててくれて、私が魔法に興味を持ってからは魔法についても丁寧に教えてくれている。


    シオンは十歳の頃から魔法使いとして生計を立てていた天才だ。二十五歳になった今、彼のことを知らない人は、この国にいない。
    もっとも、彼を世に知らしめているのは、彼の魔法使いとしての能力だけではない。
    彼は、この国屈指の変人としてもその名を轟かせている。ーーもっとも、誰も彼の本当の名前は知らないのだけれど。
    本当の名前を教える事と自分の心臓を差し出す事が同義である私たち魔法使いは、大体がいくつかの偽名を持って生活している。本当の名前は、何よりも強い力で魔法使いを束縛する。従って偽名の数が多ければ多いほど魔法使いの身の守りは強固になるんだけれど、混乱を防ぐ為に、普通なら多くてもマジックナンバーに因んで七つ程度。
    でも、シオンは人と出会う度に新しい偽名を作るものだから、その数はもう彼自身も把握しきれていない程で、名前を呼ばれても肩を叩かれるまで気が付かない。
「過去にいた天才のナニガシかがそうであったように、天才は、やっぱり変人なのだ」と、人はシオンに変人というレッテルを貼って、面白く、どこか得意げに彼を語る。奇人の天才というのは、きっと人々にとってパワーワードなのだろう。
    でも、実を言うとシオンの変わっている所は偽名の数とその才能くらいのもので、他は常識の範疇であると私は思っている。
    それに、私は知っている。彼の偽名の数は天才の証ではなく、彼の感じている恐怖の顕れでしかない。
    シオンはとても臆病なのだ。きっとこれは私だけが、間違いなく私だけが知っている彼だ。
ーーそんな小さな優越感で自分を満足させようとしている可哀想な私も、シオンの本当の名前を知らない。
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