されど、愛を唄う

あきら

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 猫の爪で引っ掻いたような月が、頭上で静かに佇んでいる。
 何も聞こえない静寂。風の音も虫の声も、何一つしない夜。細い月明かりはまるでスポットライトのように、それを照らしていた。

 ああ、俺、死ぬんだな。

 そんなことが脳裏を掠めていく。走馬灯なんてものがあるのなら、この瞬間がその出番のはずなのに、俺の脳内は呆れるほど通常営業だ。
 なんで俺はこの日、この場所を通ったのだろうか。今更したところでどうしようもない後悔を胸に抱きつつ、ぼんやりと視線を動かす。
 すらりと伸びたシルエット。月明かりが鋭くそれを照らせば、俺を見る目が楽しそうに弧を描くのがはっきりと見えた。

「へえ、いいの見つけた。壊しちゃうのは勿体ないな」

 ひらり。ゆったりした服に風を纏わせながら、それは俺の目の前まで近づいてくる。
 ふふ、と笑うその表情から目が離せない。

「お前、なんていうの?」

 聞かれたことの意味がわからなくて、ただ黙って見つめ返した。すると焦れたようにそれは続ける。

「名前だよ名前。人間には名前ってもんがあるんだろ?」

 人間、には。
 不意に理解した。目の前のこの生き物は、人間ですらないのだと。

「教えてよ、名前。じゃないと、お前とかあんたとかしか呼べないじゃん」

 不満げに唇を尖らせるその姿は、どう見てもただの青年にしか見えないのに。肌を突き刺すようにすら思える感覚は、それが間違いなんだとうるさいほどに主張する。

「シ」
「し?」
「シ、グルド」

 震える口は、俺の意思とは無関係に自分の名前を紡ぐ。
 とてつもない強制力に、頭の芯がじわじわと痺れているような気がした。

「シグルドかぁ。うん、いいじゃん。決めた」

 何を、とも問えない。
 俺よりもやや低い身長、それが少し屈んで。上目遣いで俺を覗き込み、にやりと笑う。緩く開いた襟元から鎖骨が見え隠れして、薄い体には筋肉も脂肪もなさそうで。
 そんな体躯の造形と、跳ねた目尻に映える涙袋が、余計に現実味を薄くしているような気がした。
 さら、と柔らかな髪が揺れる。触れたいと思ってしまうのは、何の性なのだろう。

「シグルド」

 色素の薄い唇からこぼれる俺の名前。ひどく妖艶で、蠱惑的な声で奏でられるそれは、まるで自分のものじゃないようで。

「お前、今から俺のな」
「……は?」

 冷静だったはずの脳内は、気づけばとっくに浸食されていた。




 よくある、おとぎ話だ。
 子供を早く寝かしつけるためだったり、言うことを聞かせるためだったり。

「早く寝ないと悪魔が来るよ」
「大人の言うことを聞かないと悪魔に連れ去られてしまうよ」

 俺自身、耳にタコができるほど聞かされてきた脅し文句。
 けれど成長するにつれて、そんなものはいないのだと知る。大人が子供につく嘘だ、と。

「本当にそう思うのか?」

 酒を傾けながら、最近同僚になった男が言った。同僚、と言っても年は俺の親と同じぐらいのはずだ。

「当たり前だろ。悪魔なんかいるわけねえじゃん」

 何を言っているんだ、といった素振りで俺も酒を煽る。
 そんなもの、空想上の産物でしかない。もちろん、敬虔な宗教家だとか信心深い奴だとか、違う意味で信じている人もいるかもしれないけれど、少なくとも俺はそんなものの存在を感じたこともないし、この目で見たわけでもない。
 それで本当にいると思える方が謎だ。

「……まぁ、そのほうが幸せだろうな」
「んだよ。ずいぶん今日は絡むな、もう酔っ払ってんのか?」
「ああ、そうだ。それでいいさ。酔っ払いの戯言だ、覚えてくれるなよ、シグルド・ダルシア」

 変な奴だな、と改めて思った。
 いつもはこんな風じゃない。機械いじりが仕事の俺に、たとえば時計の直し方を教えてくれたり。新しく出た機材の情報なんかを話し合って、互いにどういう機能が欲しいだとか、そんなくだらなくも楽しい時間を過ごす相手だと言うのに。
 今夜は大して飲んでもいないのに顔を赤くして、どこか遠くを眺め。何かを思い出すように喋っていた。

「いいか、悪魔なんざいやしねぇ。俺がこれから話すのは、ただの作り話さ」
「……あんたがそう言うなら、俺はそれを信じるよ」

 ふ、と笑って。彼は独り言をこぼすように話し始める。

「ここから少し離れた場所にある町――そうだな、仮にフレスベルクとしよう」

 それは実在する町の名前だった。ただ、少しどころじゃない。そうとう離れた場所にある町の名前だ。

「その町は、なかなか風光明媚な場所でな。観光客も多いし、それ相手に商売を営んでる奴らも多い」
「……聞いたことはある気がするな」

 聞いたことがあるも何も、それらもすべて現実の話だ。俺は実際訪れたことはなかったが、そこそこ有名というか。その町を知っている奴なら、だいたいはそうだろうと察しのつくことでもある。

「そのフレスベルクに、悪魔が出るという噂が立ったのが……そうさな、一週間ほど前のことだ」
「一週間?」
「気にするんじゃねぇよ」

 面白くなさそうに言って酒を口に運ぶ。中身が心もとなかったのか、追加を頼むのを見守った。
 いささか乱雑に、テーブルの上にジョッキが置かれる。なぜか二つきたので、有難くひとついただいておいた。

「悪魔は歌と共に来る」

 ぼそりと男がつぶやく。

「この世の物とも思えないほど、透き通った綺麗な歌声なんだそうだ」
「……歌、ねえ」
「その透き通った声で奏でる歌を耳にしたが最後、天上の至福に包まれて」

 どん、とジョッキをテーブルに置く音が響いた。

「まもなく、心臓は動きを止める」

 何を返していいのかもわからず、俺も新しい酒に口をつける。
 けれども、彼は俺の返事など最初から期待していなかったらしい。深く息を吐いて続けた。

「その悪魔は歌いながら町を歩いた。北へ南へ、東へ西へ。フレスベルクってのはでかい町だ、とても一晩で人が端から端まで行き来できるような大きさじゃねぇ。だが、その悪魔の歌声は一晩のうちに町を覆い尽くした」
「……それで、どうなったんだよ」
「お前さんの想像通りさ」

 半ば自棄になったようにジョッキを煽る。

「全員死んだ。もともとその町に住んでいたやつ、観光目的で訪れていた客、たまたま通りかかっただけのやつ。どいつもこいつも死んだ」
「…………」
「悪魔が本領を発揮するのはその後さ。透き通った、誰もを惹きつけるような声は響きを変え――低くなり、太くなり。地獄の底から引きずり出したような、悪魔にふさわしい声になる。そしてその声は、そこらじゅうに転がった死体も、石で造られた家も道も、何もかもを灰燼に変えるんだ」

 男の話は到底信じられるようなものではない。ものではない、のに。
 その声音に滲む説得力に、喉が渇いて仕方がない。気づけば新しく運ばれてきたジョッキの中身は空になっていた。

「なんであんた、そんなこと知ってんだ」
「馬鹿言っちゃいけねぇ。全部作り話よ」

 ふ、と笑う。
 言葉を発しようとした俺を、彼が見た。正面から目が合って、僅かな沈黙が流れる。
 それに違和感を覚え、おい、と言おうとした瞬間。そのまま横向きに、ずるずると体が落ちていって。

「……っ」

 まるで今にも立ち上がって動き出しそうな気がするのに。
 静かに男は、事切れていた。



 翌日。
 同僚の突然死を目の当たりにして、多少警察に事情を聞かれはしたが、酒が入っていたこともあり、心不全だろうという結論だった。

「……まさか、な」

 彼の話はやけに詳しく複雑で、まるで本当にあったことのように思えてくる。
 ということは、彼もまた悪魔の歌とやらを耳にしたのだろうか。会社を出て、家路を辿りながらそんなことを考えた。
 
 人が一人死んだぐらいでは、何も変わらない。
 俺もまた、普通に出社して仕事をして、日付が変わろうかという頃帰路につく。
 大きな不満があるわけじゃない。じゃないが、毎日がひどく無機質な気がした。

「フレスベルク、ねえ」

 遠い町の名前を思い出す。男の話が、もしも本当だったとして。
 何の噂も届かないというのも、不気味な話だ。
 ただ、少しばかりの好奇心もあった。悪魔の存在と、その声と、歌に。

 そんなことを考えながら歩いていたせいだろうか。どこからか、歌が聞こえてきた気がして耳を澄ます。
 途切れ途切れのそれは、はっきりとすることなく消えていった。
  
 そして、こんなにも衝撃的だった出来事も毎日の中に薄れていったころ。
 その『悪魔』は、突然俺の目の前に現れたのである。




 そもそもの存在自体が違う。圧倒的なそれに、息苦しさすら感じた。
 目に映るのは、俺と変わらない年の青年なのに。
 本能が逃げろと警告するものの、俺の体は何一つ言うことを聞いてくれはしない。

「……うん、いいなぁその感じ。俺のこと、知ってるっぽい」
「し、知らない」
「嘘はだめ。わからないと思う?」

 にこ、と微笑む。返す言葉に詰まっていると、そいつは楽しそうに首を傾げた。

「誰か逃がしたっけ……あの町かなぁ、けっこう大きかったし。全部見て回ったと思ったけど」
「っ、まさ、か」
「ここからはけっこう離れてるんだよなぁ」

 少し外した視線。開いた首元にどうしても目が行ってしまって、それに気づかれてしまう。
 
「ふふ……いい顔してんね。気になる?」
「な、なにが」
「俺の、中身」

 生まれてこの方、太陽なんて浴びたことがないんじゃないかと思うほどに白い肌。陶器のようなそれに、吸い寄せられるように手を伸ばした。

「でも、そんなに安くないんだよなぁ、俺」
「っあ」
 
 笑って言われ、反射的に引っ込めようとした手首が掴まれる。こんなに細いのに、俺よりも強い力で引かれて数歩前のめりになった。

「俺のになるって言うなら、触らせてやるけど」
「誰、がっ」
「拒否するんだ?へぇ」

 くす、と。笑う声がして、手首を掴んでいた指先が楽しむように俺の腕をなぞる。
 
「壊れてもいいんだ?」
「な」
「俺のことを知ってて、俺の誘いを断るってのはそういうことだよ」

 揶揄うような声音だったけれど、それが本当のことだとわかってしまって、背筋に冷や汗が伝った。
 言葉はなかなか出てきてくれなくて、そんな俺に対して何を思ったのかはわからないままするりと離れていく。

「……ああ、でも。お前みたいなタイプは……あれかな?お前が俺のにならないんなら、お前一人残して町も人も全部壊しちゃおっか?」
「っ、な、やめっ」
「ふふ」

 そんなことできるわけがない。悪魔なんているはずがない。
 脳裏には何度もそんな言葉が浮かぶのに、そしてそれは当たり前のはずなのに。目の前の微笑む青年は、その考えを許してはくれなかった。

「まだ信じてないな?じゃあ、とりあえず明日三人くらい壊しておくよ」
「こ、壊す、って」
「ああ、人間は違うんだっけ?俺は壊れても勝手に直るけど、人間は直んないもんね」
「……こ、ろすって、ことか……?」
「あ、そうそうそれ。テキトーに三人殺しておくね」

 わざわざ言い直す。どう答えるのが正解なのかわからない。だけど、それを考える暇も与えてもらえるわけもなく。

「ここはさぁ、こないだのとこと違って小さな町だからすぐわかるよ。ちゃんと見てよね?」
「や、やめろって」
「お前が俺のになるならやめるよ」

 俺が即答できないのなんてわかりきっていると笑って、ひらりと彼は踵を返した。
 瞬きをするその少しの時間。それだけでその姿は消えてしまう。

「……嘘、だろ……?」

 呟きながらも、俺はどこかでそれが嘘のはずがないと察してしまっていた。
 そして、それが立証されるまで大した時間もかからないだろうことも。

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