波のまにまに巡り酒

佐久丸。

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エピソード1 白馬のマルゲリータとペンネアラビアータ

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「俺はなぜここにいるのか…」

波田はだ ひびき は、窓の外に広がる白銀の世界をぼんやりと眺めながら、そう呟いた。

目の前には、白馬の山々が雄大に広がっている。空は澄み渡り、遠くの雪景色がくっきりと見える。普段は都内を飛び回るラジオ局の営業マンが、なぜこんな場所にいるのか。

答えは簡単だ。

「地方局のスポンサー営業」

本社からの指示で、長野の地方ラジオ局との提携強化のために白馬村に出張することになったのだ。

「正直、都内のクライアント対応だけでも手一杯なのに、なぜ俺がわざわざ長野まで来なければならないのか。まあ、スキー客向けの観光プロモーションってのはわかるけどな…」

雪の積もる駅前を歩きながら、波田は深く息を吐いた。寒さが肺の奥まで染み込む。

ここで、長野のローカル企業と提携し、ラジオCMや番組タイアップを提案するのが今回のミッションだ。しかし、相手が乗り気になるかどうかは別の話。地方の企業は慎重で、新しい広告にすぐ飛びつくわけではない。

「さて、クライアントの社長はどんな人なんだろうな」

携帯で送られてきた資料を確認しながら、波田は駅前のタクシーに乗り込んだ。向かう先は、白馬の観光業を手がける会社の本社。そこに、今日の商談相手が待っている。


タクシーは白馬の雪道を進み、やがて木造のオフィスが見えてきた。
観光業を手がける「白馬ツーリズム開発」白馬村のリゾート施設やスキー場と提携し、地域活性化を進める会社だ。

建物の中に入ると、薪ストーブの暖かな空気が出迎えた。山の観光業らしい素朴なオフィスで、木の香りがほんのり漂っている。

「お世話になります。UBSラジオの波田です」

受付で名を告げると、すぐに会議室へ案内された。部屋の中には、今回の商談相手である白馬ツーリズム開発の代表、吉川が座っていた。

「遠いところをわざわざありがとうございます。吉川です」

50代半ば、穏やかな雰囲気をまとった男だった。スキーウェアの上にカーディガンを羽織っており、都会のビジネスマンとは一味違うラフな装いだ。

「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます。今日は弊社のラジオ番組を活用した観光PRのご提案をさせていただきます」

名刺を交換し、波田は資料を取り出した。

「観光PRにラジオ…ですか」

吉川は資料に目を落としながら、ゆっくりと言った。

「最近はSNSの時代ですしね。正直、ラジオの影響力ってどのくらいあるのか、気になるところですが」

「確かに、SNSは大きな影響力を持っています。ただ、ラジオは聴取者層が比較的安定しているのが強みです。それに、移動中や作業中など、自然と耳に入るメディアでもあります」

吉川は少し考えるように頷いた。

「白馬は車移動の観光客が多いですし、スキー場のリフト待ちの時間なんかにも流れていたら耳に入るかもしれませんね」

「そうですね。特に、地元のグルメや温泉情報などを織り交ぜながら番組を作ることで、より観光客の関心を引くことができます」

「なるほど…一度試しにやってみるのもアリかもしれませんね」

吉川はそう言いながら、改めて資料を見直した。

「では、具体的なプランを—」

その時、会議室のドアがノックされた。

「社長、ちょっとお時間よろしいですか?」

スタッフが慌てた様子で入ってきた。吉川が対応するため、商談は一時中断。波田はふと窓の外に目を向けた。

雪がしんしんと降り続ける白馬の景色。

「せっかくだし、今夜はゆっくり飲みに行くか…」

まだ夜の予定は決めていなかったが、せっかく白馬まで来たのだ。こういう時こそ、ふらりと立ち寄る酒場がいい。


吉川がスタッフと話を終えて会議室に戻ってきた。

「すみません、お待たせしました」

「いえいえ、大丈夫です」

波田はそう返したものの、内心ではすでに白馬の夜に思いを馳せていた。

(さて、どこで飲もうか…温泉旅館の併設バーもいいし、ローカルな居酒屋も悪くない。いや、ペンションの喫茶で軽く食べるのもアリか…)

完全に思考が“酒場巡りモード”に切り替わってしまっていた。

「では、先ほどの話の続きですが…」

吉川が改めて商談に戻ろうとすると、波田はさりげなくテンポを速めた。

「はい!つまりですね、白馬の観光情報をラジオ番組内で週ごとに紹介し、特集コーナーとして展開する形がベストかと思います。あとは、スポンサー枠としてCMも流せますし、地元の飲食店さんとコラボして、リスナー向けの特典をつけるのもいいですね!」

「なるほど…ただ、ラジオCMの制作費とか、具体的な費用感が…」

「もちろん、お見積りもすぐにお送りします!だいたいこの規模だと、リーズナブルなプランもご提案できますし、番組タイアップの場合は柔軟に対応可能です!」

「おお、そうですか。それなら—」

「はい!細かい点はまた後日詰めさせていただくとして、とりあえず今回はこの方向でいかがでしょうか!」

波田は思い切り営業スマイルを浮かべつつ、心の中では(早く終わらせて店に行かなければ!)と叫んでいた。

吉川は少し驚いた様子だったが、「うーん、まあ、それで一度検討してみますか」と頷いた。

「ありがとうございます!では失礼します!」

波田はほぼ即決する勢いで立ち上がり、握手を交わすと、足早にオフィスを後にした。

吉川はあっけらかんと立ち尽くしてしまうしかなかった。

「よし、あとは酒だ!」

オフィスを出た瞬間、波田は思わず息をのんだ。

白馬の夜は、静かで澄んでいる。キンと冷えた空気が頬を刺すように当たるが、不思議と嫌な寒さではない。

「気温は都内より圧倒的に低いはずなのに、なんだか悪い寒さがしないな」

冬の東京は、ビルの間を吹き抜ける風が骨の髄まで冷やしてくるし、空気が淀んでいて息苦しさすら感じることがある。それに比べて、白馬の寒さはどこか心地いい。空気が澄んでいるせいだろうか。

「なるほどな、スキー客がわざわざここまで来るのも分かる気がする」

そう思いながら、波田はポケットから手を出し、肩をすくめるようにして駅前の通りへと歩き出した。

「さて…どこで飲むか」

駅前まで歩きながら、スマホで「白馬 居酒屋」と検索してみる。しかし、ヒットするのは観光客向けの店ばかり。

「いや、観光客向けの店が悪いわけじゃないけど、なんというか…もうちょっと、地元感のあるところがいいんだよな」

スキー客で賑わう街を歩きながら、目についた店をいくつか覗いてみる。

『薪火グリルとクラフトビールの店』

「…おしゃれだけど、今の気分じゃないな」

『ジンギスカン専門店』

「…いや、今は肉が主役じゃない」

「Barか…いや、酒だけじゃなくて、ちゃんと飯も食いたい」

足を止めるたびに、自分の中の“何か”が違うと感じる。

(俺はいま、何を求めているんだ…?)

気分的には、肩肘張らずに落ち着ける店がいい。都会の喧騒を離れたこの雪国の夜に、静かに酒を楽しめる場所。できれば、馴染みのない土地ならではの味を楽しめるところがいい。

しばらく彷徨い、気づけば駅前から少し離れた場所まで歩いていた。

ふと、暗がりの奥に「喫茶&軽食」と書かれた看板が見えた。

「…喫茶? いや、待てよ。軽食ってことは、何か食べられるんじゃないか?」

半ば諦めかけていたところに現れた、ちょうどいい雰囲気の店。ペンションの一角にあるようで、静かな灯りが雪に反射している。

「ここ…いいかもしれない」

波田は足を止め、しばらく店の前で様子を伺った。

波田は静かにドアを押した。

「いらっしゃいませ」

カラン、と小さなベルの音とともに、店内の温かな空気が波田を包み込む。

ペンションの一角にある喫茶&軽食の店「FULL HOUSE」

観光客向けの派手なレストランとは違い、どこか落ち着いた雰囲気が漂っている。

カウンターには、グラスを拭いているマスターがいた。60代後半といったところか。寡黙そうな雰囲気だが、長年この店を切り盛りしてきた風格がある。

店内にはジャズが流れている。演奏者の名までは分からないが、ゆったりとしたピアノの旋律が心地よく響いていた。

(いい雰囲気だな)

波田はカウンターの席に腰を下ろした。

「何か飲まれますか?」

マスターが落ち着いた声で聞く。

「そうですね…赤ワインをお願いします」

「かしこまりました」

マスターは冷静な手つきでボトルを取り出し、グラスに注ぐ。

「北信のピノ・ノワール。フルーティーですが、重すぎず飲みやすいですよ」

グラスを手に取り、波田はひと口含んだ。柔らかい酸味と果実味が広がり、すっと喉を滑り落ちる。

「いいな、この店」

波田はすっかり気に入ったように、ふっと息をついた。

「よろしければこちら前菜にどうぞ。グリーンサラダです。地元の野菜を使っています」

「あっ、ありがとうございます。いただきます」

このお店のお通し、あるいはサービスなのか、彩良いサラダが出された。波田はフォークを手に取る。ひと口食べると、シャキシャキとした食感が心地よく、噛むほどに甘みが広がる。

(なるほど…野菜の味が濃いな)

シンプルなドレッシングが、素材の味を邪魔しない。

「美味いですね。やっぱりこっちの野菜は違います?」

「標高が高い分、昼夜の寒暖差が大きいですからね。その分、甘みが増しますよ」

「なるほど…」

ワインを一口含みながら、波田は静かに味わった。

サラダを食べ終え、ピザが焼けるまでの間、波田は店内を見渡す。

カウンターの奥には、小さな棚があり、そこにはいくつものレコードが並んでいた。ジャズの名盤が揃っているようだが、馴染みのないアルバムも多い。

(へえ、結構マニアックな選曲なのかもな)

さらに視線を移すと、壁には古びたスキー板が飾られていた。

(こんなのも置いてるんだ)

年代物のようだが、手入れはされている。観光客向けのオブジェではなく、きっと誰かが実際に使っていたものなのだろう。

ふと、カウンターの隅に置かれた小さな木箱が目に入った。

「これなんだろうー?」

波田は手を伸ばし、軽く触れてみる。すると、奥からマスターの声が飛んできた。

「ピザ、出来ましたよ」

「あ、はい」

波田は慌てて手を引っ込め、席に戻る。

マスターが目の前に置いたのは、香ばしいチーズの香りが食欲をそそる、小ぶりなマルゲリータだった。

「生地は自家製です」

「へえ、いいですね」

手でちぎり、ひと口かじる。

(おお…これはいい)

モチモチとした生地に、トマトの酸味とチーズのコクが絡み合い、シンプルながら奥深い味わいだ。ワインとの相性も抜群にいい。

「ピザも美味しいですね。生地の食感がいい」

「発酵に時間をかけてます。白馬は寒いので、ゆっくり寝かせるといい具合になります」

「なるほど…」

ワインをもう一口。心地よい余韻が口の中に広がる。

最後に運ばれてきたのは、ペンネ・アラビアータだった。

「辛さは控えめにしてますが、お好みなら唐辛子を足せますよ」

「いや、このままで大丈夫です」

湯気の立つペンネをフォークに絡め、ひと口。トマトの甘みとピリッとした刺激が絶妙なバランスで広がる。後からじんわりとした辛さが追いかけてきて、赤ワインとの相性が抜群だった。

(この店、料理もちゃんとしてるな…)

観光地の軽食店と侮っていたが、一品一品に手を抜かない丁寧な仕事を感じる。

「いやぁ、どれも美味しかったです」

グラスの中のワインも、あと少し。

波田はふと、カウンターの奥に並んでいるレコードを眺めた。

「それにしても、店名の『FULL HOUSE』って、やっぱりウェス・モンゴメリーから?」

マスターはグラスを拭きながら、静かに笑った。

「ええ。ジャズがお好きですか?」

「いや、詳しくはないですけどギターをやってたこともあって。あとラジオの仕事をしてるんで少しは」

「なるほど。それなら、ウェスをかけましょうか」

マスターはカウンター奥のレコードを取り出し、プレイヤーに置いた。

静かに針が落ちる音がして、やがて『Full House』のイントロが流れ始める。軽快なギターの音色が店内に広がり、落ち着いた雰囲気の中にも、どこか遊び心が漂う。

(…いい夜だ)

波田はグラスを傾け、最後のひと口を味わった。

「ごちそうさまでした。いい店ですね」

「ありがとうございます。また白馬に来たら、寄ってください」

マスターの言葉に軽く会釈し、波田は店を出た。

外に出ると、白馬の静かな夜が広がっていた。雪がしんしんと降り続け、通りには人の姿もまばら。

(さて、ホテルに戻るか…)

ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認したその瞬間。

プルルルル…

着信音が響く。画面を見ると、上司の名前が表示されていた。

(こんな時間に…何かあったか?)

「はい、波田です」

「あ、波田くん?こんな時間にごめんね、起きてた?」

「ああ、大丈夫です。どうしました?」

「実は急なんだけど、明日の朝9時に大宮で大事な営業が入ってさ。これ、波田くんが担当してる案件だから、一応確認しておこうと思って」

「大宮…ですか?」

「うん。無理は言わないけど、もし9時までに行けそうならお願いできるかな?」

波田は空を見上げ、ゆっくりと息を吐いた。

(始発で戻れば、ギリギリ間に合うか…)

「分かりました。行きますよ」

「本当?助かるよ!じゃあ、よろしく頼むね」

上司の声は、申し訳なさと信頼が入り混じったものだった。

電話を切り、波田はスマホをポケットにしまう。

「ホテルで資料まとめかー…」

せっかくのいい夜が、一気に現実に引き戻された気分だった。

でも、嫌じゃない。

白馬の澄んだ空気を吸い込み、ポケットに手を突っ込みながら歩き出す。

(忙しいのも悪くない。でも、たまにはこうやって、ふらっと飲みに来るのもいいよな)


いい店は、いいタイミングで現れるもんだ。


雪は静かに降り続けている。

そのまま、波田は夜の街をゆっくりと歩いていった。
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