サマーミラージュ

持田ぐみ

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1.坂道

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 頬に陽光の暖かさを感じて目を覚ます。
 瞳を開けると、カーテンの隙間から夏の真っ白な光が差し込んでいる。

 もう、朝か。

 枕にしていた腕から顔をあげると、頬にシャーペンのあとがついていた。
 
 腕の下になっていた問題集をぼんやりと見返す。

 英語の文法。
 
 昨日の学習予定の最後のページだ。

 慌てて答え合わせを済ませていると、階下から洗濯機の脱水の振動が伝わってくる。

 ハッと飛び起きて洗面所へ駆け込む。
 脱衣かごは空になっており、後ろから、

「ひより、寝坊。洗濯、回しておいたよ」

 寝ぐせをつけた兄のみっちゃん――珠月みつきがあくびをしながらこちらに手を振る。

 「ごめん、今日は私だったのに」

「いいよ。それより、今日もよく鳴くよな」

 山間に立つこの家の朝は、木々を飛び交う小鳥の声がよく聞こえてくる。

 みっちゃんは、どこか嬉しそうに、洗面台の横の小窓を透かし見た。

 高校三年生になるのに、寝癖をつけた横顔には、幼いころの面影が残っている。

「梅雨も明けたから、鳥も元気になったんじゃない」

「そうかもな」

 私は洗濯当番を代わってもらったお礼に、私たち家族――母と兄と私、三人分の朝食を作る。 

 刻んだウインナーを入れたパンケーキ。母にはコーヒー、私たちは牛乳。
 何度も作っているので、目をつぶっていても作れる。
 気だるかった体が、パンケーキが膨らんでくるのとともに、目覚めていく。

「用意できたよ」

 少し焦げたバターの香りがふわりと香る中、母の寝室に声をかけると、仕事机でパソコンと向き合っている母が振り返った。

 夜明け前から仕事をしていたのか、部屋はカーテンを閉め切ったまま、デスクライトがほの暗く灯っているだけだ。

  ああ、と母は億劫そうに部屋から出てくる。

 長いくせのある髪を低い位置に束ね、金縁の眼鏡。

 唇だけやけに華やかなリップを塗っているから化粧は済ませたのだろう。いつものごとく肌にはファンデーションを塗っていない。
 眉毛だけささっと描かれていて、ツンと形のよい鼻梁にくるりとした瞳はみっちゃんにそっくりだった。

「ひより、あんた、また徹夜したの」

 母がハアっと呆れた溜息をつく。

 母だって寝不足のはずなのだけれど、私の顔色が引っかかったらしい。

「うん、途中で寝ちゃったんだけどね」

 私はおどけて見せたが、母は頭が痛い、とばかりに眉間に皺をつくる。

「洗濯物は珠月がやったのね」

 ため息交じりに言われて、私は唇を引き結んだ。

 受験生の兄に負担をかけたことは私も悪かったと思っている。でも私は兄の進路を聞いた時から決意したのだ。

 自分が母の病院――松永医院を継ぐ。継がなくてはいけないと。

「お父さんに挨拶してくるから、先食べていなさい」

 母はそう言い残して仏間に入っていく。ほどなく、チーンとりんを打つ音が聞こえた。

 母の邪魔をしたくないので、私は廊下で手を合わせ台所へ戻る。

 「今日は暑くなるから、乗っていけよ」

 登校時間になり、表でヘルメットを着けているとみっちゃんが言った。

「いい。体力つけたいから」

 徹夜で勉強していて寝落ちしてしまったのも、体力と気力がまだまだ足りないせいだ。

 成績優秀なみっちゃんと比べ、私は努力をしないと医学部なんて夢のまた夢。

 記憶力が足りない分は繰り返すことでカバーする。そのためには勉強時間の確保はもちろん、体力もつけなくてはいけない。

 ゆっくりしていると間に合わないので、母とみっちゃんが家を出るより少し早く、私は自転車を漕ぎ始める。

 母のBMWが私を追い越していくとき、母はまっすぐ前を向いている。

 自分の父親から受け継いだ小さな町の内科医院――松永医院の仕事のことで頭がいっぱい、という風だ。手を振ることはおろか、ちらりと視線を向けることもない。

 立ち漕ぎで息が切れるゆるやかな上り坂のカーブ。無表情な母の代わりに、後部座席の窓が下がって、

「ひより! ガンバ!」

 私に声援を飛ばすのは制服のワイシャツを腕まくりしたみっちゃんだ。
 筋肉質な腕の肘の部分が、去っていく車の側面に見え、名残惜しむように窓の中に消える。

 坂道に残された私は、木の葉のようにまとわりつく寂しさを振り切るように、ぐんとペダルを踏み込む。

 ホトトギスが鳴きかわす通学路の緑は眩しく、かぐわしい。
 S県立橋川高校までは車で二十分、私はあえて自転車で一時間かけて通っている。

 七月の熱気をはらみ始めた風に挑むようにペダルを漕ぎ続ける。
 杉が並ぶ陰った上り坂は五分ほどで終わり、続いてうねるような急な下り坂。

 両脇の木々が減り、少しずつ視界が開けて朝日が道を眩しく照らす。
 帰りは傾斜がきつくて登れないこの坂は龍神坂と呼ばれている。

 坂が終わると広い川に出て、大きな橋を越えた先に龍神を祀る橋川神社。
 その先は青々とした田んぼのなかに、ポツポツと工場や商店が立っていて、のどかな田舎町の風景が広がっている。

「ひより! ほらこれ使いなよ」

 高校に到着すると、三島みしま季穂きほがにっこりと保冷剤を渡してくれた。
 この高校に入学してから出来た友達で、顔を見るとほっとする。

 部活も同じ演劇部。さらに自転車通学という点も同じで、二人で自転車置き場で待ち合わせ、白いヘルメットでぺちゃんこになった前髪を直しながら一年の教室へ向かうのが日課になりつつある。

 二人の大きな違いといえば、季穂はメリハリのある体型だけれど、私はうすっぺらい体をしているところだろうか。

「ひよりも珠月先輩と一緒に車でくればいいのに」

「それじゃ体力つかないからさ」

 汗拭きシートで額と襟元を拭い、保冷材を自分のハンカチに包んでおでこに当てる。
 きいん、と冷たさが額のてっぺんから広がって、隣で同じことをしている季穂と目が合い、二人で笑いあう。

「アハハ、つめたー」

 笑っていると、登校する生徒たちのざわめきの中、ひときわ大きな声が近づいてくる。

「鳴田くん! だめですって! バイクは事故の前例があるので認められていないんです」

 生活指導の雪村先生の細いけれど毅然とした声が響く。

「おはようございますっ、先生! これ自転車なんで大丈夫ですっ」

 ヘルメットからぼさぼさの金髪を振り乱した鳴田なりた光介こうすけのおちょくるような甲高い声が校舎裏に反響した。

 一年生の中で唯一、東京の中学から進学してきた鳴田は、ちょっと異色な存在だ。

「また鳴田、怒られてる。頭いいのかバカなのか」

 季穂が肩をすくめた。

 理系の教科は鳴田の右に出るものはなく、所属は科学部。
 謎の工作と実験を繰り返し、顧問の先生に毎回冷や汗をかかせているが、鳴田本人に反省の色はない。そばかすの散った顔に、くるくると表情の変わる色素の薄い瞳。そしてすっと高い鼻筋が目を引く。

 一部の女子からは『理系の貴公子』と呼ばれている鳴田はちらりとこちらに視線を向けた。

 ずらっと並んだ自転車の列越しに私たちと目が合う。

 『バイク』に見える自転車は、ほかの自転車の影に隠れてよく見えない。

「おーっす! 松永、三島!」

 私たちに手を振った途端、雪村先生のため息がかすかに聞こえてきた。

「挨拶も結構ですが、この乗り物はどう見ても……」

 どこが貴公子なんだろ、と私も呆れ切って顔が引きつる。

「先生~町役場の垂れ幕にも書いてるじゃないですか、『明るい挨拶で元気な町に』って」

「時と場合によりますよ」

 このまま退散していいのか、と私と季穂が迷っていると後ろから聞き覚えのある足音が近づいてきた。

「先生、自転車に分類されるとは思うので、見逃してやってください」

 おっとりとした声の主をみんなが振り返る。

「珠月先輩~! よっ! 救世主~!」

 パッと鳴田が顔を輝かせた。現れたのは先程、母の車で追い抜いていった兄、みっちゃんだった。鳴田は同じ科学部のみっちゃんを、神のごとく崇めている。

「鳴田、ちゃんと説明しないと先生が混乱しちゃうだろ」

 ふわっと笑いを含ませたみっちゃんの頬は、小さな子供のような人懐っこさが浮かんでいる。

 母譲りの形のよい鼻は彫刻のようで、ツヤツヤした瞳には静かな知性の光を映していた。

  子供の頃はどちらかというと弱気な兄だったけれど、高校生になってからは背も伸びたせいか、堂々とした雰囲気を滲ませるようになった。

「雪村先生、うちの部員がすみません。これは特定小型原動機付き自転車って言って、ペダルのない電動自転車みたいなもんです。見たところ、自作ですね」

 淡々と分析するみっちゃん。その節立った大きな手がこちらへひらひらと手招きをする。

「ほら、ひよりも見て見て。これを組み立てられるって、結構すごいことだから」

「いや、みっちゃん、うちら関係ないし!」

 早く教室に移動したい、と思ったけれど、後ろから季穂がつんつんと私をつつく。

「見たい見たい」

 仕方なく狭い通路を進んでいくと、くだんの乗り物が見えてきた。

 自転車の三倍は太いタイヤに、がっしりとした黒い座面がついている二輪車だ。鳴田が大事そうに手を添えている。

 あとからやってきた自転車通学の生徒たちも、鳴田と雪村先生を遠巻きに眺めている。

「自転車にはちょっと見えませんし、スピードが出るなら危険なのではないですか? 詳しい話は昼休みに聞きますので生徒指導室に来てくださいね」

 雪村先生はそう言い残して、職員玄関の方へ消えていった。

「ナンバーが付いてるからバイクっぽく見えるんですね」

 季穂がしゃがんでタイヤとモーターをつなぐ配線を観察しながら呟いた。

「そうなんだよ! さすが季穂ちゃん」

 明るく笑うみっちゃんの声に、いえいえ、と季穂は生真面目に首を振る。
 みっちゃんも季穂もマイペースなので、相性がいいようだ。

「いやあ、徹夜で仕上げた傑作なんで。朝一番に珠月先輩に見てもらえて、最高にラッキーでした!」

 さらにもう一人、輪をかけてマイペース……いや、傍若無人な鳴田が満面の笑顔で『自転車』の座面を撫でている。

 (朝一番にキミの開発品を見とがめたのは雪村先生だったが?)

 私はそう心の中で突っ込みつつ、みっちゃんに向き直った。

「みっちゃん、そもそもどうしたの? なんか、私、忘れ物した?」

 母の車で送ってもらったのだから、みっちゃんはもうとっくに教室にいてもおかしくない。

 みっちゃんは私の言葉に、ハッと我に返り、携えていたスクールバッグをごそごそとさぐりはじめた。

「ああ、そうそう! 今日は暑くなるって予報が出てたから、ひよりに渡そうと思って。昨日のうちに冷やしといたんだ」

 取り出したのは小さな赤い蓋の小さな水筒だった。私が小学生の頃に遠足用に買ってもらったもので、ボトルの側面はグリーンの落ち着いたチェック柄になっている。

「え、私も麦茶持ってきてるよ」

 私はひんやりと冷たい水筒を受け取りつつ、みっちゃんの顔を見上げる。
 みっちゃんは得意げに胸を張った。

「山ひとつ越えてきてるんだから、塩分も取らないと。中はスポーツドリンクなんだけど、岩塩とレモン汁、BCAAパウダーを足してる」

「岩塩とレモン汁は元気になりそうだけど、最後の怪しいパウダーは何?」

 妹を実験台にしていないだろうな、と兄にジト目で詰問する。
 先に歩き出していた季穂は振り返りながら微笑んだ。

「いいなあ、手作りドリンク」

「えーうまそう。どんな味? 飲んで飲んで」

 鳴田が後ろからわいわいと囃し立てる。

「きょ……教室で飲む!」

 大きな犬になつかれてしまったような怖さ……いや煩わしさをひた隠し、私は水筒をスクールバッグにぐぐっと押し込む。

「行こ行こ!」

 手招きする季穂のあとを追いかけた。

 この騒がしさのおかげで毎朝感じる緊張感が少しだけほぐれて、季穂とみっちゃんに感謝する。

 そう、私は高校に入ってからずっとテスト中みたいに気が張っている。

 休み時間中も、季穂と笑いあっているときも。

 理由は単純。授業を聞き洩らすのが怖いからだ。

 医学部を目指すと決めたものの、中学の時には一晩で覚えられたことが高校に入ってからどうしても覚えられなかったり、理解できないまま授業が終わったりする。戦いと敗北の繰り返し。

 せっかく夏服になったのに、ブラウスに重ねたベストは鎧のように、襟元に結んだリボンは鎖のように重たく息苦しい。

 
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