溢れゆく

春光 皓

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前編

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 六年振りに吸う、淀みない清らかな空気。

 まるで水の中に居るように、冷たくも心地よい。


 ――もう六年が過ぎたのか。


 岡宮優おかみやまさるは呟いた。

 六年間の刑期が、ようやく終わる――。



『罪名 殺人未遂罪』


 手にしていた鋭い包丁。


 指の先から滴る血。

 横たわる男――。


 駆け付けた警察官により、その場で現行犯逮捕された。

 抵抗することも、何かを口にすることもない。

 複数の警察官に取り押さえられ、パトカーへと連行される間、優の目は電池の切れた玩具のように倒れる男に向けられた、一人の女性とぶつかっていた。


 あの日も今日と同じように、よく晴れた日だった――。


 ◆


「頼む、見逃してくれ。俺の本命は梨花なんだ」

「見逃してくれ? そうやっていつも、みんなを苦しめて」


「もう絶対に、しないと誓うから――」


 梶村大輝かじむらだいき

 小学校からの仲であり、優の親友である。

 端正な顔つきで対人関係に優れている梶村は、昔からいつも人の輪の中心にいた。

 笑い声が聞こえる方に視線を向ければ、そこには梶村がいる。


 そんな存在だった。


 しかし、大学に進学したころから、女性関係での悪い噂が後を絶たなくなっていた。



 ――十年前。


「いらっしゃいま――って梶村か」


 優はコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。

 シフトは週三回から四回、主に夜勤に入っている。

「第一優先は学業だから」と周りの友人には言っていたが、実際のところ、「日中より楽そうだから」というのが本心だった。

 都心から一時間以上離れているだけでなく、最寄りの駅からも徒歩三十五分の場所に位置するこのコンビニエンスストアは、夜になると客はおろか、通行人すらほとんど居なくなる。

 その為、普段は簡単な引継ぎの後、早々に店内清掃に取り掛かることも多かった。

 勤務時間中に暇を持て余すと、「なんでこんなところで働いてるんだろう」と思うこともあるが、辺境な場所であるが故に家賃の安い自宅が近くにあり、「それが答えだよな」と自問自答を繰り返して時間を潰していた。


 ――今日はあの漫画の新刊があるから、時間が早く進むだろうな。


 しかし、やることがある日に限って、静かな夜は賑わいを見せるのだった。


「客を見て態度を変えてちゃいかんでしょ、店員さん」


 梶村は店内を軽く見渡すと、普段通りの声量で言った。

 その隣には、数日前にここへ来た女性とは違う女性が居た。


「店側にも客を選ぶ権利があるからね」

「そういうのは、ちゃんと仕事をしてるやつが言える台詞なの。お前は暇そうに立ってるだけじゃん」


 そう言って笑顔を見せると、「あっちで酒、適当に選んでて」と梶村は連れの女性に店内用の小さなカゴを手渡す。

 女性は梶村の目を見ながらカゴを受け取ると、嬉しそうにウォークイン冷蔵庫へと向かって行った。


「そんなことより……また違う子じゃんか。いい加減、梨花に刺されるぞ?」


 優は梶村に歩み寄ると、耳元で囁く。

 梶村は高校生の頃から「名取梨花なとりりか」という女性と付き合っている。

 かれこれ六年間の付き合いで、優とともに三人で遊ぶことも少なくない。

 そんな彼女の存在を知りながら、親友のふしだらな行為を見て見ぬ振りをするのは心苦しかった。

 今も店内に三人しかいないことを考え、「この声でさえ聞こえてしまうのでは」と知らない女性の事を思っている自分が、梶村の悪事の片棒を担いでいる気がして、頭の片隅に梨花の顔がチラついている。


「いやいや、その辺は上手くやるって。ちなみに、前回の子とは、あれから特に何もないからな? 今日だって、たまたま偶然、飲み屋で一緒だっただけ」

「たまたま偶然ねぇ……」


 飄々と話す梶村に、優は小さくため息をつく。

 すると、先程飲み物を選びに行った女性が戻って来た。


「梶村くん。飲み物、これくらいで大丈夫かな?」

「ありがとう、ゆかりちゃん。バッチリだよ」


 梶村に「ゆかり」と呼ばれるこの女性は、見るからに純粋そうな容姿をしていた。

 色白の肌に、控えめな化粧。まだ幼さの残る笑顔は、肌色に合わせたような真っ白なトップスの力も借りて、一層の透明感を纏っている。


 たまたま飲み屋で会うような子じゃないだろう――と優は思った。


 それと同時に、女性が苗字で呼ぶのに対し、梶村は下の名前で呼んでいるのを見て、梶村の女癖の悪さを改めて痛感する。


「じゃ、店員さん。お会計お願いします」


 優がそんなことを考えているとは知る由もなく、梶村は再び美しい仮面の笑顔で言うのだった。



 あれから数日後、優はシフト通りに夜勤をしていた。

 今日も今日とて、店内は静けさに包まれている。


 ――どうせ人も来ないだろうし、ちょっと早いけどゴミでもまとめるか。


 そう思って優が外へと出ると、見覚えのある女性が歩いているのが見えた。

 この辺りは心許ない程度の街灯しかなく、女性の顔をはっきりと捉えることが出来ない。

 優は眉間に皺を寄せるように目を細め、ゆっくりと数歩前に出る。

 そして、ようやくその顔が見えると、疑念は確信へと変わる。

 ゆらゆらと左右に揺れるように歩く女性は、先日梶村と一緒にいた「ゆかり」だった。

 ゆかりはどこか虚ろな目をしているように見える。

 見た目で判断するのは良くないが、そもそも、こんな夜中に一人で歩くような感じではない。

 気が付けば、優はゆかりに話し掛けていた。


「あのー、すいません。この前、梶村と一緒だった方……ですよね? あ、俺このコンビニで働いてる岡宮って言います」


 最初は驚きと恐怖心が同居しているような表情を見せていたが、ゆかりはあの日のことを思い出したのか、「あ」と言って優に会釈をした。


「お節介かなとは思ったんですけど、こんな夜中にお一人だったんで、何かあったのかなって……」


 優がそういうと、ゆかりはバツの悪そうな顔で「すいません」と呟く。


「いや、全然謝る必要とかなくて……。と、取り敢えず、店の中入りましょうか? ちょうど今お客さん居ないので……なんて、いっつも居ないんすけど」


 少しでも気を紛らわせようと冗談も交えてみたが、苦笑いを作らせる程の力しかなかった。



「――……で、何かありました? 別に無理には聞いたりしないですけど」


 優はゆかりを事務所の中へと案内し、パイプ椅子を差し出して言った。

 ゆかりは「ありがとうございます」とパイプ椅子を引きずる音にかき消されそうな声で言うと、静かに腰を下ろす。

 たった数日で人ってこんなに変わるのか――と思う程、ゆかりの元気はなく、視線も落ちたままだった。

 自分から声を掛けておいて、俯くゆかりを見て言葉を失う自分にため息が漏れる。

 そのため息を自分に向けられたモノと思ったのか、ゆかりは再び「すいません」と口にした。


「あ、今のは違うよ? ただ自分自身が情けなくて……」


 慌てて取り繕う言葉は、冷たく重い空気を連れてくる。

 優はゆかりが話し出すまで、口を紡ぐことにした。

 しばらくゆかりと店内カメラの映像を見るだけの時間が過ぎていく。


 そして五分程過ぎたところで、ゆかりが重たい口を開いた。


「あの……岡宮さん」


 店内の映像を見ていた優は、慌ててゆかりへと視線を移す。


「あ、はい。大……丈夫ですか?」

「はい、もう落ち着きました。本当、ごめんなさい」


 そう言って、ゆかりは軽く鼻を啜ると、今日の出来事について話し始めた。


「岡宮さんは梶村くんのお友達……なんですよね?」


 やっぱり梶村絡みか――と内心思ったが、顔には出さないようにしながら優は言葉を返す。


「えぇ。小学校からの友人でして。もしかして……梶村がなにか?」

「……ということは、やっぱりそうなんですね。まぁわかってはいたつもりなんですけど」


「しまった」と思った時には時すでに遅く、優は正直に話すことを決めた。


「すみません。あいつ、顔だけはやたらと良いから、そういうところがあって……」

「良いんです。私も最初はそのつもりだったので、梶村くんのことを悪く言うつもりはありませんから」


「そのつもり?」


 優の予想から外れたゆかりの言葉に、思わず繰り返し口にする。


「実は私、幼いとか、清楚系とか見た目で判断されちゃうところがあって。まぁ実際お付き合いした方もいないので、仕方がないといえばそれまでなんですけど……。だから、梶村くんみたいな経験豊富そうな人と遊んでいれば、普通の男性と居るより、経験値が積めるのかなって」


 例にもれず自分も外見で判断していた節を反省するとともに、意外と大胆なことをする人だと優は思った。


「んー、あながち間違っちゃいない気もしますけどね。あいつ、確かに経験は豊富だろうし」


 そう言うと、ゆかりは目を丸くしてから、この日初めての笑顔を見せた。

 自然と優の肩の荷も下りる。


「お友達って言ってたから、嫌な気持ちにさせちゃうかと思ったのに……。岡宮さん、面白い方ですね」


 優は「そうですかね」と言いながら、口元を緩ませた。


「あ、そういえばさっき『最初は』って言ってましたけど、あれはどういう――」


 優が何気なく尋ねると、ゆかりは真面目な表情に戻り、眉根を寄せながら言った。


「最初は私も梶村くんと同じように、遊びたい時に遊んで、付かず離れずというか……言ってしまえば、『お互いの都合の良い人』になれれば良いなって思っていたんです。思っていたんですけど……」


「好きに――なっちゃった?」


 ゆかりは静かに頷いた。

 考えてみれば、ゆかりは男性経験が乏しいと言っていたのに対し、梶村はそういう経験が豊富なので、ある意味、致し方のないことだったのかもしれない。

 何せ、が出来るから、女性からの評価も高いのだ。


「私、人を好きになったのも初めてなんです。正直、これが本当にそういう感情なのかも曖昧で……。だから……岡宮さん。もし良ければ、協力していただけませんか?」

「協力――ですか?」


 優に向けられたゆかりの視線は、決意に溢れた力強さが滲んでいた。
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