雨の種

春光 皓

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始業式の日

新学期の朝

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 夢を見ていた。

 そこは、雨の降り止んだ世界。

 遮られるもののない太陽の光は、地上の全てを照らしている。

 まるで、雨を知らない世界のように。


 視界はいつも以上に開けているのに、いつも以上に、息が苦しい。

 自動車も電車も、全てが止まっている。

 鉛のように重い足で、真っすぐと続く道を、ただ無心で進んでいく。

 すすり泣く声がする。

 あちらこちらで聞こえているのに、その姿を誰一人として見ることが出来ない。

 雨は全てを攫っていってしまったのだろうか。


 これは、遠い、遠い、昔の記憶か、はたまた幻覚か。


 見慣れているはずの町の風景でさえ、あまりにもぼんやりしている。

 どこからかまた、声が聞こえる。


「雨を蘇らせなければ――……」

「また多くの人が、命を落とすことになる――……」



 雨を蘇らせる……? 命を落とす……?



 ぼんやりとした感覚の中、手のひらに確かな温もりを感じる。

 このまま、雨の降る世界を生きていく。雨とともに、生きていく。

 そう信じて疑わなかった。

 手のひらの温もりが、次第に熱を帯びていく。

 手のひらと熱が、次第に一つになっていく。


 心が、繋がっていく――


 ◆


 ジリリリリ――……


 昔ながらの目覚ましの音で、木船洸太郎きふねこうたろうは目を覚ます。

 色々な音を試し、結果として、この音に辿り着いた。

 この音が鳴ったら起きなければならない、そんな薄っすらとした過去の記憶に、今も取り憑かれている。

 ゆっくりと上体を起こし、凝り固まった身体を伸ばす。

 目を瞑りながら首を回すと、ぼんやり残った夢の記憶が蘇る。

 そして、目を開けた瞬間、記憶は再び夢の中へと戻っていく。


「今日から新学期か。来年までさようなら、春休み」


 寝ぼけた頭で、呟くように言った。


 この季節になると、どこの番組も「新生活」の文言を前面に出し、特集を組む。

 街のインタビューでは、学生から社会人、ありとあらゆる年代の、様々な境遇にある、自分とは無関係な人間の、抱負や過去のエピソードを耳にする。
 
 洸太郎には人に語れる程に立派な抱負やエピソードなどはない。せいぜい、狭い範囲でのみ通用する身内ネタくらいだろう。だが、それはそれで悪い気はしない。例え人からつまらないと思われようとも、洸太郎は今年も一年、平凡に過ごせることを願っていた。


 ベッドから降り、窓のカーテンを勢いよく開けると、「シャッ」という音とともに外の世界が露わになる。

 新学期初日の今日は、いつもより透き通った雨のように感じた。

 窓から見える一通りの景色を見渡し、一つ、大きく呼吸をした後、洗面台へと向かい、歯を磨いて顔を洗う。

 瞬きを繰り返すこの目は、外の景色をあんなにも新鮮で美しく映し出したというのに、鏡に映る顔を美化することはなかった。

 洸太郎は吐き出す息とともに少しだけ肩を落とすと、鏡に背を向け、早々に自分の顔と別れを告げた。


「おはよう」


 リビングは既に、朝食の香りに包まれている。

 コーヒーの心地よい香りが、直接、脳内に刺激を与えているようだ。


「おはよう、洸太郎」


 洸太郎の父、ただしが自慢のコーヒーを淹れながら、高校生の朝には到底作り出せない、眩しい笑顔で出迎えた。


「今日は新学期だから、特別なコーヒーだぞ。まずはゆっくりと香りを楽しめ」

「もう、あなたったら。そんなにのんびりしていたら、遅刻しちゃうでしょ。おはよう、洸太郎」

 母の麻里まりは、忠のコーヒー好きに呆れながら、優しく微笑んだ。


「香り、香り――全然わかんない。お父さん、彩美あみのは砂糖とミルクたっぷりね」
「彩美……それじゃあ、いつものコーヒーと変わらないじゃないか」

「彩美はいつものが良かったの」


「彩美ちゃんにはまだ分からないわよ」と、麻里は少ししょげている忠をなだめながら、砂糖とミルクを食卓へと運んだ。


「お兄ちゃん、おはよう」
「おはよう、彩美。父さん、僕はそのまま、いただこうかな」

 先程よりも目に見えて嬉しそうな顔をしながら、忠は「待ってろ、今淹れたてを」と鼻歌を歌いながらマグカップにコーヒーを注ぎ始めた。


「彩美は今年で中学卒業か。部活動も、高校受験の勉強も頑張ってね」
「ありがとう。勉強は全然自信ないから、お兄ちゃん、家庭教師お願いね」


 やれやれ、と思いながらも、洸太郎は微笑みながら頷いた。


「彩美ちゃんも洸太郎と同じ高校志望をしているのよね?」

「うん。少ししか一緒に出来ないけど、どうしても木山きやま先輩と一緒にプレーしたいから」


 彩美はテニス部に所属している。

「木山先輩」とは彩美が中学校に入学したての頃、大会でたまたま見かけた他校の人で、地区レベルでは実力が頭一つ抜けているらしい。

 そこで見たプレーに心を奪われたというわけだ。
 
 その日以降、我が家では度々、木山先輩の話題が出る。

 先輩といっても洸太郎とは同じ学年で、更にはその「木山先輩」が洸太郎と同じ高校だという情報を、彩美は独自の情報網から耳にした。

 それからというもの、彩美は洸太郎と同じ高校を第一志望と言い出したのだった。

 テニスの腕前はそこそこ立つらしいが、学力は決して褒められたものではないので、最初は両親も驚いた顔をしていたが、彩美がその気なら、と今は背中を押している。


「彩美は頑張り屋さんだから大丈夫だ。洸太郎、はいコーヒー」


 どこの家庭も、父親は娘には甘いのだろうか。

 先程まで自慢のコーヒーの話ばかりしていたというのに、今は洸太郎のコーヒーはそっちのけで、彩美に今日一番の笑顔を向けている。


「さて、お父さん自慢のコーヒーも淹れ終わったことだし、朝ごはん、食べましょうか」


 麻里の言葉に合わせるように、四人は「いただきます」と手を合わせた。


「ところで洸太郎、今日は午前中で学校も終わりだろ? 午後は店に顔出せそうか?」

「あなた、新学期早々可哀そうよ。洸太郎、無理しなくていいから」


 洸太郎の実家はカフェを営んでいる。


 その名も「カフェ忠」。


 洸太郎は昔から時間がある時に、お店の手伝いをしていた。

 手伝いも嫌いではないし、店ではお金を払って飲むコーヒーが無料で飲めるのだから、どこか得をしたに気分にさえなる。

 ちなみに、カフェの名前は「カフェただし」と読むのが正解だが、地元の人たちからは「カフェチュウ」の名前で知られている。

 開業当初は、「ただしだっつーの」と訂正していたらしいが、今は面倒臭くなったのか、すっかり言わなくなっていた。

 あまりにも「カフェチュウ、カフェチュウ」と言われるので、一時は本当に改名を検討していたらしい。

 変えてしまえば良いのに――と、その話を聞いた時は子どもながらにそう思ったことを覚えている。


「大丈夫。新学期だからって、何か特別なことをするわけじゃないし」


「本当に無理しなくて良いから」と麻里はバツが悪そうに軽く頭を下げたが、その横で無心にトーストを頬張る彩美を見て、二人は目を合わして笑った。


 世間は新学期、新生活で一色となっているが、洸太郎の朝は平常運転で、どこか心地よかった。
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