紺碧のかなた

こだま

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第一章 第二節

去る者と追う者

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 ある日、その事件は起こった。そして澄史は、この事件――忠清寺に未曾有の混乱を引き起こした出来事の、唯一の目撃者となったのだ。


 その日、澄史はふと厠に行きたくなって目が覚めた。眠そうに目をこすりながらむくりと起き上がると、同室の少年たちを起こさないようにそろそろと障子を開けた。差し込んできた月明かりが眩しく、思わず目を細める。
 (あぁそうか、今夜は満月だったか…。)
煌々と輝く白い月はいつになく明るく、澄史の足元に濃い影をつくるほどだ。吸いこまれそうな紺碧の空に、冷たく澄んだ秋の空気が心地よかった。
 (二階からの景色は絶景だろうな。)
 澄史の生活する僧房は二階建てで、一階は寝起きや食事のための場所として使われており、二階は修行場になっている。忠清寺は威雅山いがさんという山の上にあり、二階に上がれば山下の村々や都、晴れた日は遠くの海まで見渡すことができた。月の明るい今日のような日ならば、二階からの夜景はそれは美しいに違いない。
 (行ってみようかな…いやでも見つかって怒られたら嫌だしな。)
 神聖な修行場では必ず僧服を纏わなければならない。寝巻で修行場へ足を踏み入れたことが万が一和尚や上位の少年僧に見つかれば、怒鳴られるどころか数珠を絡ませた特別痛い拳が飛んでくること必至だ。澄史は少し足を止めて悩んでいたが、取りあえず厠へ向かうことにした。
 そそくさと用を足し、僧房へ戻る。しかし澄史は、二階へと続く階段の前で立ち止まった。
 (行こうかな…。だってこんな夜中、みんな寝てるし、和尚だって別の僧房で寝てるからわざわざこっちにくるなんてないだろうし。見つかることはまずない…。いや、でもやっぱり寺訓を破るのはよくないし…。)
しばらく階段の前を行ったり来たりしていたが、もう一度明々と輝く月を見上げると、まるでその強い光に後押しされたかのように唇をきゅっと結び、意を決して階段を登りはじめた。
 息を殺して最後の段を登り終えると、澄史はゆっくりと辺りを見回した。
 (誰もいない…よね?)
抜き足差し足で、部屋から張り出した露台へ向かう。
 (うわぁっ…!)
そこから見えた景色は、予想以上に壮観なものだった。深いあお色の、澄みきった空の真ん中に、優雅に輝く白い月。その光を鏡のごとく映す遠くの黒い海と、都に広がる赤と橙の小さな灯たち。まるで強い月光に負けた星々が地に落ちて燃えているようだ。眼前に広がる圧倒的な美しさに、澄史はしばらく呆けたようになっていた。
 と、カサカサッと近くで音がした。心身ともに完全に無防備な状態に陥っていた澄史は、一瞬で我に返った。
 (だっ、誰かいる?!)
一気に心臓が高鳴りだす。どこか隠れる場所を探そうとすばやく左右を見渡したとき、一瞬何かが動いたを目の端に捉えた。驚いて目を凝らしてみると、それは、松の木の枝先から、寺と外とを隔てる塀の上へ足を踏み出そうとしている少年の姿だった。
 (?!)
澄史が驚きのあまりその少年を真っ直ぐに見つめたまま立ち尽くしていると、視線に気がついたのか、彼がくるりとこちらを振り返った。
 (空隆っ?!)
肩まで伸びた柔らかそうな鳶色の髪。月明かりを反射して、青白く見えるほど透き通った肌。切れ長の目と、それを覆う長い睫毛。間違いなく空隆だ。あまりに多くの疑問が一度に頭の中を飛び交っていて、澄史の開いた口からは、声にならない声が漏れるばかりだった。一方の空隆は、まるでこれが当前の出来事のようにじっと彼を見つめ返している。
 「あの…く、空隆?一体何して…」
数度の試みののちやっとのことで絞り出した質問に、空隆は全く答える素振りも見せず、ただひたすらに澄史を見つめている。彼の鳶色の瞳は、今までに見たこともないほど不思議な強い光を湛えていた。
 「えっと…大僧正様以外は寺の外に出るのは禁止されてるって…知ってるよね…?」
彼の射抜くような視線に捉えられ、澄史は空隆の瞳から目が離せない。どうすればよいのか分からぬまま、澄史がしばらく身を硬くしていると、空隆は突然くるりと前を向くと音もなく塀へと降りたった。
 (!!)
そして澄史が反応するよりも早く、一瞬にして空隆は塀から軽々と飛び降りた。トサッ、という落ち葉が砕けるような音がしたかと思うと、それは微かな乾いた足音に変わり、次第に消えていった。
 (えっ……えぇっ?!!!)
澄史には、今一体何が起こったのかさっぱり分からなかった。というのも、一度入門した修行僧は、大僧正の位につくまで決して門外へ出てはならないという厳しい戒律があるからだ。これは入門した初日にすべての僧が習う、最も基本の、そして最も固く守られている寺訓の一つだ。破れば見せしめのための残酷な拷問と死が待っているという。寺の教えが外部に漏れることを酷く嫌う忠清寺では、そのような危険を少しでも冒した者は徹底的に処罰されるのだ。あれほど優秀で、将来は宰相間違いなしと噂される空隆が、この戒律を知らないなどとは考えられない。
 (一体何がどうなってるんだ…。どうしよう。誰か…緑雨とか呼ぶか。いや、和尚のほうがいいか。いやでも、あの空隆が逃げ出したなんて、誰も信じるわけないよな…。俺だって幻を見たんじゃないかってちょっと思うし…。空隆の部屋に忍びこんで居るかどうか確認する?いやいや、無理に決まってる。そもそもどの部屋か知らないし、それに、下位の僧が勝手に上位の僧の敷地に入ったっことが見つかったら、俺がどんな罰を受けるか分からない…。)
しかし、万が一空隆が本当に寺を抜け出したのであれば、空前絶後の大問題になる。とにかく誰かに今見た出来事を報告するのが最善だろう。そう頭では分かっていたのだが、何かが澄史の心の中で引っかかっていた。
 (あいつのあんな目、初めて見た…)
澄史の知っている空隆は、美しいがうつつのものではないような、どこか精気が抜けているような目をした少年だった。しかし、松の枝からじっと澄史を見つめてきたあの空隆の瞳は、沸き立つような生命力を宿していて、澄史はまるでそのまま吸いこまれてしまいそうな感覚に陥った。あの時初めて、空隆がように見えたのだ。
 (空隆、ここから出たかったのかな…)
もしもそうであれば、見つかって連れ戻されたとき、彼はどうなってしまうのだろう――門外へ脱走する、といのは、並々ならぬ覚悟と決意が無ければできないことのはずだ。彼が今まで築き上げてきたすべて――その華々しい成功も、人望も、文字通り彼のここでの人生を棒に振るに等しい。寺の外へ出ることが、それほどの犠牲を払ってまでも追いかけたかった空隆の望みだったとしたら、その望みが無念に終わったとき、彼はいよいよ精気を失い、しまいには消えてしまいはしないだろうか――。いやそんなことはないだろう、と思う一方で、空隆のあの目がどうしても澄史の脳裏に焼き付いて離れなかった。
 (もしかしたら、本当に俺が寝ぼけて幻を見たってこともないこともない…いやそうに違いない…。)
澄史は何度も自分にそう言い聞かせ、結局真っ直ぐ寝所に戻って眠りについた。


 次の日の朝、空隆の隣室の少年僧が、珍しくなかなか起きてこない彼を心配して部屋に入ったところ、布団がもぬけの殻であることを発見し、寺中が大騒ぎになった。忠清寺建立以来の大事件として寺総出で隈なく捜索が行われたが、彼の消息は一切つかめず数週間が過ぎた。その間、すべての修行僧に聴取が行われ、澄史にもそれは回ってきた。澄史は、幾度となくあの夜の出来事を話さなければと思ったが、いざ人を目の前にして口を開こうとすると、あの強い光を湛えた鳶色の瞳が鮮明に蘇ってきて、何も言えなくなってしまうのだった。
 (いや、本当は俺は、空隆に逃げ切ってほしいのかもしれない。)
ふっと消えてしまいそうな儚さをいつも纏っていた彼にやっと宿った生命のかけら。それを奪うことは、寺訓を破ることよりもずっと罪深い気がした。



     ***



 ごおぉん、という低い鐘の音で澄史ははっと目を覚ました。
 (久々にあの時の夢を見たな…。全く、このくそ忙しい時に居眠りなんて。何やってるんだ、俺は。)
軽く自分の額をこづいて立ち上がる。明日の経講釈の講義のために借りていた聖典を書庫に返さなければ。立ち上がった拍子に、首から下げた親指ほどの長さの、薄紫色に塗られた板が目に入った。
 (俺も、もう講釈を受ける側じゃなくする側になったんだな。)
 空隆が失踪してから十年の月日が経っていた。澄史は今では忠清寺で最高の位の一歩手前である薄紫ノ僧ぼしのそうになっていた。十八でここまで登りつめるのは異例のことで、周りからは空隆に次ぐ「第二の神童」とも呼ばれている。
 あの出来事が起こってから、空隆の存在は何故か澄史の心に、自分で思っているよりずっと深く刻まれてしまったらしい。澄史が宰相を目指して本気で修行に取り組むようになった理由は、もちろんこの忠清寺に入門した見習い僧としての務めを果たし、一族の期待に応えるということもあったが、心の奥深く――自分でも気づいているのかいないのかわからないほどのところで――あの強い光を湛えた瞳に、少しでも近づきたいという思いがあった。一体どうしてここを出ようと思ったのか?あれからどうやって生きているのか、いやそもそもまだ生きているのだろうか――。彼があの事件までに一体何を考え、何を感じていたのか。空隆という、ほかの誰とも違う、不思議な人間について、知りたいことは山ほどあった。そして、この忠清寺で生きる僧としてそれを叶える唯一の手段は、大僧正になって門外へ出る権利を得ることだけだった。
 しかし月日が経ち次第に多忙になるにつれて、日々の有象無象が澄史の頭の中を占めるようになり、彼のこの情熱は記憶の片隅へと押しやられ、本人もすっかり忘れてしまっていた。今となっては、あの夜の出来事を滅多に思い出すことはないばかりか、空隆の顔さえぼんやりとしか思い出せない。
 (薄紫ノ僧って、ほんっとーに忙しいんだよな。見習いたちに講釈はしないといけないし、俺自身の昇級試験の勉強も、聖典の研究も進めないといけないし。あーあ。目の前の仕事をこなしてるうちにあっという間に一日が終わるんだからな。)
 ただ時折、あの吸い込まれそうな瞳にじっと見据えられる夢を見ることはある。ついさっきのように。
 (空隆…。今生きてるのかな。生きてるなら、どこで何してるんだろう。…いやいや、この調子じゃ大僧正になるにはもうしばらく時間がかかりそうだし、なったとしたって、忙しくてあいつを探す時間なんて無いだろうしな。馬鹿な夢想にひたるのはやめて、仕事するか。)
 澄史はぐっとひとつ伸びをすると、書庫へ向かって歩き出した。











=================
  桐和宗忠清寺 僧位表(低 → 高)

薄墨ノ僧はくぼくのそう墨ノ僧ぼくのそう灰ノ僧かいのそう白ノ僧はくのそう薄黄ノ僧はくおうのそう黄ノ僧おうのそう薄紅ノ僧はっこうのそう紅ノ僧こうのそう薄青ノ僧はくしょうのそう青ノ僧しょうのそう薄紫ノ僧はくしのそう紫ノ僧しのそう(大僧正)
*皆、位と同じ色の小さい札を首から下げていいます。


薄墨ノ僧~白ノ僧[見習い]  黄ノ僧~紅ノ僧[月並み]  薄青ノ僧~青ノ僧[優秀] 薄紫ノ僧~紫ノ僧(大僧正)[最上]
=================

 

 
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