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第一章 第三節
回りだす運命の輪
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書庫から自室へ向かう途中、廊下の奥に緑雨の姿が目に入った。
「あ!澄史!やっぱりここにいたんだな。探してたんだぞ!」
普段明るくへらへらとしている緑雨の顔がいつになく険しい。
「どうかしたのか?」
「藤月和尚が俺たちを招集されたんだ。何か大事な話があるらしい。」
「え、和尚が?今からか?」
「ああ。もうみんなほとんど集まってるよ。来てないのはお前とあと数人くらいだ。」
「ええ?!なら急がないと!大広間だよな?」
「ああ。」
そういうと二人は速足で大広間へ向かった。
藤月和尚、というのは、薄紫ノ僧の指導を受け持つ僧のことだ。和尚は温和な放任主義で、滅多なことがない限り会合など開かない。一体何事だというのだろうか。
澄史が歩きながら口を開いた。
「緑雨、何か知ってるか?」
「うーん…いや、これは完全に俺の憶測になるんだが、天威皇子の病の件じゃないかと…」
「!」
ここ雅真ノ国の皇太子である天威皇子は、二月ほど前に突然倒れ、以来意識も戻らぬままだという。国中のあらゆる寺院の高僧たちが祈祷に駆り出され、忠清寺の最高位・紫ノ僧らもそのために今皆寺を留守にしている。
「あれから二月になるが、確かに何も知らせがないのはおかしいな。そろそろ進展があってもいいはずなのに。」
「果たして良い進展か、悪い進展か。」
「滅多なこと言うなよ、緑雨。うちの紫ノ僧正様たちが総出で祈祷に取り組んでるんだぞ。それに、国中の宗派からあらゆる実力者が出てきているんだ。大丈夫に決まってる。」
そうこうしているうちに二人は大広間に着いた。既にほぼ全員の薄紫ノ僧が集まっており、皆何事かと囁き合っている。澄史と緑雨は入り口近くのわずかに空いた場所に縮こまるようにして正座した。奥の高座には藤月和尚が険しい面持ちで座っており、彼は二人が腰を下ろしたのを見届けると、厳かに口を開いた。
「静かに。」
藤月和尚の低く良く通る声が響きわたり、広間は一瞬にして波を打ったように静まり返った。
「皆の者、急な招集への迅速な応答、感謝する。して、事は一刻を争うため、単刀直入に話をさせてもらおう。皆も天威皇子の容態のことは耳にしておるな。」
ちらほらと僧たちがうなずく。藤月和尚はいつも一言一言に重しをおくようにゆっくりと話すのだが、今日はその響きにただならぬ深刻さが感じられた。
「皇子の容態が昨夜悪化した。」
大広間に、声のない驚きの波が広がった。
(祈祷が効かない…?!紫ノ僧正様たちは忠清寺の教えを極められた最強の霊力を持つ方々だぞ…!)
澄史は鼓動が速まるのを感じながら、固唾をのんで更なる説明を待った。
「当然だがこの事は他言する出ないぞ。皇子の御母君――紅蕾様は心配のあまりご乱心寸前といったご様子だ。そこで紅蕾様は、最終手段として――世緒という異国の術者を招くことになされた。皆も一度は聞いたことがあるだろう。近ごろ都で、どんな病でも必ず治す『救い人』と言われている者だ。」
その言葉に、一瞬にして広間がどよめいた。今まで朝廷に認められ宗派以外は悉く抹消されてきたほど閉鎖的なこの国で、異国の術者を招くなど前代未聞だからだ。
「そんな…じゃあ俺たち忠清寺の僧はもうお呼びじゃないってことか?」
「異国の者?だが海と山脈に囲まれたこの国は簡単に来られるようなところでは…」
「世緒?あの大商人の息子を助けたとかいうやつか?」
皆が口々に議論を繰り広げ、広間は完全に混乱に陥っていた。と、藤月和尚の声が鋭く響いた。
「静かに!」
皆一斉に口をつぐむ。藤月和尚は、えへん、と一つ咳払いをすると再び話し出した。
「よいか、皆の者。このような未曾有の事態であるからこそ、私は皆に冷静さを保ってほしいのだ。紫ノ僧が寺を不在にしている今は、お前たちが事実上忠清寺を率いる立場。今後どのような事が起こっても、忠清寺の長として淡々と任務にあたってもらいたい。」
藤月の最もな言葉に、心なしかさらに沈黙が深まる。
「さて、その任務だが――帝は今回の件に関して、紅蕾様に、ある条件付きで世緒を招くことを許可なされた。それは、忠清寺の紫ノ僧・薄紫ノ僧の監視の下で、世緒が祈祷を行うという条件だ。いくら城下で『救い人』などと噂になっておるからといって、本当に皇子に害をなさない者とは言い切れぬ。そこで、我らがこの祈祷に参席し、もしも気奴が不審な動きをしようものなら、忠清寺の名をかけて必ず封じるようにとのご命令を受けておる。」
その言葉に、広間の多くの僧たちがほっと胸をなでおろした。この術者の監視を仰せつかるということは、忠清寺はまだ帝の信頼を失っていない、すなわち自分たちが宰相の座を手に入れる道が絶たれたわけではないということだ。
「各自、破邪の術は心得ておるな。明日の祈祷では何があるか分からぬ。これだけに限らず、あらゆる事態に備えられるよう各自準備しておくように。法器も準備しておきなさい。では明日、日の出前に皆この大広間に集合し、ともに宮廷へ向かうとする。よいな。要件は以上。各自務めに戻ってよい。」
その言葉に、一気に広間中が騒がしくなった。不安そうな面持ちの者、意気込む者――皆様々な反応をしていたが、思いがけない任務に誰もがどこか興奮しているようだった。澄史と緑雨は、口々に意見を交わしながらぞろぞろと出ていく人の波に交じり廊下へ出た。
「世緒、か…。今そんなに都で噂になってるのか?」
「なってるよ!お前、いっつもいっつも書物ばっかり読んだり修行ばっかりしてるから、巷の話題についていけなくなるんだよ。ここんところ都はこの話で持ち切りで、この山奥の忠清寺にも届くほどなんだぞ。」
「えぇ…。」
「なんでも、都でも有名な大商人の跡取り息子が突然倒れて、数日にして危篤になったんだと。天威皇子と似たような症状だよ。そこへふらりと世緒が現れて、祈祷をしたら、次の日には息子はけろっと治って元気になったとか。」
「嘘だろ?そんな…」
「いやそれが、この話を聞きつけて、都中の人がありとあらゆる病状を抱えて世緒を訪ねるようになったんだが、こいつが見事にどの病でも治してしまうらしくてな。ついには『救い人』と言われるまでになったらしい。まぁこれだけ持て囃されていたら、紅蕾様のお耳に入ったのも不思議ではないわな。」
「へえぇ…。そうなのか。」
「興味なさそうだな。」
生返事をした澄史を見ながら緑雨が苦笑いした。
「え、いや…興味がないんではなくて…ただにわかに信じられないだけだよ。そんな、どんな病でも治してしまうなんてさ。ちょっと胡散臭いじゃないか。」
「まぁ、急に出てきたし、どこの馬の骨とも知れない奴ではあるな。」
「だろ?…まぁ、その世緒とやらがどんな奴であれ、俺たちは俺たちの任務をするだけだ。」
「だな。あー、任務って言えば、俺、破邪の呪文復習しないと。」
「えぇ?この前試験があったばっかりだろ?合格したって言ってたじゃないか。」
「俺はお前みたいに終わったことをいつまでも覚えてる人間じゃないの。必要なときにちゃちゃっとやって、終わったら水に流すの。」
「お前はほんっと、太平楽なくせに要領はいいんだからな。」
澄史が恨めしそうに緑雨をにらむ。
「お前は俺のこと見習って、ちょっとくらい肩の力抜いたほうがいいと思うけどな、『第二の神童』さん。みんながお前を完璧な存在として見るからって、お前自身がそれに合わせて完全無欠になる必要はないんだぞ。」
ぐさり、と痛いところを突かれて澄史は目を見開いた。彼は、誰よりも真面目に、誰よりも真剣に修行の一つひとつに励み、たった十八でここまで上りつめた。その過程で周囲が澄史にそそぐようになった尊敬や嫉妬、期待、羨望の目が重く痛く、澄史は時々、もういっそ自分の身も心も粉々に砕け散ってしまえばいいと思うことがある。
澄史の様子に目聡く気づいた緑雨は、彼の背中をぽんぽんと叩いていった。
「ほら、あの失踪した空隆なんかさ、いつも他人のことなんてどこ吹く風って態度だっただろ?俺が言ってるのはああいうののことだよ。空隆の次って意味で『第二』の神童なんだし、もういっそのこと態度まで似せちゃえばいいんじゃないか?」
他意のない緑雨の笑顔に、澄史も少し気分が明るくなった。不思議だ。競争と嫉妬が渦巻くこの僧界で、緑雨はただ一人、周りに脅威も敵意も感じさせない人物だった。
「俺はお前みたいな人間になれたらなと思うよ。」
「え?俺?なんで?あ、じゃあさ、そのための第一歩として、俺が破邪の呪文の復習してる間、澄史が代わりに俺の聖典の研究進めてくれない?」
「馬鹿いうなって。」
澄史が緑雨を肘で小突くと、彼はけたけたと笑った。
それぞれの部屋へ向かって緑雨と別れた後、澄史は歩きながら先ほど彼に言われた言葉を考えていた。
(俺だって、空隆みたいになれたらいいなと思うよ。というか、俺が一番思ってるよ。)
空隆は天才だった。あまりにも桁外れの才能を持っていたため、周りから同じ土俵に立っていると思われることさえなかった。したがって嫉妬されることも、憧れられることもなかった。人は、あまりに異質な存在にはなるたけ触れないようにするものだからだ。しかし澄史は、血の滲むような努力のみでここまでたどり着いた。努力を怠れば、自分はただの凡庸な人間だということは痛いほど分かっている。それはきっと他の僧たちも何となく気づいていて、「追いつけるかもしれない存在」である澄史は格好の妬みの対象になった。尊敬の眼差しを向けられることもあったが、きらきらと光るその目に映った自分と、澄史が見ているぼろぼろの自分の姿はあまりにも違いすぎて、ただ苦しくなるだけだった。
(『第二の神童』はただの張りぼてなのに、どうしてこんなにも皆から敬遠されるんだろう。)
嫉妬も尊敬も、どちらにしても相手から一線引かれていることには変わりない。澄史は孤独だった。
(いや、でも緑雨みたいなのもいるんだし。完全に孤立しているわけでもないのに、いけないな、こんな事で悩んで。)
緑雨はただ一人、澄史を良くも悪くも特別扱いしない人間だ。彼の底抜けの明るさと歯に衣着せぬ物言いに何度救われたことか。
(……でも、こうやって毎日毎日、だましだまし生きていくのだろうか。)
ふと浮かんできた疑念に澄史は足を止めた。その瞬間、一気に得も言われぬ恐怖が腹の底から湧き上がってきて、思わず吐きそうになり急いで手で口を覆った。肩で息をしながらしばらくそのままじっとしていたが、次第に吐き気が収まってくると、澄史はその疑念をかき消すように数回かぶりを振り、部屋へと急いだ。
=================
~作品豆知識~
緑雨は澄史の五歳上。実力のある修行僧だが、澄史が遥に優秀過ぎるのと、普段のちゃらんぽらんな性格のせいで周りから全く注目されなていない。
「あ!澄史!やっぱりここにいたんだな。探してたんだぞ!」
普段明るくへらへらとしている緑雨の顔がいつになく険しい。
「どうかしたのか?」
「藤月和尚が俺たちを招集されたんだ。何か大事な話があるらしい。」
「え、和尚が?今からか?」
「ああ。もうみんなほとんど集まってるよ。来てないのはお前とあと数人くらいだ。」
「ええ?!なら急がないと!大広間だよな?」
「ああ。」
そういうと二人は速足で大広間へ向かった。
藤月和尚、というのは、薄紫ノ僧の指導を受け持つ僧のことだ。和尚は温和な放任主義で、滅多なことがない限り会合など開かない。一体何事だというのだろうか。
澄史が歩きながら口を開いた。
「緑雨、何か知ってるか?」
「うーん…いや、これは完全に俺の憶測になるんだが、天威皇子の病の件じゃないかと…」
「!」
ここ雅真ノ国の皇太子である天威皇子は、二月ほど前に突然倒れ、以来意識も戻らぬままだという。国中のあらゆる寺院の高僧たちが祈祷に駆り出され、忠清寺の最高位・紫ノ僧らもそのために今皆寺を留守にしている。
「あれから二月になるが、確かに何も知らせがないのはおかしいな。そろそろ進展があってもいいはずなのに。」
「果たして良い進展か、悪い進展か。」
「滅多なこと言うなよ、緑雨。うちの紫ノ僧正様たちが総出で祈祷に取り組んでるんだぞ。それに、国中の宗派からあらゆる実力者が出てきているんだ。大丈夫に決まってる。」
そうこうしているうちに二人は大広間に着いた。既にほぼ全員の薄紫ノ僧が集まっており、皆何事かと囁き合っている。澄史と緑雨は入り口近くのわずかに空いた場所に縮こまるようにして正座した。奥の高座には藤月和尚が険しい面持ちで座っており、彼は二人が腰を下ろしたのを見届けると、厳かに口を開いた。
「静かに。」
藤月和尚の低く良く通る声が響きわたり、広間は一瞬にして波を打ったように静まり返った。
「皆の者、急な招集への迅速な応答、感謝する。して、事は一刻を争うため、単刀直入に話をさせてもらおう。皆も天威皇子の容態のことは耳にしておるな。」
ちらほらと僧たちがうなずく。藤月和尚はいつも一言一言に重しをおくようにゆっくりと話すのだが、今日はその響きにただならぬ深刻さが感じられた。
「皇子の容態が昨夜悪化した。」
大広間に、声のない驚きの波が広がった。
(祈祷が効かない…?!紫ノ僧正様たちは忠清寺の教えを極められた最強の霊力を持つ方々だぞ…!)
澄史は鼓動が速まるのを感じながら、固唾をのんで更なる説明を待った。
「当然だがこの事は他言する出ないぞ。皇子の御母君――紅蕾様は心配のあまりご乱心寸前といったご様子だ。そこで紅蕾様は、最終手段として――世緒という異国の術者を招くことになされた。皆も一度は聞いたことがあるだろう。近ごろ都で、どんな病でも必ず治す『救い人』と言われている者だ。」
その言葉に、一瞬にして広間がどよめいた。今まで朝廷に認められ宗派以外は悉く抹消されてきたほど閉鎖的なこの国で、異国の術者を招くなど前代未聞だからだ。
「そんな…じゃあ俺たち忠清寺の僧はもうお呼びじゃないってことか?」
「異国の者?だが海と山脈に囲まれたこの国は簡単に来られるようなところでは…」
「世緒?あの大商人の息子を助けたとかいうやつか?」
皆が口々に議論を繰り広げ、広間は完全に混乱に陥っていた。と、藤月和尚の声が鋭く響いた。
「静かに!」
皆一斉に口をつぐむ。藤月和尚は、えへん、と一つ咳払いをすると再び話し出した。
「よいか、皆の者。このような未曾有の事態であるからこそ、私は皆に冷静さを保ってほしいのだ。紫ノ僧が寺を不在にしている今は、お前たちが事実上忠清寺を率いる立場。今後どのような事が起こっても、忠清寺の長として淡々と任務にあたってもらいたい。」
藤月の最もな言葉に、心なしかさらに沈黙が深まる。
「さて、その任務だが――帝は今回の件に関して、紅蕾様に、ある条件付きで世緒を招くことを許可なされた。それは、忠清寺の紫ノ僧・薄紫ノ僧の監視の下で、世緒が祈祷を行うという条件だ。いくら城下で『救い人』などと噂になっておるからといって、本当に皇子に害をなさない者とは言い切れぬ。そこで、我らがこの祈祷に参席し、もしも気奴が不審な動きをしようものなら、忠清寺の名をかけて必ず封じるようにとのご命令を受けておる。」
その言葉に、広間の多くの僧たちがほっと胸をなでおろした。この術者の監視を仰せつかるということは、忠清寺はまだ帝の信頼を失っていない、すなわち自分たちが宰相の座を手に入れる道が絶たれたわけではないということだ。
「各自、破邪の術は心得ておるな。明日の祈祷では何があるか分からぬ。これだけに限らず、あらゆる事態に備えられるよう各自準備しておくように。法器も準備しておきなさい。では明日、日の出前に皆この大広間に集合し、ともに宮廷へ向かうとする。よいな。要件は以上。各自務めに戻ってよい。」
その言葉に、一気に広間中が騒がしくなった。不安そうな面持ちの者、意気込む者――皆様々な反応をしていたが、思いがけない任務に誰もがどこか興奮しているようだった。澄史と緑雨は、口々に意見を交わしながらぞろぞろと出ていく人の波に交じり廊下へ出た。
「世緒、か…。今そんなに都で噂になってるのか?」
「なってるよ!お前、いっつもいっつも書物ばっかり読んだり修行ばっかりしてるから、巷の話題についていけなくなるんだよ。ここんところ都はこの話で持ち切りで、この山奥の忠清寺にも届くほどなんだぞ。」
「えぇ…。」
「なんでも、都でも有名な大商人の跡取り息子が突然倒れて、数日にして危篤になったんだと。天威皇子と似たような症状だよ。そこへふらりと世緒が現れて、祈祷をしたら、次の日には息子はけろっと治って元気になったとか。」
「嘘だろ?そんな…」
「いやそれが、この話を聞きつけて、都中の人がありとあらゆる病状を抱えて世緒を訪ねるようになったんだが、こいつが見事にどの病でも治してしまうらしくてな。ついには『救い人』と言われるまでになったらしい。まぁこれだけ持て囃されていたら、紅蕾様のお耳に入ったのも不思議ではないわな。」
「へえぇ…。そうなのか。」
「興味なさそうだな。」
生返事をした澄史を見ながら緑雨が苦笑いした。
「え、いや…興味がないんではなくて…ただにわかに信じられないだけだよ。そんな、どんな病でも治してしまうなんてさ。ちょっと胡散臭いじゃないか。」
「まぁ、急に出てきたし、どこの馬の骨とも知れない奴ではあるな。」
「だろ?…まぁ、その世緒とやらがどんな奴であれ、俺たちは俺たちの任務をするだけだ。」
「だな。あー、任務って言えば、俺、破邪の呪文復習しないと。」
「えぇ?この前試験があったばっかりだろ?合格したって言ってたじゃないか。」
「俺はお前みたいに終わったことをいつまでも覚えてる人間じゃないの。必要なときにちゃちゃっとやって、終わったら水に流すの。」
「お前はほんっと、太平楽なくせに要領はいいんだからな。」
澄史が恨めしそうに緑雨をにらむ。
「お前は俺のこと見習って、ちょっとくらい肩の力抜いたほうがいいと思うけどな、『第二の神童』さん。みんながお前を完璧な存在として見るからって、お前自身がそれに合わせて完全無欠になる必要はないんだぞ。」
ぐさり、と痛いところを突かれて澄史は目を見開いた。彼は、誰よりも真面目に、誰よりも真剣に修行の一つひとつに励み、たった十八でここまで上りつめた。その過程で周囲が澄史にそそぐようになった尊敬や嫉妬、期待、羨望の目が重く痛く、澄史は時々、もういっそ自分の身も心も粉々に砕け散ってしまえばいいと思うことがある。
澄史の様子に目聡く気づいた緑雨は、彼の背中をぽんぽんと叩いていった。
「ほら、あの失踪した空隆なんかさ、いつも他人のことなんてどこ吹く風って態度だっただろ?俺が言ってるのはああいうののことだよ。空隆の次って意味で『第二』の神童なんだし、もういっそのこと態度まで似せちゃえばいいんじゃないか?」
他意のない緑雨の笑顔に、澄史も少し気分が明るくなった。不思議だ。競争と嫉妬が渦巻くこの僧界で、緑雨はただ一人、周りに脅威も敵意も感じさせない人物だった。
「俺はお前みたいな人間になれたらなと思うよ。」
「え?俺?なんで?あ、じゃあさ、そのための第一歩として、俺が破邪の呪文の復習してる間、澄史が代わりに俺の聖典の研究進めてくれない?」
「馬鹿いうなって。」
澄史が緑雨を肘で小突くと、彼はけたけたと笑った。
それぞれの部屋へ向かって緑雨と別れた後、澄史は歩きながら先ほど彼に言われた言葉を考えていた。
(俺だって、空隆みたいになれたらいいなと思うよ。というか、俺が一番思ってるよ。)
空隆は天才だった。あまりにも桁外れの才能を持っていたため、周りから同じ土俵に立っていると思われることさえなかった。したがって嫉妬されることも、憧れられることもなかった。人は、あまりに異質な存在にはなるたけ触れないようにするものだからだ。しかし澄史は、血の滲むような努力のみでここまでたどり着いた。努力を怠れば、自分はただの凡庸な人間だということは痛いほど分かっている。それはきっと他の僧たちも何となく気づいていて、「追いつけるかもしれない存在」である澄史は格好の妬みの対象になった。尊敬の眼差しを向けられることもあったが、きらきらと光るその目に映った自分と、澄史が見ているぼろぼろの自分の姿はあまりにも違いすぎて、ただ苦しくなるだけだった。
(『第二の神童』はただの張りぼてなのに、どうしてこんなにも皆から敬遠されるんだろう。)
嫉妬も尊敬も、どちらにしても相手から一線引かれていることには変わりない。澄史は孤独だった。
(いや、でも緑雨みたいなのもいるんだし。完全に孤立しているわけでもないのに、いけないな、こんな事で悩んで。)
緑雨はただ一人、澄史を良くも悪くも特別扱いしない人間だ。彼の底抜けの明るさと歯に衣着せぬ物言いに何度救われたことか。
(……でも、こうやって毎日毎日、だましだまし生きていくのだろうか。)
ふと浮かんできた疑念に澄史は足を止めた。その瞬間、一気に得も言われぬ恐怖が腹の底から湧き上がってきて、思わず吐きそうになり急いで手で口を覆った。肩で息をしながらしばらくそのままじっとしていたが、次第に吐き気が収まってくると、澄史はその疑念をかき消すように数回かぶりを振り、部屋へと急いだ。
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