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第一章 第四節
儀式と疑惑
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翌朝、まだ日の出前の暗いうちから、澄史たち薄紫ノ僧は天威皇子の寝所前で待機していた。皇族に謁見するような正式な場では、必ず僧位の順で整列することになっている。澄史は薄紫ノ僧の中で最も優秀なため、上位である五人の紫ノ僧のすぐ後ろに控えていた。異例の任務に、緊張と興奮で胸が高鳴っている。澄史は気持ちを静めようと、目を閉じて数回深呼吸をした。
と、音もなく襖があき、儀式のはじまりを告げる鈴の高く澄んだ音が響き渡った。控えていた僧たちは、胸に手を当て首を垂れた正式な礼の姿勢のまましずしずと部屋の奥へ進み、位置についた。
「面を上げよ。」
御簾の下りた高座の奥から、帝の、腹に響くような低い声がし、控えていた僧たちは一斉に顔を上げた。澄史も同じように身体を起こす。と、彼の目に、深い紺碧の衣を纏った見知らぬ男の後ろ姿が飛び込んできた。
(こいつが世緒か…?)
先ほどまで下を向いていたので気づかなかったのだが、なんと澄史は、件の術者の真後ろに座っていたのだ。彼が高座に最も近い最前列にぽつりと一人で座しており、その後方に、左端から紫ノ僧、薄紫ノ僧が横二列になって並んでいる。薄紫ノ僧の先頭にいた澄史は、列の真ん中、ちょうど世緒の背後に位置していた。
(忠清寺の僧である俺たちが後ろに並ばされるなんて…。そんなにも信用を失ってしまったのだろうか。いや、でも逆に言えば、俺はこいつの真後ろで、特等席じゃないか。しっかり見張って、なんだったら正体も暴いてやる。)
澄史はじっとその後ろ姿を眺めた。異国の教えを授ける流れ者だというから、もっと怪しげな姿を想像していたのだが、目の前のすらりと背筋を伸ばした人物からは微塵の胡散臭さも感じられない。頭と全身を覆うその紺碧い衣は、蔓のような模様の美しい金色の刺しゅうがほどこされ、雅真ノ国では見たこともないほど艶のある軽そうな布でできている。衣の皺(しわ)の具合から、この人物がまるで踊り子のような細く引き締まった逞しい体つきをしているのが伺えた。澄史はなぜか、急に彼の腕をぐいと引っ張って顔を見てみたいという衝動に駆られた。
と、先ほどの鈴の音が再び高らかに響き渡り、澄史ははっと我に返った。いよいよ世緒の儀式がはじまるのだ。彼の容姿があまりに意外で一瞬気をとられたが、ここから自分たちの出番でもある。気を引き締めてしっかりとこの男を見張っていなければ。
世緒はゆっくりとした所作で膝元の何かを持ち上げ、深く息を吸いこんだ。次の瞬間、つき抜けるような澄んだ音が部屋を満たした。
(木笛か…!)
木笛は雅真ノ国でも広く演奏されていたが、世緒が奏でるそれは澄史が今まで聴いたことのない旋律を奏でていた。高く低く、湧き水のように澄み切った音が、聴く者の心の深くまで沁み込んでいく。それはまるで、乾いた土を潤す雨のようだった。
(まるで心が洗われるみたいだ。)
澄史は、その透明な響きに耳を澄ますうち、頭が冴え、五感が研ぎ澄まされるような何とも言えぬ感覚に陥った。何だか、周りのもの――天井や畳、御簾、自分の着物など目に映るすべて――がより鮮やかに見え、笛の音がより明瞭に聞こえるような気がする。世緒の正体を暴いてやろうという先ほどまでの意気込みも、不思議とその美しい旋律とともにだんだんと静まっていき、笛の音が止んだころには、澄史はまるで瞑想時のような心の静けさを味わっていた。
次に世緒は、懐から細長い木の札を取り出し、手元の燭台から火をつけた。蝋燭の灯りで一瞬見えただけだったが、その札にはびっしりと紋様のようなものが彫られている。火のついた札の先から、細長い煙がゆらゆらと立ち昇りはじめ、今まで嗅いだことのない不思議なつんとする甘い香りが漂ってきた。それは、鼻先から喉を通って全身を満たしていき、澄史は急に四肢の先が熱を持ちはじめたのを感じた。
(どうなってるんだ…?)
反応する身体に、頭が追いつかない。むしろ、その甘美な心地よさに自分のすべてを預けてしまいたくなる。世緒からもその札からも、全く邪気は感じられなかったが、経験したことのない得も言われぬ感覚に澄史は戸惑った。
(鳩尾が熱い。)
胸の奥のあたりが燃えるように熱くなってきて、血が体中でどくどくと脈打っているのが分かる。それでいてどこかふわふわと宙に浮いているようで、澄史の目はとろんとしてきた。
(酔いしれる、とはこういう事を言うんだろうな。)
と、かすかに何かが動いたのを感じてそちらを見ると、世緒が煙のくゆる札を手にしたまま、静かに立ち上がっていた。そのまま数歩進み出ると、腕を滑らかに上下させ、舞いはじめた。完全な静けさの中、衣擦れの音だけが響く。腕の動きに合わせてひらひらと揺れる長い紺碧の袖が蝶の羽のようだ。彼は続けて、足を軽快に動かしながら手や指を組み合わせ複雑な形を作っていく。流れるようなその動きに吸い寄せられるかのごとく、一同の目線が世緒に集中した。彼は迷いのない動きで懐に手を入れると、素早く先ほどの木笛を取り出し、今度は笛の演奏とともに舞いはじめた。澄んだ美しい音色が部屋中を、そして聴く者の心を満たしていく。旋律に合わせて動く逞しい世緒の身体は、今はなぜか妖艶な女のように見えた。漂う甘い香り、笛の音、優美な舞のすべてが、五感をえもいわれぬ快楽で溢れさせていく。澄史は、胸の奥から湧き上がってくる心地よい何かに溺れていくような気がした。
と、世緒がくるりと身体の向きを変え、笛を鳴らしながらもとの場所へと足を踏み出した。澄史はやっと正面から彼をみることができたが、紺碧の衣は目以外のすべてを覆っているばかりか、その目さえも顔にかかった薄布のせいでよく見えない。世緒は歩を進めるとともに笛の音を弱めていき、もとの場所へ戻ってくると、演奏を止めた。それはまるで心地よいそよ風が吹き止んだようで、不思議な充足感が澄史を満たしていった。
儀式の終わりを告げるシャンシャンという鈴の音で、僧たちは天威皇子の寝所を後にした。
忠清寺の大広間に集められた薄紫ノ僧たちは、上気した頬をさらに赤くし、唾を飛ばしながら先ほどの世緒の祈祷について議論していた。
「おい、いったい何だったんだあの儀式は?!」
「あの笛、俺、あんな美しい音は初めて聞いたよ。何という曲かはさっぱりだったが。」
「それに、あの札は?嗅いだことのない香りがしたぞ。」
「儀式のとき、なんだか夢を見ているような気がしなかったか?なんだかこう、身も心も快い何かに包まれているような…」
皆口々に感想を言い合っていたが、澄史はまだぼうっとしていて、思いを言葉にできるほどの状態ではなかった。
と、高座の奥の襖が開いて、藤月和尚が入ってきた。あれほど喧噪に満ちていた広間が一瞬にして静まり返る。藤月和尚はゆっくりと薄紫ノ僧たちを見渡すと、厳かに口を開いた。
「皆の者、今朝は早くからご苦労だった。して、気奴のあれを、皆はどう見たか。」
広間はしんとしたままで、誰も答えない。ほんの一握りの選ばれた者しかなれない薄紫ノ僧である自分たちが、異国の術者の奇異な儀式に不覚にも陶酔してしまった、などとは到底言えないからだ。
「では澄史、そなたはどう思うたか。」
予想外の一言に澄史はびくりとした。一気に冷や汗が吹き出す。
(いっ、今ですか、藤月和尚…?!)
澄史は内心どきどきしながらも、平然とした顔を取り繕って答えた。
「私の見たところでは、雅真ノ国では見られない奇怪千万な儀式ではありましたが、あの者からも、札や木笛からも、邪気は感じ取られませんでした。」
何人かの僧が彼の言葉にうんうんと頷く。
「うむ。私も澄史と同じ見立てだ。他に何か気づいたことがある者はおるか。」
返答を促すように、藤月和尚はしばらく黙っていた。
「皆、気奴の儀式は邪なものではない、という見立てでよいか。」
和尚の問いかけに、同意を意味する沈黙が流れる。
「よろしい。皆の働きに感謝するぞ。では、後日皇子の容態に変化があり次第召集をかける。その時には出来る限り早くこの大広間に集まるように。他に、世緒やあの儀式について何か気がついたことがある者は直ちに私に言いに来るように。よいな。では解散。」
大広間を出ていく僧たちの流れに押されるようにして、澄史はぼんやりと廊下へ出た。
「おい、大丈夫か?」
背後から緑雨の声がし、澄史ははっと我に返った。
「え?あ、ああ。ちょっとぼうっとしていただけだよ。」
緑雨が澄史の目をじっとのぞき込む。
「お前、顔色悪いぞ。あの煙の匂い、結構きつかったもんな、具合でも悪くなったんじゃないか?俺は今から講義があるから部屋までついていけないけど、終わったらお前の様子を見に行くよ。」
「え、いや、そこまででは…。大丈夫。ありがとう、緑雨。」
緑雨は探るようにしばらく澄史を見つめていたが、分かったよ、と肩をすくめた。
澄史は緑雨と別れ、自分の部屋に向かって歩いていたが、少しして景色がいつもと違うことに気がついた。
(あぁー…。また青龍ノ間で曲がるところ間違えたか。)
忠清寺では、十二の位ごとに寝起きする棟が別々に割り当てられているのだが、すべての棟が橋や廊下で自由に行き来できるようになっているため、かなり入り組んだ分かりにくい造りをしている。入門してから数年経っても迷ってしまう僧は少なくなく、澄史でさえも、ぼうっとしていると道を間違えることが時折あった。
(ここはどこだ…?丸窓の書院、松の木、池…薄墨ノ僧の棟か。なんだか久々に来たな。…懐かしい。)
薄墨ノ僧とは、入門したての幼い少年たちのための最も下級の位だ。澄史がここに在籍していたのは十年ほど前。草木が少し伸びたくらいで、昔とほとんど変わっていない。じぃんとした懐かしさがこみ上げてきて、澄史はしばらくその景色を眺めていた。と、目の端に何かが映った。はす向かいの縁側に、鮮やかな紺碧の衣をまとった男がしずしずと歩いている。世緒だ。
(王宮にいるんじゃなかったのか?ってまあ、それもそうか…いくら紅蕾様から招かれたといっても、どこの馬の骨とも分からない輩を泊めるわけにはいかないか。まだ皇子が回復したわけではないんだし。でも薄墨ノ僧の棟なんて…。いや、うちはよそ者を高僧が住まう奥の棟に迎え入れるような柔軟な寺ではないな。あれだけ素晴らしい木笛の演奏ができたって、所詮よそ者は最下位の僧と同じ扱いか。)
澄史がぼんやりと彼を目で追っていると、ふわりと風が吹いて顔を覆う薄布がはだけ、一瞬その目がのぞいた。
(!)
澄史はそこに、見覚えのある瞳を見た。強い光を湛えた鳶色の瞳。影ができるほどの長い睫毛。どきん、と心臓が鳴る。
(まさか…)
思わずその姿を追いかけようと一歩踏み出したが、澄史は我に返って足を止めた。
(いやいやそんなはずないだろ…。俺、空隆の顔なんてもうはっきりと思い出せないし、そもそも一回逃げ出したところにのこのこ戻ってくる奴がいるかよ。それにさっきの目、どことなく似ているってだけで、別人みたいに生き生きしてたし…。)
紺碧い衣の隙間からちらりと覗いたその瞳は、溢れんばかりの輝きと逞しさが宿っていた。それこそ、才に恵まれた空隆に唯一欠けていたものだ。
(何を馬鹿なこと考えてるんだ、俺。本当にさっきの煙でやられたかな…。)
澄史は自分で自分に呆れてぼりぼりと頭を掻いた。
(さっさと部屋に戻って今日は休もう。)
鮮やかな紺碧の後ろ姿が向こうの廊下の奥へ消えていくのを目の端で見送りながら、澄史は自室へと足早に向かっていった。
と、音もなく襖があき、儀式のはじまりを告げる鈴の高く澄んだ音が響き渡った。控えていた僧たちは、胸に手を当て首を垂れた正式な礼の姿勢のまましずしずと部屋の奥へ進み、位置についた。
「面を上げよ。」
御簾の下りた高座の奥から、帝の、腹に響くような低い声がし、控えていた僧たちは一斉に顔を上げた。澄史も同じように身体を起こす。と、彼の目に、深い紺碧の衣を纏った見知らぬ男の後ろ姿が飛び込んできた。
(こいつが世緒か…?)
先ほどまで下を向いていたので気づかなかったのだが、なんと澄史は、件の術者の真後ろに座っていたのだ。彼が高座に最も近い最前列にぽつりと一人で座しており、その後方に、左端から紫ノ僧、薄紫ノ僧が横二列になって並んでいる。薄紫ノ僧の先頭にいた澄史は、列の真ん中、ちょうど世緒の背後に位置していた。
(忠清寺の僧である俺たちが後ろに並ばされるなんて…。そんなにも信用を失ってしまったのだろうか。いや、でも逆に言えば、俺はこいつの真後ろで、特等席じゃないか。しっかり見張って、なんだったら正体も暴いてやる。)
澄史はじっとその後ろ姿を眺めた。異国の教えを授ける流れ者だというから、もっと怪しげな姿を想像していたのだが、目の前のすらりと背筋を伸ばした人物からは微塵の胡散臭さも感じられない。頭と全身を覆うその紺碧い衣は、蔓のような模様の美しい金色の刺しゅうがほどこされ、雅真ノ国では見たこともないほど艶のある軽そうな布でできている。衣の皺(しわ)の具合から、この人物がまるで踊り子のような細く引き締まった逞しい体つきをしているのが伺えた。澄史はなぜか、急に彼の腕をぐいと引っ張って顔を見てみたいという衝動に駆られた。
と、先ほどの鈴の音が再び高らかに響き渡り、澄史ははっと我に返った。いよいよ世緒の儀式がはじまるのだ。彼の容姿があまりに意外で一瞬気をとられたが、ここから自分たちの出番でもある。気を引き締めてしっかりとこの男を見張っていなければ。
世緒はゆっくりとした所作で膝元の何かを持ち上げ、深く息を吸いこんだ。次の瞬間、つき抜けるような澄んだ音が部屋を満たした。
(木笛か…!)
木笛は雅真ノ国でも広く演奏されていたが、世緒が奏でるそれは澄史が今まで聴いたことのない旋律を奏でていた。高く低く、湧き水のように澄み切った音が、聴く者の心の深くまで沁み込んでいく。それはまるで、乾いた土を潤す雨のようだった。
(まるで心が洗われるみたいだ。)
澄史は、その透明な響きに耳を澄ますうち、頭が冴え、五感が研ぎ澄まされるような何とも言えぬ感覚に陥った。何だか、周りのもの――天井や畳、御簾、自分の着物など目に映るすべて――がより鮮やかに見え、笛の音がより明瞭に聞こえるような気がする。世緒の正体を暴いてやろうという先ほどまでの意気込みも、不思議とその美しい旋律とともにだんだんと静まっていき、笛の音が止んだころには、澄史はまるで瞑想時のような心の静けさを味わっていた。
次に世緒は、懐から細長い木の札を取り出し、手元の燭台から火をつけた。蝋燭の灯りで一瞬見えただけだったが、その札にはびっしりと紋様のようなものが彫られている。火のついた札の先から、細長い煙がゆらゆらと立ち昇りはじめ、今まで嗅いだことのない不思議なつんとする甘い香りが漂ってきた。それは、鼻先から喉を通って全身を満たしていき、澄史は急に四肢の先が熱を持ちはじめたのを感じた。
(どうなってるんだ…?)
反応する身体に、頭が追いつかない。むしろ、その甘美な心地よさに自分のすべてを預けてしまいたくなる。世緒からもその札からも、全く邪気は感じられなかったが、経験したことのない得も言われぬ感覚に澄史は戸惑った。
(鳩尾が熱い。)
胸の奥のあたりが燃えるように熱くなってきて、血が体中でどくどくと脈打っているのが分かる。それでいてどこかふわふわと宙に浮いているようで、澄史の目はとろんとしてきた。
(酔いしれる、とはこういう事を言うんだろうな。)
と、かすかに何かが動いたのを感じてそちらを見ると、世緒が煙のくゆる札を手にしたまま、静かに立ち上がっていた。そのまま数歩進み出ると、腕を滑らかに上下させ、舞いはじめた。完全な静けさの中、衣擦れの音だけが響く。腕の動きに合わせてひらひらと揺れる長い紺碧の袖が蝶の羽のようだ。彼は続けて、足を軽快に動かしながら手や指を組み合わせ複雑な形を作っていく。流れるようなその動きに吸い寄せられるかのごとく、一同の目線が世緒に集中した。彼は迷いのない動きで懐に手を入れると、素早く先ほどの木笛を取り出し、今度は笛の演奏とともに舞いはじめた。澄んだ美しい音色が部屋中を、そして聴く者の心を満たしていく。旋律に合わせて動く逞しい世緒の身体は、今はなぜか妖艶な女のように見えた。漂う甘い香り、笛の音、優美な舞のすべてが、五感をえもいわれぬ快楽で溢れさせていく。澄史は、胸の奥から湧き上がってくる心地よい何かに溺れていくような気がした。
と、世緒がくるりと身体の向きを変え、笛を鳴らしながらもとの場所へと足を踏み出した。澄史はやっと正面から彼をみることができたが、紺碧の衣は目以外のすべてを覆っているばかりか、その目さえも顔にかかった薄布のせいでよく見えない。世緒は歩を進めるとともに笛の音を弱めていき、もとの場所へ戻ってくると、演奏を止めた。それはまるで心地よいそよ風が吹き止んだようで、不思議な充足感が澄史を満たしていった。
儀式の終わりを告げるシャンシャンという鈴の音で、僧たちは天威皇子の寝所を後にした。
忠清寺の大広間に集められた薄紫ノ僧たちは、上気した頬をさらに赤くし、唾を飛ばしながら先ほどの世緒の祈祷について議論していた。
「おい、いったい何だったんだあの儀式は?!」
「あの笛、俺、あんな美しい音は初めて聞いたよ。何という曲かはさっぱりだったが。」
「それに、あの札は?嗅いだことのない香りがしたぞ。」
「儀式のとき、なんだか夢を見ているような気がしなかったか?なんだかこう、身も心も快い何かに包まれているような…」
皆口々に感想を言い合っていたが、澄史はまだぼうっとしていて、思いを言葉にできるほどの状態ではなかった。
と、高座の奥の襖が開いて、藤月和尚が入ってきた。あれほど喧噪に満ちていた広間が一瞬にして静まり返る。藤月和尚はゆっくりと薄紫ノ僧たちを見渡すと、厳かに口を開いた。
「皆の者、今朝は早くからご苦労だった。して、気奴のあれを、皆はどう見たか。」
広間はしんとしたままで、誰も答えない。ほんの一握りの選ばれた者しかなれない薄紫ノ僧である自分たちが、異国の術者の奇異な儀式に不覚にも陶酔してしまった、などとは到底言えないからだ。
「では澄史、そなたはどう思うたか。」
予想外の一言に澄史はびくりとした。一気に冷や汗が吹き出す。
(いっ、今ですか、藤月和尚…?!)
澄史は内心どきどきしながらも、平然とした顔を取り繕って答えた。
「私の見たところでは、雅真ノ国では見られない奇怪千万な儀式ではありましたが、あの者からも、札や木笛からも、邪気は感じ取られませんでした。」
何人かの僧が彼の言葉にうんうんと頷く。
「うむ。私も澄史と同じ見立てだ。他に何か気づいたことがある者はおるか。」
返答を促すように、藤月和尚はしばらく黙っていた。
「皆、気奴の儀式は邪なものではない、という見立てでよいか。」
和尚の問いかけに、同意を意味する沈黙が流れる。
「よろしい。皆の働きに感謝するぞ。では、後日皇子の容態に変化があり次第召集をかける。その時には出来る限り早くこの大広間に集まるように。他に、世緒やあの儀式について何か気がついたことがある者は直ちに私に言いに来るように。よいな。では解散。」
大広間を出ていく僧たちの流れに押されるようにして、澄史はぼんやりと廊下へ出た。
「おい、大丈夫か?」
背後から緑雨の声がし、澄史ははっと我に返った。
「え?あ、ああ。ちょっとぼうっとしていただけだよ。」
緑雨が澄史の目をじっとのぞき込む。
「お前、顔色悪いぞ。あの煙の匂い、結構きつかったもんな、具合でも悪くなったんじゃないか?俺は今から講義があるから部屋までついていけないけど、終わったらお前の様子を見に行くよ。」
「え、いや、そこまででは…。大丈夫。ありがとう、緑雨。」
緑雨は探るようにしばらく澄史を見つめていたが、分かったよ、と肩をすくめた。
澄史は緑雨と別れ、自分の部屋に向かって歩いていたが、少しして景色がいつもと違うことに気がついた。
(あぁー…。また青龍ノ間で曲がるところ間違えたか。)
忠清寺では、十二の位ごとに寝起きする棟が別々に割り当てられているのだが、すべての棟が橋や廊下で自由に行き来できるようになっているため、かなり入り組んだ分かりにくい造りをしている。入門してから数年経っても迷ってしまう僧は少なくなく、澄史でさえも、ぼうっとしていると道を間違えることが時折あった。
(ここはどこだ…?丸窓の書院、松の木、池…薄墨ノ僧の棟か。なんだか久々に来たな。…懐かしい。)
薄墨ノ僧とは、入門したての幼い少年たちのための最も下級の位だ。澄史がここに在籍していたのは十年ほど前。草木が少し伸びたくらいで、昔とほとんど変わっていない。じぃんとした懐かしさがこみ上げてきて、澄史はしばらくその景色を眺めていた。と、目の端に何かが映った。はす向かいの縁側に、鮮やかな紺碧の衣をまとった男がしずしずと歩いている。世緒だ。
(王宮にいるんじゃなかったのか?ってまあ、それもそうか…いくら紅蕾様から招かれたといっても、どこの馬の骨とも分からない輩を泊めるわけにはいかないか。まだ皇子が回復したわけではないんだし。でも薄墨ノ僧の棟なんて…。いや、うちはよそ者を高僧が住まう奥の棟に迎え入れるような柔軟な寺ではないな。あれだけ素晴らしい木笛の演奏ができたって、所詮よそ者は最下位の僧と同じ扱いか。)
澄史がぼんやりと彼を目で追っていると、ふわりと風が吹いて顔を覆う薄布がはだけ、一瞬その目がのぞいた。
(!)
澄史はそこに、見覚えのある瞳を見た。強い光を湛えた鳶色の瞳。影ができるほどの長い睫毛。どきん、と心臓が鳴る。
(まさか…)
思わずその姿を追いかけようと一歩踏み出したが、澄史は我に返って足を止めた。
(いやいやそんなはずないだろ…。俺、空隆の顔なんてもうはっきりと思い出せないし、そもそも一回逃げ出したところにのこのこ戻ってくる奴がいるかよ。それにさっきの目、どことなく似ているってだけで、別人みたいに生き生きしてたし…。)
紺碧い衣の隙間からちらりと覗いたその瞳は、溢れんばかりの輝きと逞しさが宿っていた。それこそ、才に恵まれた空隆に唯一欠けていたものだ。
(何を馬鹿なこと考えてるんだ、俺。本当にさっきの煙でやられたかな…。)
澄史は自分で自分に呆れてぼりぼりと頭を掻いた。
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