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1章
06 駅前での際会
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とりあえず、変な女から逃げたかったのもあるが、この縁起でもない喪服から着替えたかった。
アパートの外壁はもともと白一色だったのだろうが、長年の雨風や土埃に曝されて所々茶色くくすんでいた。
錆びた外階段を一段上がるたびに、軽い金属音が奏でられる。途中で軋(きし)む所もあった。こんな古いアパートに住んでいた坂戸の部屋は、2階の3部屋あるうちの真ん中だった。
カギを開けて室内に入る。六畳一間の割りには物が少なく、整理整頓はされているからか広く感じられた。ブラウン管のテレビ、タンス、小さいテーブル、ドレッサー、ジャンルがごちゃごちゃしている本棚ぐらいしか目立つものはない。
佐渡はタンスから服を引っ張り出し、喪服から着替えた。あまり他人の服を着るのは好きではない。下着をつけるのなんてもってのほかである。服は他人特有のニオイが気になったが、すぐに慣れるだろうと我慢するしかなかった。
――下着はあとで適当に買おう。安いのでいいから。
固い決意を胸に秘め、玄関から出ようとしたしたが、急激に眠気が襲ってきた。
――さっさとタクシーを拾ってその中で寝よう。
ヒールからスニーカーに履き替え、今にも取れそうなドアノブにキーを差し込んで回した。折しもこの辺にしては珍しく、タクシーがこちらに来るのが見え、急いで階段を駆け下りて捕まえた。
「新後駅まで」
せっかくだからもう少し散策したかった。さすがにあの変な女はいなくなっているだろう。そんなことを祈りつつ、背もたれに身を預けた。
「お客さん着きましたよ。お客さんってば!」
少しイラ立っているような声音で佐渡は跳ね起きた。
「アンタねェ、ここはホテルじゃないんだよ。5分も呼びかけて起きないなんておかしいよ!」
「ごめんなさいごめんなさい。運転手さんの運転がプロそのもので爆睡しちゃったの」
「んもー、お客さんお世辞がうまいんだからってそんなにいらないよ!?」
1万円札をキャッシュトレーに置き、佐渡は手を顔の前で横に振った。
「いいのよいいのよ。迷惑代として取っておいてちょうだい。タクシー業界もバブルのころより不況でしょ」
「ありがとうございます! そうなんですよ。なかなかどうしてこのごろは短距離のお客さんばっかりでしてね。家族にうまいモンでも食べさせますわ」
タクシーはクラクションをひとつ短く鳴らし、大通りへ爆進していった。
――勢いでチップをあげてしまったけど、まあいいか。
手を口に当てあくびをする。腕時計を見れば午後5時20分を指していた。
――バスセンターのほうに行ってみようかしら。
雪が降るにはまだほんの少し早い時期ではあるが、冬至に向けて日照時間が日に日に短くなっていく新後の晩秋はかなり寒い。コートの襟を立てて歩いていると、ちょうどバスの乗降場から人が降りてくるところだった。その中にかつてチームメイトだった人物を見つけた。
「つぼみになつめじゃない! こんな所で会うとはね」
神津(こうづ)つぼみに見島(みしま)なつめ――元の世界ではのちに裏切って拝藤組に走るのだが、今はまだ新後アイリスの一員でレギュラーメンバーである。佐渡の心情としては、心細いときに顔見知りに会えてテンションが上がったのだろう。上ずった声で呼びかけていた。
セミロングの茶髪が帽子から出ているほうがつぼみで、目にかかりそうなおかっぱの黒髪に、変装用の眼鏡とマスクをしているのがなつめである。
ふたりとも変装しているが、佐渡にはお見通しだった。昔散々見た変装だからである。
つぼみは聞こえよがしに舌打ちをかまし、なつめはつぼみの後ろに半身を隠して佐渡の様子をうかがっている。訝しんだ佐渡が停車しているバスの方向幕(ロールサイン)を見やった。ちょうど切り替わる頃合いで理由がわかった。
「アンタって本当に懲りないわね。まーだお馬さんにご執心なの? 坂戸か――私にも何度も注意されたでしょ」
「うるせえな。自分の稼ぎを何に使おうと勝手だろ!」
「ギャンブル以外でって約束でしょ? どうしてなんべん言ってもわかってくれないのかしらね」
「るせえ! 私は夏にヒノモトキセキに惚れて、競馬の素晴らしさを知ったんだ!」
佐渡は目を細め、努めて冷徹に言った。
「新後アイリスは選手のタバコとギャンブルは禁止しているの。ルールを守れない人間はいらないわ。もっと野球と仕事に身を入れてちょうだい」
「うるさいうるさい! 私ら知ってんだよ。アンタがアイリスを出ていこうとしてるってことをな!」
なあ、と後ろに隠れたなつめに賛同を求める。なつめは困惑しながらもまっすぐ汚れのない目を佐渡に向けてきた。
「なんのことかしら」
自分の知らない事実に内心たじたじになる。しかし、それをおくびにも出さなかった。潜ってきた修羅場の数が違うのだ。
「まだシラを切ろうってのか! 名門の関西ガスから話が来てるって噂だぜ? チームのみんな知ってんだからな!」
関西ガスとは大手ガス事業者のひとつである。野球部の創部が戦前と古いものの、すぐに休部。1970年代半ばに活動を再開してから1993年現在まで都市対抗出場が7回、日本選手権出場も7回、戦績はどちらも準優勝と強豪の一角と言えた。また、一定の人数のプロ野球選手を輩出していた。
寝耳に水である。やはり、元の世界では起こり得ない出来事が起こっていた。視線を下げ、手で頬をなでながら情報を整理する。ちなみに競馬に興味がない佐渡が知るよしもないのだが、つぼみが挙げたヒノモトキセキのデビューは本来1994年だった。彼女の話に嘘がないなら、1年早まったことになる。
――政は知ってたのかしら?
きっと政が知っていたとすれば、佐渡を想って言ってくれたはずである。それか伝えそびれてしまった可能性もあ
る。だが、知っててわざと言わなかったとしたら――。
「ねえ――」
顔を上げてほかにも話そうとしたが、ふたりの姿はすでになく、夜の街に消えてしまっていた。
アパートの外壁はもともと白一色だったのだろうが、長年の雨風や土埃に曝されて所々茶色くくすんでいた。
錆びた外階段を一段上がるたびに、軽い金属音が奏でられる。途中で軋(きし)む所もあった。こんな古いアパートに住んでいた坂戸の部屋は、2階の3部屋あるうちの真ん中だった。
カギを開けて室内に入る。六畳一間の割りには物が少なく、整理整頓はされているからか広く感じられた。ブラウン管のテレビ、タンス、小さいテーブル、ドレッサー、ジャンルがごちゃごちゃしている本棚ぐらいしか目立つものはない。
佐渡はタンスから服を引っ張り出し、喪服から着替えた。あまり他人の服を着るのは好きではない。下着をつけるのなんてもってのほかである。服は他人特有のニオイが気になったが、すぐに慣れるだろうと我慢するしかなかった。
――下着はあとで適当に買おう。安いのでいいから。
固い決意を胸に秘め、玄関から出ようとしたしたが、急激に眠気が襲ってきた。
――さっさとタクシーを拾ってその中で寝よう。
ヒールからスニーカーに履き替え、今にも取れそうなドアノブにキーを差し込んで回した。折しもこの辺にしては珍しく、タクシーがこちらに来るのが見え、急いで階段を駆け下りて捕まえた。
「新後駅まで」
せっかくだからもう少し散策したかった。さすがにあの変な女はいなくなっているだろう。そんなことを祈りつつ、背もたれに身を預けた。
「お客さん着きましたよ。お客さんってば!」
少しイラ立っているような声音で佐渡は跳ね起きた。
「アンタねェ、ここはホテルじゃないんだよ。5分も呼びかけて起きないなんておかしいよ!」
「ごめんなさいごめんなさい。運転手さんの運転がプロそのもので爆睡しちゃったの」
「んもー、お客さんお世辞がうまいんだからってそんなにいらないよ!?」
1万円札をキャッシュトレーに置き、佐渡は手を顔の前で横に振った。
「いいのよいいのよ。迷惑代として取っておいてちょうだい。タクシー業界もバブルのころより不況でしょ」
「ありがとうございます! そうなんですよ。なかなかどうしてこのごろは短距離のお客さんばっかりでしてね。家族にうまいモンでも食べさせますわ」
タクシーはクラクションをひとつ短く鳴らし、大通りへ爆進していった。
――勢いでチップをあげてしまったけど、まあいいか。
手を口に当てあくびをする。腕時計を見れば午後5時20分を指していた。
――バスセンターのほうに行ってみようかしら。
雪が降るにはまだほんの少し早い時期ではあるが、冬至に向けて日照時間が日に日に短くなっていく新後の晩秋はかなり寒い。コートの襟を立てて歩いていると、ちょうどバスの乗降場から人が降りてくるところだった。その中にかつてチームメイトだった人物を見つけた。
「つぼみになつめじゃない! こんな所で会うとはね」
神津(こうづ)つぼみに見島(みしま)なつめ――元の世界ではのちに裏切って拝藤組に走るのだが、今はまだ新後アイリスの一員でレギュラーメンバーである。佐渡の心情としては、心細いときに顔見知りに会えてテンションが上がったのだろう。上ずった声で呼びかけていた。
セミロングの茶髪が帽子から出ているほうがつぼみで、目にかかりそうなおかっぱの黒髪に、変装用の眼鏡とマスクをしているのがなつめである。
ふたりとも変装しているが、佐渡にはお見通しだった。昔散々見た変装だからである。
つぼみは聞こえよがしに舌打ちをかまし、なつめはつぼみの後ろに半身を隠して佐渡の様子をうかがっている。訝しんだ佐渡が停車しているバスの方向幕(ロールサイン)を見やった。ちょうど切り替わる頃合いで理由がわかった。
「アンタって本当に懲りないわね。まーだお馬さんにご執心なの? 坂戸か――私にも何度も注意されたでしょ」
「うるせえな。自分の稼ぎを何に使おうと勝手だろ!」
「ギャンブル以外でって約束でしょ? どうしてなんべん言ってもわかってくれないのかしらね」
「るせえ! 私は夏にヒノモトキセキに惚れて、競馬の素晴らしさを知ったんだ!」
佐渡は目を細め、努めて冷徹に言った。
「新後アイリスは選手のタバコとギャンブルは禁止しているの。ルールを守れない人間はいらないわ。もっと野球と仕事に身を入れてちょうだい」
「うるさいうるさい! 私ら知ってんだよ。アンタがアイリスを出ていこうとしてるってことをな!」
なあ、と後ろに隠れたなつめに賛同を求める。なつめは困惑しながらもまっすぐ汚れのない目を佐渡に向けてきた。
「なんのことかしら」
自分の知らない事実に内心たじたじになる。しかし、それをおくびにも出さなかった。潜ってきた修羅場の数が違うのだ。
「まだシラを切ろうってのか! 名門の関西ガスから話が来てるって噂だぜ? チームのみんな知ってんだからな!」
関西ガスとは大手ガス事業者のひとつである。野球部の創部が戦前と古いものの、すぐに休部。1970年代半ばに活動を再開してから1993年現在まで都市対抗出場が7回、日本選手権出場も7回、戦績はどちらも準優勝と強豪の一角と言えた。また、一定の人数のプロ野球選手を輩出していた。
寝耳に水である。やはり、元の世界では起こり得ない出来事が起こっていた。視線を下げ、手で頬をなでながら情報を整理する。ちなみに競馬に興味がない佐渡が知るよしもないのだが、つぼみが挙げたヒノモトキセキのデビューは本来1994年だった。彼女の話に嘘がないなら、1年早まったことになる。
――政は知ってたのかしら?
きっと政が知っていたとすれば、佐渡を想って言ってくれたはずである。それか伝えそびれてしまった可能性もあ
る。だが、知っててわざと言わなかったとしたら――。
「ねえ――」
顔を上げてほかにも話そうとしたが、ふたりの姿はすでになく、夜の街に消えてしまっていた。
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