Unknown Power

ふり

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1章

10 アパート炎上

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 坂戸は座布団に座り、見るともなく天井を眺めていた。処理しなければならない情報の多さにうんざりしつつも、帰宅してからは脇目も振らずに貪り読んでいたせいか目が疲れた。目がシパシパし、脳味噌が栄養か睡眠を欲している。とりあえず、眉間を揉んでごまかして目をキツくつむった。

――考えることややることがたくさんある。けど……すごく眠い。

 脳味噌の司令が睡眠を求めるものになったらしく、思考が徐々にぶつ切りとなり、舟を漕ぎ出したそのときだった。

「オイ、久保(くぼ)! テメェがいるのはわかってんだよ! はよ出てこいや!」

 ちょうど真下でチンピラらしきドスの効いた声と、けたたましくドアがたたかれている音が聞こえてきた。
 坂戸の眠気が一気に吹き飛び、玄関の鍵をかけにすっ飛んだ。本物のヤクザだろう。恐怖とリアリティで総身(そうみ)が震えた。

「借りたモン返さねーってのは、どういうコトなんだよコラァ! あんまり舐めてかかってっと、冬の日本海に沈めたるど!」

 チンピラはしばらくの間ドアをたたき続けていたが、不意に音がしなくなった。

「兄貴、どうします?」

 ボリュームが絞られたチンピラの声が誰かに聞いている。

「引き上げだ。久保のヤロー、飛んだのかもな」

 兄貴分らしき渋みのある声がして、それから人が離れていく気配がした。ふたりを乗せたと思われる車がエンジンを吹かし、どこかに去っていく。

――ふう、なんだったんだろう。今のは。

 ここにいると精神的に病みそうな感じがした。しかしこれからは自分の住処(すみか)となる。そう思うと心に暗い影が差した。なんとかして住居を移せないものかと考えを巡らせたとき、あることを思い出した。

――待てよ、今日はチンピラがやらかす日だっけ?

 1993年11月28日。ちょうどこの日、坂戸の住むアパートが火災に見舞われる日だった。幸い死者こそは出なかったが、アパートは全焼。しかも犯人がさっきのチンピラで、その後至る所で放火し続ける放火魔となり、捕まるまでの2年間で50件もの事件を起こすことになるのだった。余談だが元いた2013年に坂戸はおらず、下の住人の久保のせいで起こる事件である。つまり、このままここにいればとばっちりを食らうのだ。

――問題は何時にチンピラが実行したのか。うっすら記憶があるのよね。確か……。

 首をひねって目を閉じる。頭の中の記憶を呼び起こす。

「イ・イ・フ・ヤ・イ・ゴ・シ・オ」

 暗号のような独り言が口から漏れてくる。意味がわかった坂戸は目を見開いて時計を凝視した。
 時計の針は2時を指していた。

――あと1時間もないじゃない!

 事態が差し迫っていることに気づいた。押入れの中からスーツケースとボストンバッグがあったので強引に引っ張り出す。
 ちなみに、イイフヤとは11月28日のことで、イゴシオは15時40分のことをいう。事件が起こった日付けを数字を語呂合わせで覚えていたのだ。ここまで正確に覚えていたのは理由があった。この日は倉本の50回目の誕生日だったのである。恩師の節目の誕生日と連続放火の端緒となる日を完全に忘れるはずがなかった。

――たまたま憶えていたとはいえ、今の自分の身を助けることになるとはね。倉本監督のおかげだよ。本当何度も言ってた『ひとつの出来事は幹となり、記憶を枝葉とし、関連付けて憶えるのが容易』だね。

 命という意味もあるが、知識や情報のことも含まれる。また、倉本の言葉は、チーム内外の膨大なデータを頭に叩き込み、且つ倉本自身が実践していたから説得力もあった。

――感心してる場合じゃない。さっさと荷造りしないと。

 部屋の押入れを漁り始めた。昨日見つけたチームに関するメモ書きやメモ帳なども、ノートといっしょにボストンバッグに詰め込んだ。一番下から水色の封筒を見つけ、手が止まった。どこから来たものかと裏面を見れば、社名の関西ガスと野球部部長の名前が記されていた。

――これね。例の引き抜きの資料ってやつは。

 中に入っていた書類に目を通す。監督時の待遇から野球部を辞めたあとまでのことすら心配してくれる文面に、坂戸の心は思わず揺れた。

――さすが大企業。どんな形であれ景気に左右されないインフラ系にいければ、一生安泰みたいなもの。そりゃ、金にうるさいつぼみも噛みついてくるわけだ。

 普通の人間なら一も二もなく飛びつく。高待遇という名のニンジンを目の前にし、我慢できる人間なんて皆無に等しい。まして、バブルが弾け飛んだ世の中である。元いた世界では「失われた20年」なんて言葉が生まれ、世の中を騒がせているほどだ。

――トキネに会う前に見つけてたら私も釣られたかも。……でも、こんな底のほうに沈めてたのはなんでだろう。

 元の坂戸は何を考えていたのかはわからない。単純に人に見られたくないから底に隠していたのか。それとも――

――おっと、いけないいけない。早くここから出ないと。

 ボストンバッグの上に封筒をしまい、スーツケースには礼服と服をぎゅうぎゅうに詰め、預金通帳や印鑑やスマホなどの入ったリュックを背負って玄関を出た。

――そうだ、放火が起こることをテレビ局に伝えておこう。この時間帯は市内のどこかでロケをしてるはずだから……。

 近くの公衆電話ボックスに入り、電話帳で『テレビ新後』を探す。受話器を肩に挟み、100円玉を投入してダイヤルを回した。



 公衆電話ボックスから出て腕時計に目を落とす。針が昼の2時半を指そうとしていた。そろそろさっきのチンピラが戻って来てもおかしくない。この場をただちに離れる必要があった。

――あとはなんとかなるだろうと思う。あのときも誰も死ななかったのだから、今回も誰も死なないと思いたいけど……。

 トキネの話が気になった。ここは元いた世界と違うことが多々あるため、記憶が通用しないこともある――。ということはあのアパートの中に人がいて、ケガなり最悪死ぬ可能性だって存在するのだ。

――……大丈夫よ。誰も死なない。あまり考えすぎると私の心が持たない。

 こうであるといくぶん断定しなければならない。極端な話、自分の起こした行動によって誰かが不利益を被(こうむ)ったとしても、それはある種仕方のないことである。誰かが得をすれば誰かが損をするように、誰かが幸せになれば誰かが不幸になるように。世の中はプラスとマイナスの比率が均衡して成り立っている。ひどい言い方をすれば遠因であれなんであれ、死んだ人はその人の運命であると思うしかない。もちろん、直接的に手を下したのなら話はまた違ってくるが。

――行こう。私には確かめなければならないことがたくさんある。

 これから火に焼き尽くされる古いアパートに対して気に病む時間などない。
 坂戸は一度たりとも振り返りもせずに、呼んだタクシーに乗り込んだ。
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