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狐の婿入り

あやかしの提案

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 暫くして。
 一体何がどうしたと驚く父を説き伏せて、奏子は控えの間へと下がっていた。
 心が、考えが、先程あった出来事に追いついてくれない。少しでも落ち着きたくて、一人になれる場所を探して広間を後にした。
 憧れのお二人、天女の君にはお声をかけて頂いて、貴公子様にとは何と踊って頂いた。
 何度頬を抓ってみても痛みを感じる、即ち夢ではない。今、奏子は現実にいる。けれどもあまりに、夢のような出来事過ぎた。
 胸ときめかせて妄想する余地すら残っていない、胸が一杯とはまさにこの状態をさすのだろう。
 ああ本当に、夢みたい。語彙すら死んでしまったのだろうか、先程から裡に次々同じ言葉しか湧いてでない。それが胸を埋めつくしていく。
 奏子は視線を自分の手に下ろして、また一つ息をつく。
 あの方の手の感触が残っている、温かさが胸に灯した熱も蘇ってくる。
 数多のこころが入り交じり綯交ぜになり、落ち着いて思考が出来ない。
 出来るのはただ、吐息を零す事だけ。落ち着けと自分に言い聞かせてみても、効果は見られない。
 その時、遠くに複数の女性の声がした。幾人かが控えの間へと足を運ぼうとしている靴音を聞きつけて、奏子は逃げ出すように外へと出る。
 ご婦人方に奏子の居場所が知れたのだとしたら、この後の展開は知れている。考えの整理が追い付いていない今、質問攻めだけは御免だと。
 奥まった方へ行く通路があったので、そちらに身を潜めるかと足を向けかけた時、何かの物音を感じた。
 気のせいだったかと思えども、くぐもった人の声のようなものまで確かに。一体何がと覗き込んだその通路にて、奏子は信じられないものを見た。

 先程広間にて注目を集めていた、貴公子と天女の君――朔と望という名の男女が其処に居た。

 けれど、一人増えていた。
 朔は何やら男を取り押さえており、望は其れを見下ろして何かを思案している様子である。
 抑えられている男は意識がない、だがその風体からして夜会の招待客ではない。
 欧化を快く思わぬ国粋主義者には過激な行動に出るものがあるというから、まさか……と呟く。
 けれども、それすら今は如何でも良いと思ってしまう事がある。如何でも良くないのだが、それでも。
 奏子は己の目を疑ってしまう。目を瞬いて、擦って、閉じて、そしてまた開いて目の前の光景を凝視する。
 何も変わっていない。奏子の瞳に映るのは、先程と同じ驚愕の場面。
 何が信じがたいかというと、見えるのだ。おおよそ人には有り得ぬものが、この二人に。そう、それは……。

「……狐の耳と、尻尾……?」
「あら、ちょっとうっかりしていたわ」

 声が震えてしまうのは、致し方ないと思う。
 気が緩んだから『貴女には』見えてしまったのねと微笑う望。
 元より色素が薄かった髪と瞳は、光を透かせば銀にも見えそうな淡い金色の髪に満月色の瞳に。
 そして、狐の耳に、一、二、三、四本のふさふさとした尻尾。
 不審な輩を取り押さえながら嘆息する男性は、同じ色の髪色瞳色に耳、ただし此方は尾が三本。
 ああ触ったらもふもふと心地よさそう、というのが現実逃避であるのは何処かで気づいて居る。
 奏子は瞳を瞠ったまま、片手で頬を抓った。痛い、白い陶器のような頬のうち、その部分だけが赤みを帯びる。
 現実だ、此れは紛れもなく現実だ。目の前の出来事も、奏子の憧れだった二人には狐の耳と尻尾がある事も、全て。
 それが示している、事実は。

「人間じゃない……?」
「これでも千年を生きている天狐なの」
「自ら明かして如何する……」

 悲鳴を上げるのを避けたのは、令嬢としての最後の自制心であろうか。
 正体をさらした上に、実にあっけらかんと説明までしてのけた人ならざる女性に、同じく人ではない男性が苦く呟く。
 その低い声音が、更に目の前の出来事が事実であるのだと認識させるに至り、奏子は呻くように言葉を絞り出す。

「あ、あやかし……何で……」
「まあ、話を聞いて? 眞宮まみや子爵のお嬢様?」

 身元が割れている! と知れば奏子の顔は更に蒼褪める。
 父と共に居たのだからそれは仕方ないと思うけれど、恐れは尚一層深まるばかり。
 震えながら後退りする奏子を見て、望は苦笑いして一息つくと、再び朗らかな声音で口を開いた。

「落ち着いて頂戴、ねえ『槿花先生』?」
「はい……?」

 聞こえた内容が最初は理解出来なかった。
 だが、遅れて何と言われたか認識したら震えが止まった。いや、震えどころか全ての動きも、思考も停止した。
 この美しい狐の女性は何と言ったのか、思いがけない名前がその口から出てきた気がするのだが、気のせいだろうか。
 必死に隠していた事実を、この美しい女性はいとも簡単に口にして見せなかったか?
 震えは止まったものの、彫像のように凍り付いてしまった奏子を、朔は気の毒そうに見つめている。
 けれども、望は奏子の手をとり両手で握ったかと思えば、上機嫌に叫んだのだ。

「私、貴方の小説が大好きなのよ!」
(あやかしって、小説読むの!?)

 思わず呟きかけたのは心の裡に留めた。
 人とは違う理に生きているものであろうと、智慧を有し永き時を生きる存在であれば数多の書物を嗜みもしよう。
 ただ、それが自分の書いた小説というのは驚愕であるのが。
 すっかりご機嫌な狐の女性は、頬を染めうっとりとした表情を浮かべながら続けている。

「恋愛小説が大好きでね、色々集めているし読んでいるのよ。種族違いの恋も素敵だし、凛々しい殿方同士やうつくしい女性同士の恋も素敵ね」

 普通の男女の恋愛だけではなく、異種族の恋愛も、男色も女色もいけるとはかなり間口の広い方だわ、というのは奏子の内なる独り言である。
 密かに、この方とは仲良くなれるかもしれない、と思ったなんて秘密もいいところである。
 満面の笑み浮かべる望は、奏子を見つめながら、感嘆の息をつく。

「ああ、色々見せてあげた甲斐があったわ。こんなに素敵なお話を書くようになるなんて。新しい連作の続き、楽しみにしているのよ!」

 感慨深げな言葉に、曖昧に微笑みつつ相槌打っていた奏子が首を傾けたまま、再び固まる。
 色々見せてあげた、とは此れは如何に。
 そもそもこの狐の女性を知ったのは夜会にお邪魔させてもらうようになってからで、言葉を交わしたのはつい先程の大広間が初めて。
 何気なく呟かれた故に流してしまいそうになったけれど、何とも言えない表情になってしまう。
 眼差しの先で、望は上機嫌であり、朔は不機嫌なまま奏子を見つめている。

「あの、有難うございます」

 疑問は募るばかりだが、とりあえずは褒められたと言う事だけは理解できている。
 それならば礼を伝えようと、奏子はまず丁寧に頭を下げながら伝えた。
 人であろうと無かろうと、自分の作品を愛してくれている存在に会えたのは素直に嬉しい。
 楽しみに読んでくれていたのだろうと伝わってきたから、書いてきて良かったと思えて胸が温かくなる。
 けれど、と心に哀しく呟く。
 楽しみにしているからこそ、伝えなければならない事がある。

「でも、もう直書けなくなるのです。縁談が決まりそうなので」

 寂しげな表情の奏子を見つめる望が目を見張ったのを感じる。その背後で、朔が身を強ばらせたのも。
 伏し目がちになってしまったのを覗き込むようにしながら、望が静かに問いかけてくる。

「……もう何方かお相手は決まっているの?」
「誰かまでは決まっていませんが、そろそろ婿を取らせると父が」

 父がそう言い出しているのであれば、それは覆らない決定であるし、奏子に逆らう術はない。
 そして結婚してしまえば、今までのように密かに筆を執る事も出来なくなってしまうのは間違いない。
 だから、奏子の夢の終わりは直ぐそこまできているのだ。
 哀しげに奏子が告げたなら、暫くは沈黙が流れる。
 朔は何故だか更に不機嫌になったように感じるし、望は何やら考え込んでいる。
 そして、ややあって口を開いたのは望だった。

「じゃあ、朔をあげるわ」
「え?」

 間の抜けた声を発してしまった奏子は、視界の端で朔が目を見開いて絶句したのを捉えた。
 何を言われたのかが直ぐには理解できず、そして理解した後には何と返答してよいか分からず。
 この女性、何を言おうとしているのだと引き攣った表情で眼差し向ける事しか出来ない。

「朔に相応の身分と持参金つけて、お婿にあげる。この子なら執筆の邪魔になる事はないし、奏子さんは気兼ねなく続きを書けるわ」
「え、え……?」
「勝手に決めるな」

 望はより具体的にその言わんとするところを伝えてくる。
 けれども、奏子の困惑は更に深まるばかりだ。
 婿にくれると言うけれど、どう見ても当の本人は乗り気ではないし、そもそもくれると言ってもこの二人は。
 そう思うに至って、この二人が実のところどういう関係なのか知らない事に気付いて、奏子はおずおずと問いかける。

「あの、そもそもお二人はどの様なご関係で……?」
「姉弟よ、私がお姉さん。朔は私の弟なの」

 姉のほうが強いというのも、人にはなかなか無い力関係かもしれない。
 女性は男性に従う立ち位置にあるもの。跡取りとなり得る男兄弟のほうが強いのは自明の理である。
 それも人の価値観であり、あやかしには関係ないものらしい。
 もしかしたら男子でなければ跡取り足りえないという決まり自体がないのではと思う。
 確かに面差しは似通っているし、纏う色彩も同じである。血縁と言われば頷く。
 ただ、その言うところが本気なのだろうかと、奏子は瞳を瞠る。
 要らない、などと言ったら例え冗談の話であっても失礼な事だし。
 なら下さい、という訳にもいかないだろう。犬猫の子ではあるまいし。
 この場合、如何応えるのが正しいのだろうかと思案する奏子。
 何やら苦情を申し立てる朔を無視して、望は楽しそうに笑いながら「遠慮しなくていいのよ」と言葉を重ねる。
 遠慮しているのではない、どう返答すれば一番失礼にならないのかを熟考していただけだ。
 まさか本気であるまいとは思うけれど、如何にすれば弟の面子を潰さず、姉の配慮を無碍にせずにいられるか。
 答えがなかなか出ないまま、思案顔で凍り付いてしまう奏子。
 その時、遠くから男性の声が聞こえた。奏子を呼ぶ声がする、あれは父だ。控えの間に下がったまま戻らないのを心配してきたのだろうか。
 行った方がいいわ、という望の声に半ば誘導されるかのように奏子は呼び声の方へと歩いていく。その何かに浮かされたようなふらふらとした危うい様子の背を、無言のまま見送る朔の眼差しは険しい。

 やがてその姿が角を曲がって消えていったあと、その場に満ちるのは沈黙。
 暫しして、それを破ったのは弟である。

「如何いう事だ、先程といい今といい」
「何よ」

 不機嫌さを隠しもしない弟に対して、姉は拗ねた風な眼差しを向ける。
 先程というのは大広間でのダンスの事だろう。
 奏子と踊れるように采配した事を責められているのだとすぐに気付いて、望は盛大な溜息をひとつ。
 肩を大仰に竦めながら、姉は弟へと呆れた口調で言い放つ。

「朔が煮え切らないから背中を押してあげただけよ、見ていてじれったいったらないわ」
「余計な真似を」

 このひねくれもの、天邪鬼。望は裡で盛大に朔をこき下ろしていた。
 望は見逃さなかった。奏子の手を取れた朔が、ひとひらの喜びをその瞳に宿した事を。姉でなければ気付かぬほどの刹那の事ではあったけれど。
 再び深々と息を吐いたなら、少しばかり表情を険しくしつつ望は続ける。

「お嬢様が『槿花』である事を気づいた誰かが居るかも、って報告をうけた以上、誰かが守ってあげなくちゃいけないでしょう?」

 先程の男は何者かに金になると言われて忍び込み奏子を狙いはしたものの、詳しい処までは聞かされていなかったらしい。
 記憶をきっちりと消し去っておいたが、其処から繋がる情報はまだ得られていない。
 奏子が最近話題の小説家であると気付いた者が何処かに在る以上、再び似たような輩が現れるだろうことは目に見えている。
 それならば遠くで気を揉んで見守るより、近くで守ってやったほうがよかろうと姉は言う。
 素直ではない弟が、いざ何かあった場合にどれだけ懊悩するか目に見えているから。
 朔からの反論はない。
 眉間に縦皺を寄せながら沈黙していたかと思えば、次にその口から零れたのは深い深い溜息交じりの言葉である。

「俺はもう繰り返すつもりはない。……時期がきたら別れる、本当に夫婦になる心算も、愛する心算もない」
「好きにしたら?」

 その言葉は、望が申し出た内容を受諾する事を示していた。
 受け入れる、だが奏子を受け入れる心算はない。朔はそう言いたいのだろう。
 それだけ告げると、朔は望に背を向けて足早にその場から去っていく。
 望は追わなかった。
 朔が姿を消していった方角を見据えながら、何度目かわからぬ溜息をついて肩を竦める。

「愛するつもりはない、ねえ」

 本当にあの弟は素直ではない、と姉の顔に浮かぶのは苦笑いである。
 愛する心算がないと言うなら、それでもいい。
 近くで守る事を承諾した事を、少しの進歩として認めてやるしかあるまい。
 嫌がる朔を引きずるようにして、奏子と顔を合わせる事が出来るこの夜会へと連れて来た時からわかっていた。
 朔は、拒みながらも捨てきれない。捨てたと思っているだけ。
 自らの裡に根付く心を必死で否定し、無いものとする弟が滑稽であり、哀れだと姉は思う。
 愛する心算はないと、朔は言う。けれど……。

「もう手遅れだと思うけど」

 だから、貴方の尻尾は今一本足りないのでしょう?
 呟いて、望はもう一度、苦い吐息を零した。
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