上 下
29 / 37
懐かしきへ至る道

シノの賭け

しおりを挟む
 ミス・メイが人ではなくあやかしであり、男性であった事。
 長年仕えてくれたシノもまたあやかしの狐であった事。
 目の前にて明らかになった事実が現実とは思えぬ程に衝撃である筈なのに、何故かそれを『知っていた』ように違和感を覚えない自分に奏子は戸惑っていた。
 耳と尾をもつシノを近くで見ていた気がする。
 笑う恐ろしい男を見上げた事がある気がする。
 それは、覚えがないというのに、確かに奏子の裡に刻まれている何かの記憶。
 開きかけている扉の隙間から垣間見える何かにもどかしさを覚えている間にも、初魄とシノは対峙し続けている。

「此処でお帰りになると言うならば」
「見逃すって? お前が俺を?」

 感情を抑えて告げるシノに対して、返されたのは嘲笑だった。
 シノは努めて冷静であろうとしているようだが、その成果は捗々しくない。
 声の端に、仕草に、初魄への憎悪がにじみ出てしまっており、それは相手の言葉一つで容易に膨れ上がる。
 見てわかる程に初魄はシノを格下と見下している。
 確かに、初魄の方が有する力は強いのだろう。見ているだけでも、それは肌で感じる事が出来る。
 見逃す方であるのは自分であると思っているであろうことが見てとれる。
 奏子がそう思って唇を噛みしめていると、それを読んだかのように初魄が口を開く。

「お前の方こそ。奏子を置いて逃げるっていうなら、見逃してやってもいい」
「お断りいたします」

 悪意だけの言葉に、返すシノの声音は固いが迷いはない。絶対にそれだけはしないという強い意思が感じられる。
 返答に呆れた様子で肩を竦める初魄を真っ向から見据えながら、シノは続けた。

「わたくしは奏子様を守り抜けという命を受けております」

 それは誰からの命なのだろうか、名言はされていないけれど分かる気がした。
 恐らく、彼だ。
 言葉は少なくとも奏子を支え守り続けてくれた、彼女の仮初の夫となってくれた、彼――。
 熱くなる胸の裡に、無意識にうちに握る手に力が籠る。
 シノと初魄の言葉による工房は尚も続いている。

「望の腹心とはいえ、所詮気狐のお前が、俺に勝てると思っているの?」
「わたくしは役割を全うするだけです」

 徐々に、初魄を包む空気が剣呑なものを帯びてきているのを感じる。
 それはシノも感じているのだろう。彼女の空気もまたそれに応じるように緊張を増していく。

「お前が守りに長けているのは知っている。……でも、それで俺をどうにかできるとでも?」

 初魄は瞳に肉食の獣の残虐さを宿し、薄く獰猛さを滲ませる笑いを浮かべて告げる。
 言葉の終わりと。
 初魄により禍々しい光の奔流が放たれたのと、それを遮る燐光を帯びる透明な壁が生じたのは同時だった。
 空気を震わせて伝わる衝撃に思わず息を飲み、シノの背の着物を掴む奏子。
 安心させるように奏子に向って微笑むと、すぐに険しい表情を造り初魄を睨み据えるシノ。

「ああ、これは中々の防御だな。……逃げられないけどね」

 褒める口調も、揶揄の意図が籠っているのは明白である。
 口の端を歪め初魄が手を降ると、新たな不可思議が守りの壁に襲い掛かる。
 空気を揺らす振動は感じるものの、壁に綻びは見られない。
 シノが優れた守りの術者であるというのは、確かなのだろう。
 だがしかし、である。
 そもそも、一定地点に守りを敷いている今の状態では逃げられない。その場から動く事すら出来ない。
 対して初魄は事も無げに手を振るうだけで、次から次に攻撃を繰り出してきている。
 シノとて無限に妖術を行使し続けられるわけではないだろう。
 ならば、このまま攻められ続ければ、いずれは……。
 初魄は愉快だと笑いながらそう言うと、また新たに手に何かの不可思議を編み上げていく。
 編み上げては壁にぶつけてを、初魄は繰り返す。
 加減しては全力であったり、諦めたように見せかけた瞬間に不意に全力であったり。
 緩急つけつつも、猫が鼠をいたぶるように残酷に繰り出され続ける攻撃は苛烈を極めた。
 明らかに初魄はこの状況を愉しみ遊んでいる。
 シノが守りに徹している状況を嗤い、自らの力を見せつける事を楽しんでいる。
 楽しみながら、何れシノが限界を迎える時を待っている。
 シノの背に半ばしがみ付くようにしている奏子は気が気でない。
 伝わってくるのだ、シノが徐々に疲弊していっている気配を。
 表情を強ばらせながら着物を握る手に力を込めた奏子を振り返り、シノは笑った。

「大丈夫でございます、奥様。……もう少しですから」

 シノは優しい声音で奏子に言った。
 安心させるように、張り詰めたものではない何時もと同じ笑みを見せながら。
 奏子を守る為に、攻撃に対する守りを貼り続けるのだ。
 シノの顔色は徐々に蒼褪めているし、頬を伝う汗は徐々に増えている。
 それなのに、シノは決して顔を歪めない。奏子に不安を与えまいと、必死に笑っている。
 壁は次第に、衝撃に輪郭を揺らす事が増えている。
 けれども、シノは歯を食いしばってそれを押し返し、守りを貼り続けた。
 初魄の攻撃の手は休まる事はないというのに、男に欠片の疲れも見られない。
 何れくるシノの限界を、残虐な喜びを宿して待ち続ける様子があるだけ。
 果てない攻防が続いた気がした。
 何時まで続くのだろう、何時まで続けられるのだろう。
 そう、奏子が眉を寄せた瞬間、ぴしりと何かに皹入るような音がした。
 見れば、うねるような力の奔流を受けた箇所にほんの小さなものであるが亀裂が生じている。
 シノは努めて冷静であろうとしているけれど、その表情に隠しようもない焦りが滲む。
 それを見た初魄がそれは愉しそうに、残虐に目を輝かせて、手を振り上げた。

 その瞬間だった。
 大きな何かが、初魄へと襲い掛かったのは。

「……間に合ったようです」
「え……?」

 シノは辛うじてと言った様子で笑みを浮かべる。
 その瞬間、澄んだ甲高い音をたてて、守りの壁が割れるように消失する。
 何がどうなっているのかわからない奏子は、目の前の光景を見て茫然とした。
 巨大な獣が、初魄を押し倒しその喉首に喰いつかんとしている。
 見ればそれは大きな狐で、そのこの世ならざる大きさの狐の尾は三本で……。

「……朔!?」

 奏子が叫ぶのと、初魄が狐へ何がしかの攻撃を繰り出したのはほぼ同時だった。
 狐はそれを避けて跳び退り、初魄もまた瞬時に起き上がると後ろに跳んで距離を取る。

 美しい狐は、まるで何かの奇術のように。見る間に美貌の男へと姿を変えた。
 見慣れた奏子の夫である、朔の姿に。

 シノは安堵の息をつくとその場に膝をつき、奏子は慌ててその傍らにしゃがみ込み様子を伺う。
 大丈夫ですと安心させるように呟くシノの顔色は白いけれど、表情は穏やかであり、どこか誇らしげですらある。
 シノの見据える先へと奏子も眼差しを向ける。
 そこには、美貌の狐の男達が対峙する光景があった。

「何で帝都に居るはずのお前が此処に居るんだよ……!」

 表情を歪めて初魄が呻くように言う。
 そこには、相手への忌々しさと敵意が隠される事なく現れていた。
 けれどもそれは朔も同じ事。
 むしろ、朔の端整な顔に浮かぶ暗い感情の方が、憎悪すら帯びて強くすらある。

「呼ばれてもいないお雇い外国人が押しかけてきたので、朔様にご連絡しただけです」

 唇を噛みしめて悔しげな初魄へと、冷静にシノは告げた。
 彼女は言った。疑念は抱いていた、と。
 けれども、招かれざる客として異国の女が現れた段階で、それは確信に変わった。
 だからこそシノは使いを送り朔へとすぐに伝えたのだ。
 中々尻尾を掴ませぬ不届きな狐が、奏子の前に現れた、と。 

「だから申し上げました。役割を全うするだけだと……時間稼ぎとしての、役割を」

 シノは朔が駆け付けるであろうことを察していた。だからこそ、朔がこの場に到着するまでの時を稼ぐ事に専念した。
 逃げたとして相手は追ってくる、逃げ切れる勝算はけして高くない。
 それならば、力強い戦力が到着するまで、相手に悟らせぬように時を稼ぐことにした。
 そしてそれは、成功した。シノは賭けに勝ったのである。

「奏子、無事か……?」
「うん……シノが守ってくれたから……。」
「よくやった、深芳野」
「勿体ないお言葉です、朔様」

 シノを支えながら座り込んでいた奏子へと朔が問う。
 努めて冷静であろうとしているけれども、奏子の身を痛い程に案じる心と、どこか焦がれたような響きは隠しきれていない。
 朔の姿を見て僅かであるが緊張が解けたのを感じた奏子は、シノへと視線向けつつ応え、それを聞いた朔は静かにシノを労う。
 シノが膝をついてその言葉に応じた時、棘を纏った言葉がその場に響いた。

「……成程。無能は一応取り消してやるか」

 一つ大仰なまでの息をついて吐き捨てるように言うと、初魄は朔へと向き直る。

「朔、久しぶりだね。『あの時』以来か」
「……よくも臆面もなく姿を現せたものだな」

 腹が立つ程に朗らかな笑みに口調で朔へと言う初魄に対して、朔は欠片の好意も笑みもない。
 抑えようとしているものの、言葉の端々に嫌悪が、憎悪が、煮えたぎり吹き上がろうとするのを感じる。
 奏子は目の前で繰り広げられ続ける出来事に、理解が追いついていかない。
 けれども、朔が初魄に対して相当に深い何かを抱いているのだけは肌で感じた。

「その内姿を現してやるつもりではあったよ。……この目の礼もしてやりたかったし」

 初魄は、無惨につぶれたほうの目に手をやりながら表情を歪める。
 奏子は目を見開いた。
 初魄の瞳を奪ったのは、朔という事なのか。
 朔が理由なくそのような乱暴な振舞いに及ぶわけがない。それならば一体何があったというのだ。
 朔が他者を害するほどの、何が――。
 初魄がゆるりと奏子へと視線を向けたなら、朔は身構えたままそれを遮るように間に立つ。
 その背中は、けして初魄の目に奏子を入れまいとするようであり、奏子に初魄を見せまいとするようであった。
 今、朔がどのような表情をしているかは奏子からは見る事は出来ない。けれど。

「お前のその顔。……必死だな『あの時』みたいに」

 嘲笑う初魄の笑みにも、声にも、煮えたぎるような怒りと憎悪が見え隠れし始める。
 あの時、奏子は心の裡で呟く。
 恐らく、朔が初魄の片目を奪った時。
 朔が理性を失う程に怒りに支配された、過去の時。
 怒りに身をゆだねる男達は、それぞれの妖力を表す花の香りを纏っている。

(わたしは、知っている……!)

 袂にある香り袋が、ちりちりと音を立てている。
 朔と初魄が対峙する光景が。
 沈丁花と梔子の香りが薫る光景が、奏子の中にて閉じられていた記憶の扉が、開いていく……。
しおりを挟む

処理中です...