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懐かしきへ至る道

きつねのおやしき

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『犬や猫の子供じゃないのだから、要らないからと言って貰ってくるのは如何なものかと……』

 次の古い記憶は、溜息をついているシノの姿だった。
 シノは、突然人間の子供を連れて狐の一族の屋敷へ帰った朔に驚き、事情を聞いた途端深々と溜息をついて肩を落した。
 対する朔は、全く動じる様子もなく、引け目を感じている様子もない。
 そんな朔を見て、シノの溜息は更に深くなる。
 シノが何か物申そうとした時、その場の皆の耳に飛び込んできたのは、朗らかで優しい女性の声だった。

『あらあら、いいじゃない。私は可愛い妹が欲しかったのよ!』
『望様!』

 美々しい衣裳が調和すれども勝ちすぎると言う事のない、朔とは違った雰囲気の美しいひとだと感じた。
 朔が静かな月夜の静謐の美しさなら、爛漫花盛りの華やいだ美しさ。違った形であるけれど、二人並ぶと何と綺麗なのだろう。
 思わず見惚れてしまった奏子を見て、望は優しく微笑むとシノを言い含めている。
 どうやら偉いひとである望は歓迎してくれていること、シノとて拒絶している訳では無い事は感じ取れた。
 仕方ありませんね、と苦笑するシノを見て、朔と奏子は目を見合わせて笑った。

 朔が人間の子供を連れ帰った事はすぐに屋敷中に知れ渡る事となり、奏子は屋敷の一員として迎えられた。
 奏子はすぐに屋敷の狐たちに馴染んだ。
 人の子供に興味を持ちながらも少し遠巻きにしていた狐たちは、左程時を置かずに奏子に構うようになる。
 最初こそ恐る恐るではあったものの、狐たちは皆優しく世話焼きだった。その内競うように奏子の世話をするようになった。
 ここでは禁じられていた、思うままに駆けまわる事も、笑うこともはしゃぐことも許されるのだと知った奏子は嬉しかった。
 何時しか、奏子が楽しそうに笑いながら駆けまわり、それを狐たちが微笑み見守る光景が、屋敷の日常となっていった。

 狐の屋敷に迎え入れられた人の子供は、統領姫の弟に殊に懐いていた。
 奏子は何かにつけては朔の後をついて回り、朔の傍に居たがった。
 朔が午睡を決め込もうとするならば、隣に寝ころび何時の間にか先に寝てしまったり。朔の姿を見つけると、駆け寄ってはその腕に飛び込んで行く。
 所用にて朔が屋敷を開ければ、帰ってくるまで唇を噛みしめて耐えながら屋敷の玄関にて日がな待ち続けている。
 どれだけシノが止めても、朔が帰るまではと待ち続け、何時しか眠ってしまったところを朔が見出す事も多々。
 それを見る朔の表情は、平素のどちらかというと怜悧な雰囲気ではなく、優しい慈しみに満ちたものだと皆は囁いていた。

 奏子は朔と離れていることを嫌がる為、そのうち朔は所用にも奏子を連れて赴く事が増えた。
 狐以外のあやかしに出会う事も多く、皆は揃って朔が人の子供を連れている事に大層驚いていた。
 けれども、朔が奏子を深い情を以て宝のように扱う様子を見て、知らずと笑みを浮かべていたのである。
 数多のあやかしに出会った。それぞれに理と世界をもつ事を知った。
 奏子が筆を綴る源泉は、確かにそこにあったのだと思う。

 源泉といえば、もう一つあった。
 ある日、青筋を立てた朔が奏子を抱えて望に詰め寄っていた。

『望! 奏子に何を見せた!』
『いやね、そんな怖い顔をしないで頂戴。秘蔵の絵草紙を幾つか見せただけじゃない』

 奏子は朔が何を怒っているのかさっぱり検討がつかない。
 望に沢山美しい絵草紙を見せてもらい、語って聞かせてもらった。
 その素直な感想を朔に伝えただけなのだが、それを聞いた朔は奏子を抱えると望のもとへと駆けだしていたのだ。

『おかげで奏子が、お兄様同士の恋物語も素敵なんぞ言い出しただろうが!』
『あらあら、将来有望だわ!』
『あのね、お姉様同士のお話も凄く好き』
『奏子!』

 怒鳴る朔に対して、望はあくまで朗らかに喜び露わにしている。それを見て更に朔は青筋を増やして叫んでいる。
 奏子が更に感想を増やすと、朔の怒りの叫びが更に増えた。
 そう、望はとても耽美な禁断の恋の物語を幾つも奏子に見せてくれた。
 奏子はそれに大層胸の高鳴りを覚えたし、素敵だと思った。
 帰ってきた朔が、今日は望と何をしていたのかを聞いたから、何をしていたのか、どう思ったのかを伝えただけなのだ。
 何故、朔がこのように血相変えているのか、奏子は全く理解できずに首を傾げてしまう。
 確かにシノが、これは奏子様には些か早いのでは、と言っていたような気がするが、望は気にしていなかったから奏子も気にしなかった。
 あの幼き日に体験したときめきが、その後の奏子を形作った源泉の一つであったのだろう。

 多くを与え、学ばせ、愛し慈しんでくれた朔。
 奏子にとって朔は兄であり、父であり、それ以上の存在だった。
 誰よりも特別で大切で、言葉で言い表せない大事な、奏子の『世界』だった。

 狐の女達の中で、朔を見て頬を染める者が多い事を奏子は知っていた。
 朔はさして気にした風はないが、その光景を見つける度に奏子は何とも言えぬ心持ちになってしまう。
 狐の女達は、皆揃ってとても美しい。それに加えて彼女達は朔に釣り合う妙齢の姿なのである。
 思わず己を省みて、憮然とした面持ちになってしまう。
 ある時、それを朔が見とがめて如何したと問いかけてきた。
 誤魔化そうとしたものの朔に対して隠し事の出来ない奏子である、諦めて素直に胸の裡を盛大に吐き出した。
 黙って聞いていた朔は、奏子を抱き上げて顔を覗き込むと溜息をついた。

『つまり、妬いたということか』

 そういう事なのだろう、と拗ねた表情で奏子は頷く。
 これが好いている言う事なのだと、今更ながらに気づく。
 照れたような、拗ねたような、とても複雑な表情をして黙り込んでしまった奏子を見て優しい苦笑いを浮かべながら朔は言った。

『奏子は俺にとって特別なのだが。どうすれば伝わるだろうな』

 小さく唸りながら、真面目な表情で朔は考え込んでいる。
 沈黙してしまった朔を不安そうに眺めている奏子を見据えると、表情を明るくして口を開いた。

『ああ、そうだ。それなら奏子、俺の嫁になるか?』

 唯一人の特別な存在である事を示す為に嫁にという朔に、奏子は驚いて目を見開いた。
 小さな奏子とて、それが伴侶を選ぶと言う事がとても重大な事であるのはわかる。
 とても嬉しくて直ぐにでも頷いてしまいそうになるけれど、それではいけない。
 朔にとってとても大切な事なのだから、と奏子は眉を寄せておずおずと問いかける。

『わたし、まだ小さいから。朔に全然釣り合わないもの』
『なら少し待つだけだ。十年もすれば年頃になるだろう?』

 暗い表情のまま呟いた奏子に対して、朔はあくまで落ち着いた様子で何でもない事のように返す。
 それを聞いた奏子の表情が一気に輝く。

『十年も待ってくれるの?』
『あやかしにしてみれば、十年なんて待つ内に入らん』

 頬を紅潮させながら驚いたように叫ぶ奏子を見て、朔は優しく微笑う。
 奏子の顔を覗き込む朔の、抱き上げる腕に優しい力が籠るのを感じた。

『十年たって大きくなって、それでも気持ちが変わらないというなら嫁にしてやる』
『本当!?』

 言い聞かせるように重ねられた言葉に、奏子は嬉しくなって朔に抱き着いた。
 朔が大好きで、それだけじゃない、それ以上で。
 胸がいっぱいになって苦しいけれど、とても幸せだと奏子は思った。
 朔は言っていた。
 ただ一途に無邪気に向けられる、全幅の信頼と愛情がこうまで温かなものとは思わなかったと。
 寂しいと感じた事があるわけではないけれど、奏子が向けるこころは朔がそれまで知らなかったものだと。
 思うまま愛し、愛を返してくれる存在を何時しか得難く、手放し難いと思っていたと。
 幼い奏子には難しくてわからなかった。
 けれども、朔と一緒に居られる事が幸せだった。笑みに笑顔が返る事が嬉しくてたまらなかった。
 早く大きくなるから、絶対きれいになるから。
 そう言ってはしゃぐ奏子を、朔は優しく見守ってくれていた。
 この日々がずっと続いていくのだと思えば。胸の中が明るいもので満ちて溢れていく気がした。
 
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