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地下
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ガリガリという音で目が覚めた。
目をこすりながら布団をはぐ。布団の脇に置いた眼鏡を手探りで探す。
縁に手が触れた。
まだぼやけた視界のなか、眼鏡をかける。徐々にピントが合っていく。
起き上がってドアを開けるとノラがいた。
ノラはメス猫だ。全身白いのに左耳だけ黒い。
もともと野良猫だったけれど、いつからかこの家に出入りするようになった。ほとんど住み着いている。野良野良と呼んでいたから、そのままノラと呼ぶようになった。
ノラはなぜか、朝はこの部屋のドアで爪を研ぐ。音のおかげで寝坊をしなくて済むけれど。
「おはよう」
ミャーウ。ノラが鳴いた。お腹がすいた、という声色だ。
「わかったわかった。ちょっと待ってて」
ノラを部屋に通して、カーテンを開ける。まっすぐな陽が射し込んだ。
陽射しはノラの顔に当たる。まぶしそうに目をつぶった。
雲一つない青空が広がっている。窓を開けると初夏の風が肌をなでた。
空気を入れ替えながら着替え始める。
服にはこだわりがなくて適当だ。Tシャツにジーンズ、だいたいいつも同じような格好をしている。ほとんど服を持っていないから、一週間で服装が一巡する。楽にすごせるなら格好は気にしない。
一階に下りてノラにエサをあげる。
花屋を営む両親は、家の裏手にある店のほうに向かったようだ。食卓には簡単な食事が用意されていた。
ぱぱっと食べ終える。九時からはバイトが入っているから、ゆっくりはしていられない。
秋葉原の外れのすたれたゲームセンターで働いている。歩いて二十五分かかる。電車やバスを使うほどでもないから歩いて通っている。
というより、交通機関を使って人混みにもまれるのが苦手だから。
そろそろ時間だ。リュックを背負って玄関へ向かう。いってきます。つぶやくように言った。
ノラは僕と一緒に外に出ていってしまった。あっという間に見えなくなる。
いってらっしゃい。心のなかで言う。
道を歩き続けると、下町の様子はいつしかビル街へと変わっていった。
雑居ビルのはざまに僕の通うバイト先がある。
始業の十分まえに着いた。
ゲームスポットよこやま。薄汚れた店名の看板が、入口の上に横書きで飾られている。
よくこんな名前でやっていけていると思う。開店して二十年だか三十年だかと言われている。
この店の社長は年輩の男性だ。たぶん八十近い。たまに店内を覗くだけで、話す機会もない。店長と事務所でちょっと会話をしているくらいだ。重要な話をしているのか、世間話なのか、それさえもわからない。
裏口から店内に入ると、昨日の客たちが吸ったたばこの臭いがした。
僕はこれまで一本も吸ったことがない。
今までで唯一勤めているのがこの店のせいか、大人社会とたばこが、僕のなかであまりよくないイメージで結びついている。
店内の壁は拭いても取れないほどヤニで染まっている。きっと僕の肺もそうなのだろう。父さんも数年まえまでは吸っていたから、あまり気にしないようにしている。
僕は親の跡を継ぐつもりはないけれど、高校を卒業しても進むべき道がなかったから、適当に商学部のある大学を受けた。三流の大学だったから簡単に合格した。
無駄な四年間をすごしたと思う。
大学生活のなかで出会ったもので、今でも関係が続いているのはこのバイトだけだ。高校時代の同級生、美倉永大に誘われてしぶしぶ始めた。二十歳のときに始めたから、もう三年ほど働いている。美倉も同じ早番として続けている。
休憩室には五十代の店長、僕らよりも長く勤める二十八歳の小川昌平さんがいた。
美倉はまだいない。
「おはようございます」
「おはよう」
店長がぼそっと言った。店長はいつもこんな感じだ。
必要最低限のことを小声で言う。でもまったく不快な感じを与えない。
言葉数が少なく声が小さいというだけで、人当たりはとてもいい。なによりもマメだ。事務所の整理整頓もいつのまにかされている。
バイトの仕事である店内の灰皿交換やそのほかの業務で小さな見落としがある場合には、こっそりと教えてくれる。店長自身がやってくれているときもある。
そういう背中を見ていると、次からは気をつけようと自然に思うようになる。バイトを続けてこられたのは、この店長のもとで働けているからだろう。
店長は口数が多くない分、あまり自分のことを話さない。開店まえに店内のゲームで遊んでいることは知っている。音楽ゲームの腕前は都内で上位らしい。
僕らスタッフどうしは互いに干渉しないから、どういった生活を送っているのかあまりわかっていない。結婚しているとは言っていた。
一度だけ奥さんの写真を見せてもらったことがある。スマートフォンの画面で見せてくれた。美倉に見せるとワーワー言われると思ったのか、僕にだけ見せてくれたのだ。
奥さんは僕の母さんと同じくらいの世代に思えた。僕が確認すると、照れた表情で画面を閉じた。
――お似合いですね。
僕にしてはとても珍しい言葉がすらりと出た。無意識に出た言葉だ。そのときの店長のはにかんだ顔はたぶんずっと忘れない。
店長のとなりで、小川さんはたばこを吸いながら漫画の同人誌を読んでいた。
僕の存在に気づくと顔を上げ、こちらにちらりと視線を向ける。こくっとうなずいた。僕も軽く頭を下げ、あいさつをする。
ふたたびたばこをくわえた小川さんは、頭を大きく後ろに倒して天井を見上げた。細く煙を吐いている。
僕はその軌跡を目で追った。煙は申し訳程度についている換気扇に吸い込まれていく。
小川さんはどこか僕と同じにおいがする。自分の世界にこもっているほうが楽なタイプだ。
勤務前後や休憩中には、よく漫画を読んでいる。読み終えた週刊の漫画誌は棚に並んでいる。この本棚はほとんど 小川さんの私物化と言ってもいい。それをみんなで共有しているようなものだ。
棚の上段に置かれている漫画はときどき替わる。小川さんが最近面白いと思った漫画が左から順に置かれているらしい。それまでのものはその後ろに並べられていく。だから、あえてオススメをきくまでもなく、上段を見ればいい。
僕も昼の一時間の休憩のときにはそこに手を伸ばすことがある。
小川さんは面白い漫画になかなか出会えないのか、それほど棚の更新頻度は高くない。
休憩室と隣接している更衣室で制服に着替える。
ロッカーから制服を取り出す。
袖を通すと、染みついたたばこの臭いがした。今日の勤務が終わったら洗濯に出そう。
「おはようっす!」
美倉が勢いよくドアを開けて入ってきた声が聞こえる。一人だけ浮いているように声が大きい。
始業ぎりぎり。そのまま更衣室へ飛び込んでくる。いつものことだ。
美倉はやたら早い着替えを済ませると、僕と同時に更衣室を出た。
「行こうか」
店長の一言に僕らは「はい」と返事する。
小川さんはたばこを灰皿に押しつぶして立ち上がった。
店長は事務所へ向かう。僕らもマシン用の鍵を取りに行くため後をついていく。
小川さんは事務所で店内のいくつかの電源をつけた。UFOキャッチャーが動き始めた音が聞こえる。
メダルゲームは音が大きいから開店の直前までは電源を落としておく。
事務所を出るや、美倉は言った。
「表の掃除をして来るから、咲馬は店内な」
言葉を置き残していった美倉は、ほうきとちり取りを持ってさっさと出ていってしまった。
美倉は、コードのわずらわしい掃除機を扱うのが苦手だから僕にさせてくる。
選択肢のない僕はバックヤードに入る。
景品の数々がところ狭しと収納されている奥に業務用掃除機がある。
それを店内へ持ち出し、コードを全部出す。さらに延長コードとつないでからコンセントに挿す。電源をオンにするとグォーンと大きく鳴り出した。強い吸引力でほこりが吸われていく。
小川さんがぬいぐるみを大きめのかごに入れてUFOキャッチャーのほうへ向かっていくのが見えた。
かごから顔を覗かせる巨大な兎のぬいぐるみと小川さんの組み合わせがあまりにかけ離れていて妙に気になる。もちろん本人には言えないことだ。
店内はけっこう広く、全面を掃除して回るのに二十分はかかる。店長がきちんとしているため、すみずみまで掃除機をかけておこうと思うのだ。
床に落ちているメダルはポケットにしまって回収していく。
僕がまだ三分の一も終えていない段階で美倉は戻ってきた。そのままメダルコーナーに向かっている。
マシンのなかにたまりすぎたメダルを回収するのだろう。逆に、当たりが出た場合に排出する分が不十分のマシンにはメダルを補充する。同時にメダルの洗浄も専用の機械でおこなう。
いつだったか美倉は言っていた。
「換金できるわけじゃないのに、メダルに大金をつぎ込む人はなんなんだ?」
「そこからなにかに発展することはないのに、アイドルを追っているようなものじゃないかな」
これは美倉自身に例えて言った。
ここは秋葉原、アイドルは無数にいる。
美倉はバイト代の多くを「地下アイドル」と呼ばれる子たちにつぎ込んでいる。
ライブ後の物販の際に、まったく同じTシャツを何枚も購入することがあるらしい。
メダルを買う人と大差がない、と僕は思う。
「違う。まったく違う!」
美倉は首を振った。こんな話のときだけやたら真剣な顔つきになる。
「俺たちファンの手でアイドルを育てているんだ。俺らが育てないで、どうやって彼女たちは活動するって言うんだ?」
さあ、と僕は肩をすくめる。
「俺たちは、いわばプロデューサーなんだよ」
同じ職場でも趣味はみんな微妙に違う。プロデューサー、そういう発想があるんだなと思いながら美倉の話を聞いていた。
プラモデルも僕しだいでどうにでも見せることができる。ということは、この手で育てていると言えるのかもしれない。僕もプロデューサーか。
掃除を終え、こまごまとした作業をしたところで開店の五分まえになった。小川さんがメダルコーナーの電源も入れる。競馬ゲームからファンファーレが鳴り響く。最大二十人が座れる円形型のプッシャーゲームも派手な音で作動し始めた。
十時になって開店した。すでにぱらぱらと客が来ている。平日だから、夕方まではきっとこれくらいの客足だろう。多くは常連だ。言葉を交わすことはないけど、入店してからの行動パターンは一方的に見ている。毎日欠かさずに来る人もいる。
小川さんはUFOキャッチャーの商品入れ替えを続けていた。お菓子の箱が大量にかごに入っている。
メダルの受け渡しカウンターから、僕は遠目にその後ろ姿を見ていた。
一見簡単にとれそうで、じつは難しいというバランスで積み上げていかないといけない。長年勤める小川さんでも悩むところのようだ。今回も考え込んでいる。
「美倉」
となりにいる美倉に声をかける。ん、とこちらを向いた。
「先輩にアドバイスするのって生意気かな」
「後輩から教わることだってあるだろ。アイドルだってな、年下の新しい子がすぐに人気になったりすると刺激を受けて……」
「うん、ありがとう。ちょっとカウンターお願い」
「おい、最後まで聞けって!」
咲馬から話しかけてきたんだろ、という言葉を背中で受けながら、僕は視線の先へ向かう。
「小川さん」
作業の手が完全に止まっていた小川さんが僕を見る。
「この箱はですね、もう二センチ右ですね。それと、これの角度はあと四度ほどこちら側に向けてください」
とつぜん手を加えて話し始めたけれど、小川さんは腕を組み、黙って耳を傾けてくれている。
説明を終えると、腕をほどいた小川さんが口を開いた。
「神田くん」
その渋い声で名前を呼ばれるのは久しぶりだ。
は、まずいことを言ったかも。思わず視線を下げた。
「ちょっとプレイしてみてもいいかい」
「へ?」
まぬけな声が出てしまった。あまりに意外な言葉だったから。
「なんか、この組み立てを見ていたら急にやってみたくなって」
「ど、どうぞ」
動揺したまま一歩下がる。小川さんはマシンの下方にある鍵穴に鍵を挿し、ふたを開けた。クレジットを入れている。これで試しプレイができる。
小川さんは、ガラスに張りつくような体勢になった。
じっと見つめたあと、二つあるボタンのうち最初に押す右矢印のほうを押した。
手前にある、天井からぶら下がるアームがボタンの通りの方向へ動き出す。
景品の直線上でアームを止めた。小川さんはさらにもう一つのボタンを押す。
アームは後方へ動く。景品の真上にきたところでボタンを離した。
アームは左右に開き、すうっと下りてくる。
箱に触れたとたん、アームは閉じていった。
アームの先にある爪の部分が箱を引っ掛ける。
持ち上がった、と思った瞬間、するっと箱は抜けてしまった。
「自信があったんだけどな」
小川さんがつぶやいた。体勢を戻して僕を見た。
「これ、仕事さぼってはよくやってたから」
小川さんはマシンのほうへちらっと視線だけ向けた。
知らなかった。さらっと仕事をこなしているところしか見たことがなかったから。
「そうだったんですね」
「完敗。このバランスは完璧だよ。絶対にとれる、と思わせるところまで見事だね」
初めての小川さんからの褒め言葉にとまどいながらも「ありがとうございます」と頭を軽く下げた。
「じゃあ、残りのこれは神田くんに任せるよ。代わりにカウンター入ってくるから」
小川さんはかごを僕に向ける。
はあ、とふぬけた声で僕はそれを受け取った。
カウンターへと歩いていく小川さんの背中をしばらく見ていた。
入れ違いに美倉がこちらへ駆け寄ってくる。
「なになに、どうしたん? 小川さんのあんな顔、初めて見た」
「あんな顔?」
「気のせいかもしれないけど、うれしそうだった。こんな感じで口角がちょっと上がってて」
美倉は少しにやけた顔をする。
まさか、小川さんが。でも本当だったら。
「咲馬までおんなじ顔してる」
「気のせいだよ」
僕はマシンのほうへ振り返った。
午前は小川さんから任された業務で終えた。
先に休憩に入っていた美倉が休憩室から戻ってくる。
交代で僕も向かおうとしたところ、すれ違いざま、美倉は僕の肩に手を置いて言った。
「あとで大事な話がある」
「なんだそれ」
「いいから。じゃ、また一時間後に」
首をかしげながら僕は休憩室に入った。
休憩時間まえに全員分の弁当を近所の弁当屋で美倉が買ってきた。外に出る口実がほしくていつも率先して買ってくる。
僕はメニューを決めるのが面倒くさいから、だいたいのり弁を選ぶ。
椅子に座って、テーブルに置かれたビニール袋から弁当と割り箸を取り出した。
末広亭と書かれた箸袋から割り箸を引き抜く。ぺき。変な音を立て、いびつな線を描いて割れた。
ふたを開ける。毎度おなじみの見た目、真っ黒な一面の脇にフライなどがある。毎日のように食べても飽きが来ない。
食後、本棚に手を伸ばした。小川さんが置いてくれた新刊を読み進める。
没頭しているうちに時間はすぎていた。先が気になるところで休憩時間は終わる。
店内へと続くドアを開ける。
カウンターにいる美倉と目が合った。真顔でこちらを見てくる。いつものへらへらした顔はどこへ行った。
「さっきの続きを話す」
カウンターに入ってまもなく美倉に言われた。神妙な面持ちだ。
とぼけたふりして僕も返す。
「ああ、それね」
「いいか、よく聞いてくれ」
「うん、聞いてるよ」
「今夜、俺は地下入りできなくなった」
「なんだって?」
意味がわからなかった。
「地下入り?」
「だからぁ、地下アイドルのライブを見に行けなくなったんだって」
「それがどうしたって」
「デビュー当時から応援し続けてる俺の連勝記録がついに途絶えるんだぞ!」
ふーん。心の底から僕は言った。
「ふーん、じゃないよ! 急に姉貴の誕生会を前倒しでやることになったせいでこんなことに……」
「美倉って意外といい一面持ってるんだ。お姉さんを慕(した)っていて」
「それとこれとは関係ない!」
珍しく褒めてあげたのに。そんなに大事ならアイドルを優先すればいいものを。
きょうだいのいない僕にはいまいち感覚がわからない。きょうだいがいる人をうらやましいと思ったことはある。
でも、美倉みたいな弟を持ちたいとは思わない。
「で、報告はそれで終わり?」
「ここからが本当に大事なところだ」
美倉の視線に耐えられなくてそらした。
「俺の代わりに行ってほしい」
「へ?」
なんか身近に覚えのある声をまた出していた。なんでそうなるんだ。
「これを渡してきてくれ。思いを込めた謝罪文だ。直接口頭でも代わりに謝ってくれないか」
頼む、と美倉は、手紙を僕に握らせた。
「ミトちゃんへ」と、よれた文字で書かれてある。昼休みにこんなものを書いていたらしい。妙なところだけ真面目というかなんというか。
「今夜って、また急な話だね……」
「明日の昼は好きなものを注文していいから」
「それなら……。たまにはいっか」
「おお! 地下入りを楽しんでくるんだぞ! 今日からもぐら仲間だな!」
「もぐら……」
ネクラな僕にはぴったりだな。そんなことを考えながら手紙をポケットにしまう。
遅番が来たところで鍵を引き継ぎ、勤務を終える。
何度も手紙を渡すよう確認された。
ミトという子に渡すらしい。その子の魅力についていろいろ話されていた気がするけど、ほとんど聞き流していて覚えていない。
更衣室で着替える。
手紙を取り出すためポケットに手を入れた。
指先にメダルが触れる。
しまったままだったことを思い出す。名刺代わりに、手紙と一緒に添えてあげようと、ふと考えた。一枚くらいなら持ち出しても問題ないだろう。
ジーンズのポケットに両方とも移し替える。
美倉は素早く着替えると、「ああ、これも渡してくれ。忘れるところだった」と言った。
このためにわざわざ用意した焼き菓子をロッカーに入れていたらしい。
僕に手渡すや、そそくさと帰っていった。
こんなやつだったっけ。やっぱりきょうだいがいるのはいいな、と思った。
店を出る。
まだ空は明るい。開場は五時半、開演は六時からと美倉から言われている。
会場のアラバヒカ・スタジオはここからそれほど離れていないらしい。ふだんは目的の店以外に寄ることがないため、じつは秋葉原については詳しくない。会場名も初めて聞いた。
途中にあるプラモデルショップに寄ってから行けばちょうどいいころだ。
ショップに入ると完成形のディスプレイと箱の数々がずらっと並んでいるのが目に入る。ついついあれこれと手が出てしまいそうになるのを抑えて、目星だけはつけていく。気になったいくつかの商品を頭に入れて店を出る。
スマートフォンのマップを利用してアラバヒカ・スタジオを探す。画面はひとけのない裏通りを指している。入ったことのない通りで迷いそうだ。本当にこんなところにあるのだろうか。
しばらくうろうろしていると、通りに面して地下へと続く階段があった。「アイドル歌スタジオ~アイスタ~」という手書きの案内が置かれている。ここで間違いない。まったく目立たないから通りすぎてしまいそうだ。
階段を下りて、重たいドアを開ける。色とりどりの照明が薄暗い空間を照らしていた。ライブハウスの雰囲気を初めて体感する。
すぐ左手にいた受付の男性に話しかけられた。
「ご予約されていますか?」
予約? そんなことはとくに言っていなかった。でも、もしかしたら。
試しにこの名前を告げる。
「美倉永大、の代理で来ました」
「ああ、美倉様の」
男性は美倉を知っているようだ。名簿にあるアイドル名の下に予約者の名前が書かれてあり、チェックを入れている。
「ミトさんの応援ですね。ありがとうございます。一五〇〇円です」
ミトさんの応援という言葉が気になりつつ、そっか、料金を払わないといけないのかと気づく。明日、弁当代と一緒に請求しよう。
代金を男性に手渡す。
「はい、ちょうどですね。どうぞお入りください」
赤、青、緑、三色それぞれのTシャツを着ている男性が数名いた。アイドルTシャツのようだ。ミトのものを着ている人はいない。美倉は本当にファンなのか?
開演直前、さらに二人が入ってきた。
午後六時、セーラー服を着た二人組が舞台を駆けてくる。
「みなさーん、こんばんは! わたしたち、ユニバース・テールズです」
ツインテールをしているアニメ声の子があいさつをすると、歓声が上がった。
バラバラに立っていた色違いのTシャツを着た人たちが、いつのまにか前列で横並びになっている。
「さっそく一曲目を聴いてください。『ハッピーデイ』」
二人は舞台上を跳び回っている。動きはシンクロしているのに、二人の歌声はうまく合わさっているとは言えない。声の相性の問題かもしれないとも思う。
歌い終えると、あらためて個々の自己紹介を始めた。次の曲で最後だという。
一曲目よりもさらにアップテンポの曲が始まった。
一人の男性が、黄色く光るサイリウムの棒を両手に持って、その場で踊り出した。高速回転の糸巻のような動きや、両の人差し指を頭の左上に持っていくしぐさ、上半身を大きく回す動作など、機敏な展開に惹きつけられる。
光の軌跡が蛍を想像させた。
秋葉原駅前でこんな踊りを見かけることはあるけれど、ライブに来たことがないから、実際にアイドルの応援のために踊るところを見るのも初めてだ。
アイドルが退散したあとも、光の残像が頭に残っていた。
二組目、三組目と続く。僕は、ほかの男性のように合いの手を入れることはなく、ただ舞台を見ていた。
すっと四組目の子が現れた。一人きりだ。たたずまいがこれまでの子たちとは違う。
まっすぐに下ろした長めの黒髪、涼やかな横顔、颯爽と歩く様子に、意識がすべて持っていかれた。小柄なのに存在感の大きさが勝っている。
舞台の中央に凛と立ち、視線を客に向けた。この子だ、と直感する。
「こんばんは、讃美歌アイドル・ミトです」
作っていないそのままの声が、僕の胸に落ちた。讃美歌という言葉が浮き上がって頭に響く。もっと声を聴いてみたい。
こんばんはー、と男性陣のなかから小さく聞こえた。声の温度であまり興味を示していないことがわかる。
僕との温度差はいったいなんだろう。
「アイスタは今日で三回目の参加となります。アイドルを始めたばかりですが、これからもいろいろと活躍の場を広げていきたいと思っていますので、どうぞ応援してくださいね」
両手を重ねて胸に当て、髪を垂らしながら彼女は頭を下げる。
空気が変わったような気がした。
頭を上げるとオルガンの音が聞こえてきた。地下、ライブハウス、サイリウム、男性客……。あまりにもこの音色が異質なものに感じる。彼女の舞台だけが空間から切り取られているみたいだ。僕はどんな世界に迷い込んでしまったというのか。
静かな歌い出しだ。丁寧に歌っている。思わず目をつぶって聴きたくなる。
でもこの時間を目の当たりにしていたい。
彼女だけが切り取られているのではなくて、僕もその空間のなかにいつしか入っていたことに気づく。包まれているような温かさを感じる。
蝶が羽を閉じるようにそっと曲は終わった。
「今の曲はアルファベットで『mito』と書きます。初めてのオリジナル曲になります。ミトには、じつはイタリア語で『神話』や『伝説』という意味があります。ここから物語が始まってくれたらいいなという思いが込められています」
それでは、と彼女は言った。
「もう最後の曲ですが、聴いてください。今日はありがとうございました」
彼女はゆっくりとまぶたを閉じ、時を止めた。
音楽は鳴り出さない。歌声だけが響きわたった。
『アメイジング・グレイス』
その歌い出しで気づく。
同時に肌がざわめいて止まらない。
歌声はどこまでも伸びていく。目の前の蛍たちが小さくゆらめいた。
祈りのように歌が天にのぼっていく。
僕は聖なる響きのなかにいた。
自分でも知らなかった感情に導かれ、瞳の奥からじんわりと形となって押し出される。
頬を伝う温もりで、僕は自分の涙に気づいた。
涙が流れるなんていつ以来のことだろう。それも悲しみではなく、やさしさの涙で。
僕はこんなにも心に触れるひとときに出会ったことがない。
この歌が、空間が、永遠のものとなってほしいと願った。
余韻がただようなか、彼女は歌い終える。
ありがとうございました。最後にあいさつをして、彼女は去っていった。
まもなく入れ替わりで次の組が登場した。
僕の気持ちは入れ替わらない。まだ余韻のなかにいる。どうやらしばらくおさまりそうもない。
その後も何組かの演奏はおこなわれた。
でも、どれも集中して聴くことができなかった。
全組が終わったところで物販が開始された。
それぞれが狭いなかで机を並べて、商品を販売し始める。そのなかにあの子もいた。Tシャツの大量購入などの目立つブースもあるなか、彼女の前には誰もいない。
僕は周りを気にしながら近づいていく。
「は、はじめまして」
なんとか声を出せたものの、目を合わせることができない。
「はじめまして。今日はありがとうございました」
笑みを絶やさずに彼女は言う。
「これを預かってきたんです」
僕はポケットから手紙を取り出し、渡した。
「美倉永大からです。今日は行けなくてごめん、と言っていました」
「そうだったんですね。どうりでいないと思ったんです。わざわざお越しいただいてありがとうございます。ええと、お友達の方ですか?」
「友達というか……バイト仲間です」
これ、と言ってポケットのメダルを渡す。
「僕らのバイト先のメダルです。ここからちょっと行ったところのゲーセンで働いてます」
「へえ、ゲームセンターで。私も小さいころはよくメダルコーナーで遊んでいました。これは……?」
手のひらのメダルを僕に見せて、彼女は首をかしげた。
「よかったら受け取ってください。じゃあ」
女性になにかをプレゼントするのは初めてかもしれない。しかも初めて会った人に。
渡したとたん、いても立ってもいられなくなって、その場から立ち去ってしまった。
もぐらみたいに穴にもぐりたくなる。
階段を駆け上がると地上はすっかり暗くなっていた。
少しだけ欠けた月がこちらを見下ろしている。もぐらの僕には月明かりさえもまぶしく思えた。
家に帰ると茶の間から父さんの「うまい!」という声が聞こえてきた。
茶の間に入ると、食卓には父さんの好きな和食が並んでいた。
「おかえり」
母さんが僕に言う。
「ただいま」
僕も席に着いて食事を始める。
「それにしても昨日も盛り上がったな」
父さんが上機嫌で話している。
祭りの話だろう。この町で毎年恒例となっている鳥越(とりごえ)祭りで、例年父さんは神輿(みこし)を担いでいる。
朝の六時半に鳥越神社の宮を出て、夜の九時まで戻らない。ずっと町内を練り歩いているからだ。
神輿は千貫神輿と言われているほどに重い、らしい。僕は担いだことがない。人混みが苦手だから、祭りにも積極的に関わることはない。
父さんからはああだこうだと言われて神輿担ぎに誘われながらも、なんだかんだ理由を作っては逃れてきた。
祭りのあの雰囲気に僕はいつまでもなじめないけれど、父さんは根っからの祭り好きだ。祭りのために生きているのかもしれない。
父さんと母さんの出会いも鳥越祭りだったらしい。毎年のようにこの時期になるとなれそめを話し始める。
「母ちゃんと出会った日を思い出すな」
ほら、始まった。
遠くを見るような目で記憶をさかのぼっている。
母さんは、「どんな出会いだったかしらね」なんてとぼけている。毎年毎年、父さんが話しているんだから忘れるはずなんてないのに。
「出店でりんご飴を売っていたんだよな。友達の何ちゃんだっけ、その子と一緒に売ってたな」
「千晶ちゃんでしょ? 今でもとなり町に住んでるんだから、ちゃんと覚えておいてよー」
やっぱり忘れてなんていなかった。
母さんもこんな感じでいつも父さんの話に飽きもせずにつき合っている。僕はいい加減、二人のなれそめを覚えてきている。
「そうそう、千晶ちゃんな。ちゃきちゃきした性格のちゃきちゃん。思い出した思い出した。でも、母ちゃんのことしか見えていなかったからな」
「やぁだ、お父さんったら」
昨日の祭りでも、母さんは出店をやっていた。りんご飴売りではないけれど。
母さんの人当たりのよさ、父さんの豪快さは僕にはない。
祭りの日には家を開放して、人を呼んで飲んだり食べたりすることがある。この狭い茶の間に大勢の人が来る。昼まえから遅い時間帯まで、たまに人が入れ替わりながら会は続く。
僕はその時間が苦手で、いつも逃げるように二階へ上がってしまう。
「ごちそうさま」
二人はまだ盛り上がっているけれど、僕は食事を終えてお風呂に入ることにした。
一度部屋に戻って着替えを取ってくる。
脱衣所で服を脱いだら、やせっぽちの体が鏡に映った。
湯船に浸かって、組み立て途中だったガンダムのプラモデルのことを考える。
完成形を頭のなかで組み立てる。ばらばらだったパーツの一つ一つが脳内で合わさっていく。
塗装して、世界に一つだけのガンプラを作るのだ。確かな形となって生まれる瞬間が好きで、僕はこんなことを続けている。
地味な作業が僕には似合う。派手な言動の父さんを見ていると余計にそう思う。
神輿を担ぐ人たちの熱、出店の人たちの活気、通路を埋め尽くす人たちの盛り上がり、そういったものを僕はいつも遠目にただ見ている。
僕が祭りにおいて唯一関心があるのは、神輿そのものだ。きらびやかな装飾、てっぺんで羽を広げる鳳凰、それをしっかりと支える土台――これらの魅力はきっと僕が一番よく知っている。
人間よりも造形物が好きなんだろう。なにも言わないのに力が宿っている気がしてくる。やせたり太ったりせず、いつも同じ形を保ち続ける。それはいつでも同じ魅力を見せてくれるということだ。人間には決してできない。
このお湯だって同じ形を保てないのに、プラモデルや神輿などは変わらないでいてくれる。
変わらないものになんで惹かれるんだろう。
わからない。自分のことだってわかっていないのに、ひとのことなんてわかるはずがない。
いろいろ考えるのを振り切って、頭まで湯船にもぐった。
しばらく息を止めて我慢する。耐えきれなくなったところで立ち上がった。
お風呂から出て、また鏡の前に立つ。やっぱりやせている体が映った。
自室のとなりにある作業部屋に行って、作業の続きをする。
組み立てはほとんど終盤だったため、すぐに終わった。
見本の通り塗装することは、もうずいぶんとしていない。
今回は砂漠での場面と見立てている。砂の粒子による傷を作るのだ。
足のパーツには極細の筆先で微妙な傷を色づけで表現する。
ボディーはデザインナイフややすりで引っかいていく。レザーソーで切り込みを入れると、戦闘で負った傷を作ることもできる。
どの角度で機体が動いて、どういった体勢から武器の攻撃が入ってくるのかを想像しながら作業を進める。
止まっているはずの「人型」が僕には動いて見える。
変わらないものが好きなはずなのに、自分の手で変化をつけることはやめられない。
卓上の照明だけで作業している。部屋全体の照明をつけるよりも、このほうが集中できる。
効果的な演出をする方法をいつも考えながら手を動かしている。今日の場合は、傷のつけ方はこれでいいのか、塗装のはげ具合は問題ないか、と考えながら作業した。
中学生のころから二十三の今まで、ずっとこんなことを続けている。あれもこれも器用にできる性格じゃない。
ただ、この分野に関しては世間からも評価を受けている。中学生のときに玩具雑誌に応募した自作のプラモデルの写真は、そのまま雑誌に掲載された。それ以降、僕の作品が徐々に表舞台に出ていく機会が増えている。
表舞台。ふと今日のライブのことが頭をよぎった。
地下にあるあの舞台は表なのか裏なのか。ミトはもっと大きな舞台で評価されてもいいんじゃないか。
そんなことを考え出して、作業に集中できなくなってしまった。
――もう休もう。
椅子に座ったまま背伸びをする。一気に脱力すると、全身から緊張がほぐれていく。
目にも力が入って酷使していた。眼鏡を外して目頭を押さえる。
となりの自室に行って布団にもぐった。
時計の針が時間を刻む音が聞こえる。
目を閉じたら、よみがえってくる今夜の歌声がそれをかき消した。
記憶の声を拾ってつなげる。僕のなかで新しい感覚が構築されていく。
出会ったことのない世界がひらけていくような気がした。
高揚が安心感となって沈んでいく――
僕はそのまま眠りについた。
目をこすりながら布団をはぐ。布団の脇に置いた眼鏡を手探りで探す。
縁に手が触れた。
まだぼやけた視界のなか、眼鏡をかける。徐々にピントが合っていく。
起き上がってドアを開けるとノラがいた。
ノラはメス猫だ。全身白いのに左耳だけ黒い。
もともと野良猫だったけれど、いつからかこの家に出入りするようになった。ほとんど住み着いている。野良野良と呼んでいたから、そのままノラと呼ぶようになった。
ノラはなぜか、朝はこの部屋のドアで爪を研ぐ。音のおかげで寝坊をしなくて済むけれど。
「おはよう」
ミャーウ。ノラが鳴いた。お腹がすいた、という声色だ。
「わかったわかった。ちょっと待ってて」
ノラを部屋に通して、カーテンを開ける。まっすぐな陽が射し込んだ。
陽射しはノラの顔に当たる。まぶしそうに目をつぶった。
雲一つない青空が広がっている。窓を開けると初夏の風が肌をなでた。
空気を入れ替えながら着替え始める。
服にはこだわりがなくて適当だ。Tシャツにジーンズ、だいたいいつも同じような格好をしている。ほとんど服を持っていないから、一週間で服装が一巡する。楽にすごせるなら格好は気にしない。
一階に下りてノラにエサをあげる。
花屋を営む両親は、家の裏手にある店のほうに向かったようだ。食卓には簡単な食事が用意されていた。
ぱぱっと食べ終える。九時からはバイトが入っているから、ゆっくりはしていられない。
秋葉原の外れのすたれたゲームセンターで働いている。歩いて二十五分かかる。電車やバスを使うほどでもないから歩いて通っている。
というより、交通機関を使って人混みにもまれるのが苦手だから。
そろそろ時間だ。リュックを背負って玄関へ向かう。いってきます。つぶやくように言った。
ノラは僕と一緒に外に出ていってしまった。あっという間に見えなくなる。
いってらっしゃい。心のなかで言う。
道を歩き続けると、下町の様子はいつしかビル街へと変わっていった。
雑居ビルのはざまに僕の通うバイト先がある。
始業の十分まえに着いた。
ゲームスポットよこやま。薄汚れた店名の看板が、入口の上に横書きで飾られている。
よくこんな名前でやっていけていると思う。開店して二十年だか三十年だかと言われている。
この店の社長は年輩の男性だ。たぶん八十近い。たまに店内を覗くだけで、話す機会もない。店長と事務所でちょっと会話をしているくらいだ。重要な話をしているのか、世間話なのか、それさえもわからない。
裏口から店内に入ると、昨日の客たちが吸ったたばこの臭いがした。
僕はこれまで一本も吸ったことがない。
今までで唯一勤めているのがこの店のせいか、大人社会とたばこが、僕のなかであまりよくないイメージで結びついている。
店内の壁は拭いても取れないほどヤニで染まっている。きっと僕の肺もそうなのだろう。父さんも数年まえまでは吸っていたから、あまり気にしないようにしている。
僕は親の跡を継ぐつもりはないけれど、高校を卒業しても進むべき道がなかったから、適当に商学部のある大学を受けた。三流の大学だったから簡単に合格した。
無駄な四年間をすごしたと思う。
大学生活のなかで出会ったもので、今でも関係が続いているのはこのバイトだけだ。高校時代の同級生、美倉永大に誘われてしぶしぶ始めた。二十歳のときに始めたから、もう三年ほど働いている。美倉も同じ早番として続けている。
休憩室には五十代の店長、僕らよりも長く勤める二十八歳の小川昌平さんがいた。
美倉はまだいない。
「おはようございます」
「おはよう」
店長がぼそっと言った。店長はいつもこんな感じだ。
必要最低限のことを小声で言う。でもまったく不快な感じを与えない。
言葉数が少なく声が小さいというだけで、人当たりはとてもいい。なによりもマメだ。事務所の整理整頓もいつのまにかされている。
バイトの仕事である店内の灰皿交換やそのほかの業務で小さな見落としがある場合には、こっそりと教えてくれる。店長自身がやってくれているときもある。
そういう背中を見ていると、次からは気をつけようと自然に思うようになる。バイトを続けてこられたのは、この店長のもとで働けているからだろう。
店長は口数が多くない分、あまり自分のことを話さない。開店まえに店内のゲームで遊んでいることは知っている。音楽ゲームの腕前は都内で上位らしい。
僕らスタッフどうしは互いに干渉しないから、どういった生活を送っているのかあまりわかっていない。結婚しているとは言っていた。
一度だけ奥さんの写真を見せてもらったことがある。スマートフォンの画面で見せてくれた。美倉に見せるとワーワー言われると思ったのか、僕にだけ見せてくれたのだ。
奥さんは僕の母さんと同じくらいの世代に思えた。僕が確認すると、照れた表情で画面を閉じた。
――お似合いですね。
僕にしてはとても珍しい言葉がすらりと出た。無意識に出た言葉だ。そのときの店長のはにかんだ顔はたぶんずっと忘れない。
店長のとなりで、小川さんはたばこを吸いながら漫画の同人誌を読んでいた。
僕の存在に気づくと顔を上げ、こちらにちらりと視線を向ける。こくっとうなずいた。僕も軽く頭を下げ、あいさつをする。
ふたたびたばこをくわえた小川さんは、頭を大きく後ろに倒して天井を見上げた。細く煙を吐いている。
僕はその軌跡を目で追った。煙は申し訳程度についている換気扇に吸い込まれていく。
小川さんはどこか僕と同じにおいがする。自分の世界にこもっているほうが楽なタイプだ。
勤務前後や休憩中には、よく漫画を読んでいる。読み終えた週刊の漫画誌は棚に並んでいる。この本棚はほとんど 小川さんの私物化と言ってもいい。それをみんなで共有しているようなものだ。
棚の上段に置かれている漫画はときどき替わる。小川さんが最近面白いと思った漫画が左から順に置かれているらしい。それまでのものはその後ろに並べられていく。だから、あえてオススメをきくまでもなく、上段を見ればいい。
僕も昼の一時間の休憩のときにはそこに手を伸ばすことがある。
小川さんは面白い漫画になかなか出会えないのか、それほど棚の更新頻度は高くない。
休憩室と隣接している更衣室で制服に着替える。
ロッカーから制服を取り出す。
袖を通すと、染みついたたばこの臭いがした。今日の勤務が終わったら洗濯に出そう。
「おはようっす!」
美倉が勢いよくドアを開けて入ってきた声が聞こえる。一人だけ浮いているように声が大きい。
始業ぎりぎり。そのまま更衣室へ飛び込んでくる。いつものことだ。
美倉はやたら早い着替えを済ませると、僕と同時に更衣室を出た。
「行こうか」
店長の一言に僕らは「はい」と返事する。
小川さんはたばこを灰皿に押しつぶして立ち上がった。
店長は事務所へ向かう。僕らもマシン用の鍵を取りに行くため後をついていく。
小川さんは事務所で店内のいくつかの電源をつけた。UFOキャッチャーが動き始めた音が聞こえる。
メダルゲームは音が大きいから開店の直前までは電源を落としておく。
事務所を出るや、美倉は言った。
「表の掃除をして来るから、咲馬は店内な」
言葉を置き残していった美倉は、ほうきとちり取りを持ってさっさと出ていってしまった。
美倉は、コードのわずらわしい掃除機を扱うのが苦手だから僕にさせてくる。
選択肢のない僕はバックヤードに入る。
景品の数々がところ狭しと収納されている奥に業務用掃除機がある。
それを店内へ持ち出し、コードを全部出す。さらに延長コードとつないでからコンセントに挿す。電源をオンにするとグォーンと大きく鳴り出した。強い吸引力でほこりが吸われていく。
小川さんがぬいぐるみを大きめのかごに入れてUFOキャッチャーのほうへ向かっていくのが見えた。
かごから顔を覗かせる巨大な兎のぬいぐるみと小川さんの組み合わせがあまりにかけ離れていて妙に気になる。もちろん本人には言えないことだ。
店内はけっこう広く、全面を掃除して回るのに二十分はかかる。店長がきちんとしているため、すみずみまで掃除機をかけておこうと思うのだ。
床に落ちているメダルはポケットにしまって回収していく。
僕がまだ三分の一も終えていない段階で美倉は戻ってきた。そのままメダルコーナーに向かっている。
マシンのなかにたまりすぎたメダルを回収するのだろう。逆に、当たりが出た場合に排出する分が不十分のマシンにはメダルを補充する。同時にメダルの洗浄も専用の機械でおこなう。
いつだったか美倉は言っていた。
「換金できるわけじゃないのに、メダルに大金をつぎ込む人はなんなんだ?」
「そこからなにかに発展することはないのに、アイドルを追っているようなものじゃないかな」
これは美倉自身に例えて言った。
ここは秋葉原、アイドルは無数にいる。
美倉はバイト代の多くを「地下アイドル」と呼ばれる子たちにつぎ込んでいる。
ライブ後の物販の際に、まったく同じTシャツを何枚も購入することがあるらしい。
メダルを買う人と大差がない、と僕は思う。
「違う。まったく違う!」
美倉は首を振った。こんな話のときだけやたら真剣な顔つきになる。
「俺たちファンの手でアイドルを育てているんだ。俺らが育てないで、どうやって彼女たちは活動するって言うんだ?」
さあ、と僕は肩をすくめる。
「俺たちは、いわばプロデューサーなんだよ」
同じ職場でも趣味はみんな微妙に違う。プロデューサー、そういう発想があるんだなと思いながら美倉の話を聞いていた。
プラモデルも僕しだいでどうにでも見せることができる。ということは、この手で育てていると言えるのかもしれない。僕もプロデューサーか。
掃除を終え、こまごまとした作業をしたところで開店の五分まえになった。小川さんがメダルコーナーの電源も入れる。競馬ゲームからファンファーレが鳴り響く。最大二十人が座れる円形型のプッシャーゲームも派手な音で作動し始めた。
十時になって開店した。すでにぱらぱらと客が来ている。平日だから、夕方まではきっとこれくらいの客足だろう。多くは常連だ。言葉を交わすことはないけど、入店してからの行動パターンは一方的に見ている。毎日欠かさずに来る人もいる。
小川さんはUFOキャッチャーの商品入れ替えを続けていた。お菓子の箱が大量にかごに入っている。
メダルの受け渡しカウンターから、僕は遠目にその後ろ姿を見ていた。
一見簡単にとれそうで、じつは難しいというバランスで積み上げていかないといけない。長年勤める小川さんでも悩むところのようだ。今回も考え込んでいる。
「美倉」
となりにいる美倉に声をかける。ん、とこちらを向いた。
「先輩にアドバイスするのって生意気かな」
「後輩から教わることだってあるだろ。アイドルだってな、年下の新しい子がすぐに人気になったりすると刺激を受けて……」
「うん、ありがとう。ちょっとカウンターお願い」
「おい、最後まで聞けって!」
咲馬から話しかけてきたんだろ、という言葉を背中で受けながら、僕は視線の先へ向かう。
「小川さん」
作業の手が完全に止まっていた小川さんが僕を見る。
「この箱はですね、もう二センチ右ですね。それと、これの角度はあと四度ほどこちら側に向けてください」
とつぜん手を加えて話し始めたけれど、小川さんは腕を組み、黙って耳を傾けてくれている。
説明を終えると、腕をほどいた小川さんが口を開いた。
「神田くん」
その渋い声で名前を呼ばれるのは久しぶりだ。
は、まずいことを言ったかも。思わず視線を下げた。
「ちょっとプレイしてみてもいいかい」
「へ?」
まぬけな声が出てしまった。あまりに意外な言葉だったから。
「なんか、この組み立てを見ていたら急にやってみたくなって」
「ど、どうぞ」
動揺したまま一歩下がる。小川さんはマシンの下方にある鍵穴に鍵を挿し、ふたを開けた。クレジットを入れている。これで試しプレイができる。
小川さんは、ガラスに張りつくような体勢になった。
じっと見つめたあと、二つあるボタンのうち最初に押す右矢印のほうを押した。
手前にある、天井からぶら下がるアームがボタンの通りの方向へ動き出す。
景品の直線上でアームを止めた。小川さんはさらにもう一つのボタンを押す。
アームは後方へ動く。景品の真上にきたところでボタンを離した。
アームは左右に開き、すうっと下りてくる。
箱に触れたとたん、アームは閉じていった。
アームの先にある爪の部分が箱を引っ掛ける。
持ち上がった、と思った瞬間、するっと箱は抜けてしまった。
「自信があったんだけどな」
小川さんがつぶやいた。体勢を戻して僕を見た。
「これ、仕事さぼってはよくやってたから」
小川さんはマシンのほうへちらっと視線だけ向けた。
知らなかった。さらっと仕事をこなしているところしか見たことがなかったから。
「そうだったんですね」
「完敗。このバランスは完璧だよ。絶対にとれる、と思わせるところまで見事だね」
初めての小川さんからの褒め言葉にとまどいながらも「ありがとうございます」と頭を軽く下げた。
「じゃあ、残りのこれは神田くんに任せるよ。代わりにカウンター入ってくるから」
小川さんはかごを僕に向ける。
はあ、とふぬけた声で僕はそれを受け取った。
カウンターへと歩いていく小川さんの背中をしばらく見ていた。
入れ違いに美倉がこちらへ駆け寄ってくる。
「なになに、どうしたん? 小川さんのあんな顔、初めて見た」
「あんな顔?」
「気のせいかもしれないけど、うれしそうだった。こんな感じで口角がちょっと上がってて」
美倉は少しにやけた顔をする。
まさか、小川さんが。でも本当だったら。
「咲馬までおんなじ顔してる」
「気のせいだよ」
僕はマシンのほうへ振り返った。
午前は小川さんから任された業務で終えた。
先に休憩に入っていた美倉が休憩室から戻ってくる。
交代で僕も向かおうとしたところ、すれ違いざま、美倉は僕の肩に手を置いて言った。
「あとで大事な話がある」
「なんだそれ」
「いいから。じゃ、また一時間後に」
首をかしげながら僕は休憩室に入った。
休憩時間まえに全員分の弁当を近所の弁当屋で美倉が買ってきた。外に出る口実がほしくていつも率先して買ってくる。
僕はメニューを決めるのが面倒くさいから、だいたいのり弁を選ぶ。
椅子に座って、テーブルに置かれたビニール袋から弁当と割り箸を取り出した。
末広亭と書かれた箸袋から割り箸を引き抜く。ぺき。変な音を立て、いびつな線を描いて割れた。
ふたを開ける。毎度おなじみの見た目、真っ黒な一面の脇にフライなどがある。毎日のように食べても飽きが来ない。
食後、本棚に手を伸ばした。小川さんが置いてくれた新刊を読み進める。
没頭しているうちに時間はすぎていた。先が気になるところで休憩時間は終わる。
店内へと続くドアを開ける。
カウンターにいる美倉と目が合った。真顔でこちらを見てくる。いつものへらへらした顔はどこへ行った。
「さっきの続きを話す」
カウンターに入ってまもなく美倉に言われた。神妙な面持ちだ。
とぼけたふりして僕も返す。
「ああ、それね」
「いいか、よく聞いてくれ」
「うん、聞いてるよ」
「今夜、俺は地下入りできなくなった」
「なんだって?」
意味がわからなかった。
「地下入り?」
「だからぁ、地下アイドルのライブを見に行けなくなったんだって」
「それがどうしたって」
「デビュー当時から応援し続けてる俺の連勝記録がついに途絶えるんだぞ!」
ふーん。心の底から僕は言った。
「ふーん、じゃないよ! 急に姉貴の誕生会を前倒しでやることになったせいでこんなことに……」
「美倉って意外といい一面持ってるんだ。お姉さんを慕(した)っていて」
「それとこれとは関係ない!」
珍しく褒めてあげたのに。そんなに大事ならアイドルを優先すればいいものを。
きょうだいのいない僕にはいまいち感覚がわからない。きょうだいがいる人をうらやましいと思ったことはある。
でも、美倉みたいな弟を持ちたいとは思わない。
「で、報告はそれで終わり?」
「ここからが本当に大事なところだ」
美倉の視線に耐えられなくてそらした。
「俺の代わりに行ってほしい」
「へ?」
なんか身近に覚えのある声をまた出していた。なんでそうなるんだ。
「これを渡してきてくれ。思いを込めた謝罪文だ。直接口頭でも代わりに謝ってくれないか」
頼む、と美倉は、手紙を僕に握らせた。
「ミトちゃんへ」と、よれた文字で書かれてある。昼休みにこんなものを書いていたらしい。妙なところだけ真面目というかなんというか。
「今夜って、また急な話だね……」
「明日の昼は好きなものを注文していいから」
「それなら……。たまにはいっか」
「おお! 地下入りを楽しんでくるんだぞ! 今日からもぐら仲間だな!」
「もぐら……」
ネクラな僕にはぴったりだな。そんなことを考えながら手紙をポケットにしまう。
遅番が来たところで鍵を引き継ぎ、勤務を終える。
何度も手紙を渡すよう確認された。
ミトという子に渡すらしい。その子の魅力についていろいろ話されていた気がするけど、ほとんど聞き流していて覚えていない。
更衣室で着替える。
手紙を取り出すためポケットに手を入れた。
指先にメダルが触れる。
しまったままだったことを思い出す。名刺代わりに、手紙と一緒に添えてあげようと、ふと考えた。一枚くらいなら持ち出しても問題ないだろう。
ジーンズのポケットに両方とも移し替える。
美倉は素早く着替えると、「ああ、これも渡してくれ。忘れるところだった」と言った。
このためにわざわざ用意した焼き菓子をロッカーに入れていたらしい。
僕に手渡すや、そそくさと帰っていった。
こんなやつだったっけ。やっぱりきょうだいがいるのはいいな、と思った。
店を出る。
まだ空は明るい。開場は五時半、開演は六時からと美倉から言われている。
会場のアラバヒカ・スタジオはここからそれほど離れていないらしい。ふだんは目的の店以外に寄ることがないため、じつは秋葉原については詳しくない。会場名も初めて聞いた。
途中にあるプラモデルショップに寄ってから行けばちょうどいいころだ。
ショップに入ると完成形のディスプレイと箱の数々がずらっと並んでいるのが目に入る。ついついあれこれと手が出てしまいそうになるのを抑えて、目星だけはつけていく。気になったいくつかの商品を頭に入れて店を出る。
スマートフォンのマップを利用してアラバヒカ・スタジオを探す。画面はひとけのない裏通りを指している。入ったことのない通りで迷いそうだ。本当にこんなところにあるのだろうか。
しばらくうろうろしていると、通りに面して地下へと続く階段があった。「アイドル歌スタジオ~アイスタ~」という手書きの案内が置かれている。ここで間違いない。まったく目立たないから通りすぎてしまいそうだ。
階段を下りて、重たいドアを開ける。色とりどりの照明が薄暗い空間を照らしていた。ライブハウスの雰囲気を初めて体感する。
すぐ左手にいた受付の男性に話しかけられた。
「ご予約されていますか?」
予約? そんなことはとくに言っていなかった。でも、もしかしたら。
試しにこの名前を告げる。
「美倉永大、の代理で来ました」
「ああ、美倉様の」
男性は美倉を知っているようだ。名簿にあるアイドル名の下に予約者の名前が書かれてあり、チェックを入れている。
「ミトさんの応援ですね。ありがとうございます。一五〇〇円です」
ミトさんの応援という言葉が気になりつつ、そっか、料金を払わないといけないのかと気づく。明日、弁当代と一緒に請求しよう。
代金を男性に手渡す。
「はい、ちょうどですね。どうぞお入りください」
赤、青、緑、三色それぞれのTシャツを着ている男性が数名いた。アイドルTシャツのようだ。ミトのものを着ている人はいない。美倉は本当にファンなのか?
開演直前、さらに二人が入ってきた。
午後六時、セーラー服を着た二人組が舞台を駆けてくる。
「みなさーん、こんばんは! わたしたち、ユニバース・テールズです」
ツインテールをしているアニメ声の子があいさつをすると、歓声が上がった。
バラバラに立っていた色違いのTシャツを着た人たちが、いつのまにか前列で横並びになっている。
「さっそく一曲目を聴いてください。『ハッピーデイ』」
二人は舞台上を跳び回っている。動きはシンクロしているのに、二人の歌声はうまく合わさっているとは言えない。声の相性の問題かもしれないとも思う。
歌い終えると、あらためて個々の自己紹介を始めた。次の曲で最後だという。
一曲目よりもさらにアップテンポの曲が始まった。
一人の男性が、黄色く光るサイリウムの棒を両手に持って、その場で踊り出した。高速回転の糸巻のような動きや、両の人差し指を頭の左上に持っていくしぐさ、上半身を大きく回す動作など、機敏な展開に惹きつけられる。
光の軌跡が蛍を想像させた。
秋葉原駅前でこんな踊りを見かけることはあるけれど、ライブに来たことがないから、実際にアイドルの応援のために踊るところを見るのも初めてだ。
アイドルが退散したあとも、光の残像が頭に残っていた。
二組目、三組目と続く。僕は、ほかの男性のように合いの手を入れることはなく、ただ舞台を見ていた。
すっと四組目の子が現れた。一人きりだ。たたずまいがこれまでの子たちとは違う。
まっすぐに下ろした長めの黒髪、涼やかな横顔、颯爽と歩く様子に、意識がすべて持っていかれた。小柄なのに存在感の大きさが勝っている。
舞台の中央に凛と立ち、視線を客に向けた。この子だ、と直感する。
「こんばんは、讃美歌アイドル・ミトです」
作っていないそのままの声が、僕の胸に落ちた。讃美歌という言葉が浮き上がって頭に響く。もっと声を聴いてみたい。
こんばんはー、と男性陣のなかから小さく聞こえた。声の温度であまり興味を示していないことがわかる。
僕との温度差はいったいなんだろう。
「アイスタは今日で三回目の参加となります。アイドルを始めたばかりですが、これからもいろいろと活躍の場を広げていきたいと思っていますので、どうぞ応援してくださいね」
両手を重ねて胸に当て、髪を垂らしながら彼女は頭を下げる。
空気が変わったような気がした。
頭を上げるとオルガンの音が聞こえてきた。地下、ライブハウス、サイリウム、男性客……。あまりにもこの音色が異質なものに感じる。彼女の舞台だけが空間から切り取られているみたいだ。僕はどんな世界に迷い込んでしまったというのか。
静かな歌い出しだ。丁寧に歌っている。思わず目をつぶって聴きたくなる。
でもこの時間を目の当たりにしていたい。
彼女だけが切り取られているのではなくて、僕もその空間のなかにいつしか入っていたことに気づく。包まれているような温かさを感じる。
蝶が羽を閉じるようにそっと曲は終わった。
「今の曲はアルファベットで『mito』と書きます。初めてのオリジナル曲になります。ミトには、じつはイタリア語で『神話』や『伝説』という意味があります。ここから物語が始まってくれたらいいなという思いが込められています」
それでは、と彼女は言った。
「もう最後の曲ですが、聴いてください。今日はありがとうございました」
彼女はゆっくりとまぶたを閉じ、時を止めた。
音楽は鳴り出さない。歌声だけが響きわたった。
『アメイジング・グレイス』
その歌い出しで気づく。
同時に肌がざわめいて止まらない。
歌声はどこまでも伸びていく。目の前の蛍たちが小さくゆらめいた。
祈りのように歌が天にのぼっていく。
僕は聖なる響きのなかにいた。
自分でも知らなかった感情に導かれ、瞳の奥からじんわりと形となって押し出される。
頬を伝う温もりで、僕は自分の涙に気づいた。
涙が流れるなんていつ以来のことだろう。それも悲しみではなく、やさしさの涙で。
僕はこんなにも心に触れるひとときに出会ったことがない。
この歌が、空間が、永遠のものとなってほしいと願った。
余韻がただようなか、彼女は歌い終える。
ありがとうございました。最後にあいさつをして、彼女は去っていった。
まもなく入れ替わりで次の組が登場した。
僕の気持ちは入れ替わらない。まだ余韻のなかにいる。どうやらしばらくおさまりそうもない。
その後も何組かの演奏はおこなわれた。
でも、どれも集中して聴くことができなかった。
全組が終わったところで物販が開始された。
それぞれが狭いなかで机を並べて、商品を販売し始める。そのなかにあの子もいた。Tシャツの大量購入などの目立つブースもあるなか、彼女の前には誰もいない。
僕は周りを気にしながら近づいていく。
「は、はじめまして」
なんとか声を出せたものの、目を合わせることができない。
「はじめまして。今日はありがとうございました」
笑みを絶やさずに彼女は言う。
「これを預かってきたんです」
僕はポケットから手紙を取り出し、渡した。
「美倉永大からです。今日は行けなくてごめん、と言っていました」
「そうだったんですね。どうりでいないと思ったんです。わざわざお越しいただいてありがとうございます。ええと、お友達の方ですか?」
「友達というか……バイト仲間です」
これ、と言ってポケットのメダルを渡す。
「僕らのバイト先のメダルです。ここからちょっと行ったところのゲーセンで働いてます」
「へえ、ゲームセンターで。私も小さいころはよくメダルコーナーで遊んでいました。これは……?」
手のひらのメダルを僕に見せて、彼女は首をかしげた。
「よかったら受け取ってください。じゃあ」
女性になにかをプレゼントするのは初めてかもしれない。しかも初めて会った人に。
渡したとたん、いても立ってもいられなくなって、その場から立ち去ってしまった。
もぐらみたいに穴にもぐりたくなる。
階段を駆け上がると地上はすっかり暗くなっていた。
少しだけ欠けた月がこちらを見下ろしている。もぐらの僕には月明かりさえもまぶしく思えた。
家に帰ると茶の間から父さんの「うまい!」という声が聞こえてきた。
茶の間に入ると、食卓には父さんの好きな和食が並んでいた。
「おかえり」
母さんが僕に言う。
「ただいま」
僕も席に着いて食事を始める。
「それにしても昨日も盛り上がったな」
父さんが上機嫌で話している。
祭りの話だろう。この町で毎年恒例となっている鳥越(とりごえ)祭りで、例年父さんは神輿(みこし)を担いでいる。
朝の六時半に鳥越神社の宮を出て、夜の九時まで戻らない。ずっと町内を練り歩いているからだ。
神輿は千貫神輿と言われているほどに重い、らしい。僕は担いだことがない。人混みが苦手だから、祭りにも積極的に関わることはない。
父さんからはああだこうだと言われて神輿担ぎに誘われながらも、なんだかんだ理由を作っては逃れてきた。
祭りのあの雰囲気に僕はいつまでもなじめないけれど、父さんは根っからの祭り好きだ。祭りのために生きているのかもしれない。
父さんと母さんの出会いも鳥越祭りだったらしい。毎年のようにこの時期になるとなれそめを話し始める。
「母ちゃんと出会った日を思い出すな」
ほら、始まった。
遠くを見るような目で記憶をさかのぼっている。
母さんは、「どんな出会いだったかしらね」なんてとぼけている。毎年毎年、父さんが話しているんだから忘れるはずなんてないのに。
「出店でりんご飴を売っていたんだよな。友達の何ちゃんだっけ、その子と一緒に売ってたな」
「千晶ちゃんでしょ? 今でもとなり町に住んでるんだから、ちゃんと覚えておいてよー」
やっぱり忘れてなんていなかった。
母さんもこんな感じでいつも父さんの話に飽きもせずにつき合っている。僕はいい加減、二人のなれそめを覚えてきている。
「そうそう、千晶ちゃんな。ちゃきちゃきした性格のちゃきちゃん。思い出した思い出した。でも、母ちゃんのことしか見えていなかったからな」
「やぁだ、お父さんったら」
昨日の祭りでも、母さんは出店をやっていた。りんご飴売りではないけれど。
母さんの人当たりのよさ、父さんの豪快さは僕にはない。
祭りの日には家を開放して、人を呼んで飲んだり食べたりすることがある。この狭い茶の間に大勢の人が来る。昼まえから遅い時間帯まで、たまに人が入れ替わりながら会は続く。
僕はその時間が苦手で、いつも逃げるように二階へ上がってしまう。
「ごちそうさま」
二人はまだ盛り上がっているけれど、僕は食事を終えてお風呂に入ることにした。
一度部屋に戻って着替えを取ってくる。
脱衣所で服を脱いだら、やせっぽちの体が鏡に映った。
湯船に浸かって、組み立て途中だったガンダムのプラモデルのことを考える。
完成形を頭のなかで組み立てる。ばらばらだったパーツの一つ一つが脳内で合わさっていく。
塗装して、世界に一つだけのガンプラを作るのだ。確かな形となって生まれる瞬間が好きで、僕はこんなことを続けている。
地味な作業が僕には似合う。派手な言動の父さんを見ていると余計にそう思う。
神輿を担ぐ人たちの熱、出店の人たちの活気、通路を埋め尽くす人たちの盛り上がり、そういったものを僕はいつも遠目にただ見ている。
僕が祭りにおいて唯一関心があるのは、神輿そのものだ。きらびやかな装飾、てっぺんで羽を広げる鳳凰、それをしっかりと支える土台――これらの魅力はきっと僕が一番よく知っている。
人間よりも造形物が好きなんだろう。なにも言わないのに力が宿っている気がしてくる。やせたり太ったりせず、いつも同じ形を保ち続ける。それはいつでも同じ魅力を見せてくれるということだ。人間には決してできない。
このお湯だって同じ形を保てないのに、プラモデルや神輿などは変わらないでいてくれる。
変わらないものになんで惹かれるんだろう。
わからない。自分のことだってわかっていないのに、ひとのことなんてわかるはずがない。
いろいろ考えるのを振り切って、頭まで湯船にもぐった。
しばらく息を止めて我慢する。耐えきれなくなったところで立ち上がった。
お風呂から出て、また鏡の前に立つ。やっぱりやせている体が映った。
自室のとなりにある作業部屋に行って、作業の続きをする。
組み立てはほとんど終盤だったため、すぐに終わった。
見本の通り塗装することは、もうずいぶんとしていない。
今回は砂漠での場面と見立てている。砂の粒子による傷を作るのだ。
足のパーツには極細の筆先で微妙な傷を色づけで表現する。
ボディーはデザインナイフややすりで引っかいていく。レザーソーで切り込みを入れると、戦闘で負った傷を作ることもできる。
どの角度で機体が動いて、どういった体勢から武器の攻撃が入ってくるのかを想像しながら作業を進める。
止まっているはずの「人型」が僕には動いて見える。
変わらないものが好きなはずなのに、自分の手で変化をつけることはやめられない。
卓上の照明だけで作業している。部屋全体の照明をつけるよりも、このほうが集中できる。
効果的な演出をする方法をいつも考えながら手を動かしている。今日の場合は、傷のつけ方はこれでいいのか、塗装のはげ具合は問題ないか、と考えながら作業した。
中学生のころから二十三の今まで、ずっとこんなことを続けている。あれもこれも器用にできる性格じゃない。
ただ、この分野に関しては世間からも評価を受けている。中学生のときに玩具雑誌に応募した自作のプラモデルの写真は、そのまま雑誌に掲載された。それ以降、僕の作品が徐々に表舞台に出ていく機会が増えている。
表舞台。ふと今日のライブのことが頭をよぎった。
地下にあるあの舞台は表なのか裏なのか。ミトはもっと大きな舞台で評価されてもいいんじゃないか。
そんなことを考え出して、作業に集中できなくなってしまった。
――もう休もう。
椅子に座ったまま背伸びをする。一気に脱力すると、全身から緊張がほぐれていく。
目にも力が入って酷使していた。眼鏡を外して目頭を押さえる。
となりの自室に行って布団にもぐった。
時計の針が時間を刻む音が聞こえる。
目を閉じたら、よみがえってくる今夜の歌声がそれをかき消した。
記憶の声を拾ってつなげる。僕のなかで新しい感覚が構築されていく。
出会ったことのない世界がひらけていくような気がした。
高揚が安心感となって沈んでいく――
僕はそのまま眠りについた。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
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BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
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真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
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