水の兎

木佐優士

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来店

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 ノラの爪を研ぐ音で目覚める。
 ゆっくりと起き上ってノラを部屋に通した。
 ノラの声もよく聞けば透明感がある。これまであまり意識してこなかった音というものに自然と注意が向く。
 いつも通りの時間にバイト先に着くと、休憩室にはすでに美倉もいた。
「よう」
 手を上げながら美倉はにやにやしている。
「どうだったよ?」
「うん」
「全然わかんねえ。なんだその反応」
 いい顔してるね。ぼそっと店長が言った。
「そうっすか? へえ、いい顔ねぇ」
 また美倉は口もとをゆるめた。小川さんも珍しく同じような表情をしている。ただ、目線は手もとの漫画に向けられている。久しぶりに面白い作品に出会ったのかもしれない。美倉からのちゃちゃ入れよりも、その漫画のほうが気になる。
「ちゃんと手紙は渡したから」
 更衣室に向かう途中で美倉に伝えた。
「なんか言ってた?」
「んー別に」
 ドア越しに答える。
 クリーニング済みの制服をビニールから出して袖を通す。今日はたばこの臭いがしない。それだけで気持ちが一新される気がした。
「ミトちゃん釣れないなー。ま、それがいいとこなんだけど」
 二人はどんな話をするのだろう。美倉には冷たくあしらっているのだろうか。この調子だから、美倉はそれほど気にせず気軽に話しかけられそうだ。
 今日もまた一つ、美倉をうらやましいと思う要素が見つかった。
 更衣室を出ると小川さんはいつもの無表情に戻っていた。昨日のやりとりを思い出す。その瞬間、「神田くん」と呼ばれた。今日も呼んでくれた。
「は、はい」
「景品の入れ替え、また任せてもいいかな? マシンのメンテとかやっておきたいから」
「わかりました」
 小川さんの言葉に安心した。
 行こうか。今朝も店長の一言で休憩室を出る。
 今回も美倉から押しつけられ、掃除機をかけることになった。
 バックヤードに無数にある景品を頭のなかで取り出して、いくつものパターンを組み合わせる。今日出したほうがいい景品はどれだろう。置くとしたらどの台に、どんな置き方で。想像のアームが早くも動き出していた。
 開店が始まってからもUFOキャッチャーのコーナーを回っていた。
 バックヤードとの往復をするときに、メダルや格闘ゲーム、音楽ゲームのコーナーをちょっと覗く。
 どこも見慣れた顔ぶれだ。小川さんはメダルコーナーの中央にあるプッシャーゲームの配線をいじっていた。美倉は盤面の拭き掃除をしている。
 店長は事務所で事務作業中だろう。
 かごに新しい景品を入れて戻ると、高校生だろうか、私服の女の子がアームを操作している後ろ姿が見えた。
 周りには誰もいない。一人でプレイしている。昨日小川さんが入れ替えた大きな兎のぬいぐるみをとろうとしているようだ。
 一度目のプレイではぬいぐるみがちょっと動いただけだった。
 立て続けに女の子は再挑戦する。でも一瞬タイミングが遅れ、またとれなかった。
 近づきすぎない程度に、ちらりと操作する手もとのクレジットを見る。残りあと一回だった。
 アームは見事なバランスでぬいぐるみをとらえた。景品の獲得穴まで移動している。
 落ちた、と思ったら穴を囲う縁にはばまれて、はじかれてしまった。
 うさぎが穴のそばで転がっている。
 プレイが終わったあとも、その子は兎を眺めていた。
 僕はもとの位置に戻すため台のほうへ歩み寄る。
「景品、直しますね」
 僕の言葉に女の子は振り返る。
 はっとした。間違いなくミトだ。
 なんでここに、と思った瞬間、脳裏によみがえる。昨日、夢中でメダルを渡していたことが。
「こんにちは」
「あの……」
「昨日はありがとうございました」
 ミトは頭を下げた。長めの髪が垂れるのを見て、昨日の舞台上を思い出す。
 こんなにすぐそばで見ている。今日も目を合わすことができない。それでもミトはこちらを見ていることはわかる。
「メダルをいただいたので、忘れないうちに来ようと思って。ちゃんとたどり着けました。秋葉原にこんなお店があるなんて知りませんでした」
 こんな地味なゲーセン、普通はなかなか気づかないだろう。
「アイドルにこんな古めかしい店、合いませんよね」
「そんなことありませんよ。私、UFOキャッチャーもメダルゲームも好きです。小さいころ、たまに連れてってもらってました」
「この兎……欲しかったんですか?」
 僕はまだ倒れたままのぬいぐるみに目を向ける。
「ミトって本名なんです。水の兎って書いてミトです」
 水の、兎。その漢字を頭に浮かべては刻みつける。予想もしていなかった文字だ。名前の印象が大きく変わる。ミトという記号がとつぜん色づいたみたいに。
「それで兎を?」
「卯年ということもあって」
 ということは、十八歳か十九歳だ。高校は卒業しているのだろう。それにしても少女のような可憐さと女性としての凛々しさを感じる。子供でも大人でもない、今しかない雰囲気を備えている。
 それに、とミトは続けた。
「兎はもともと好きでした。ずっと飼いたいと思っていたんですが、親が認めてくれなくて。だからぬいぐるみや兎グッズを代わりに部屋に並べるようになりました」
「これ、ちょっと直してみます」
 僕は台で倒れている兎の位置を調整する。一番とりやすい位置に。それから僕はクレジットを入れて、自分で操作を始めた。ミトはとなりでじっと見ている。二つのボタンを間髪入れずに押した。当然、ぬいぐるみに到達することなく、アームは爪を閉じていく。
「いったいなにを……」
 ミトの問いには答えず、僕は同じ作業を何度か繰り返した。
「そろそろいいかな。どうぞ。次ならとれると思います」
 なんで、と顔で問いかけながらも、ミトはお金を入れてプレイを再開する。そして言葉の通り、兎は穴に落ちていく。ミトは取り出し口から出して、胸もとで抱えた。
「このUFOキャッチャーは、失敗するごとにアームの強度が増すように設定されてるんですよ」
「それでわざと失敗を……?」
「いいえ、ただのメンテナンスです」
「嘘が下手だなあ」
 ミトは兎の顔で口もとを隠しながら笑っている。
「視線が泳いでるもん」
「そんなことないって!」
 そう言った瞬間、僕は初めてミトの目をちゃんと見た。
「あはは。私、この兎ちゃん大事にするね」
「う、うん」
 ミトはさらに強く兎を抱きしめた。まるで僕がそうされているかのような感覚になる。そんなはずはないのに。
「このあと撮影だからもう行くけど、今度はメダルをしようかな。せっかくもらったから」
 そういえばメダルをしに来たと言っていた。僕のせいで、ついこの場に足をとめさせてしまった。
 ごめんね、の一言が口から出ない。僕は黙ってうなずいた。
「永大さんにもよろしくね」
 ミトはドアの付近で手を振って去っていく。

 カウンターにいる美倉のもとへ行く。
「永大さんって呼ばれてるんだね」
「なんの話?」
「なんでもない」
 美倉は、もしかして、と言った。
「ミトちゃんのことか!」
「永大さんによろしく、だってよ」
「ライブでそんなこと言ってたのかあ。うれしいなあ」
「いや、さっき」
「さっきだと!」
「来てくれたんだよ。UFOキャッチャーをしてったよ」
「なんで教えてくれなかったんだ!」
 美倉は僕の両肩をつかんで体を大きくゆさぶる。
「そのまえに帰っちゃったから」
 美倉の手をどかし、落ち着かせる。
「でもたぶんまた来てくれるよ」
「いつ、次はいつだ」
「わかんないよ、そんなこと」
「今度のライブできいてくる。咲馬も行くよな?」
 有無を言わせないもの言いだ。だけど、願ったり叶ったりかもしれない。
「まあ、行ってもいいよ」
「明後日のバイト後な。久しぶりのもぐらだ。楽しみすぎる」
 久しぶりって、たがか一週間やそこらだ。でも、僕もそれだけガンプラに触っていなかったら、と思うと気持ちがわかるような。美倉にとってミトは好きなアイドルの何番目に位置しているのかわからないけれど。
「そういえば、今日は昼をおごってくれるんだよね?」
「好きなものを注文していいとは言ったけど、おごるとは言ってないぞ。好きなものを選ぶ権利はいつだって咲馬にある」
 なんという策士……。
 ほとんど詐欺じゃないか。してやられたと思ったら、「なあんて冗談だ」と美倉は言った。
「遠慮しないで、いつも通りのり弁でもいいんだからな」
「じゃあデラックス弁当で」
「遠慮しろ!」
 チケット代のことは口にしないことにした。

       *

 二日後、バイト終わりに美倉が店長に「咲馬とアラバヒカに行ってきます!」と高揚しながら報告していた。わざわざ言うことじゃない。
 店長はアラバヒカについて知らない様子だった。
 僕が「ライブハウスです」と小声で伝えた瞬間、美倉は僕の腕を引っ張り、さっさと休憩室を出ていく。
 スタジオの前にはこのまえとは異なる看板が出ていた。
 別のイベントのようだ。看板の作りは前回より多少ましになっている。こんなに早くまたここに来ることになるとは思ってもいなかった。
「もぐろう」
 そう言って美倉は階段をすたすたと下りていく。
もぐら、という言葉を思い出した。
 受付の男性は同じ人だ。すでに美倉の顔は知られているようで、代金を告げるだけだった。
「こいつも一緒です」
 美倉は僕のことを説明する。
 代金を払い、ステージフロアに進んだ。
 フロアの中央あたりに立つ。
「持ってきたか?」
「なにを」
「決まってるだろ。サイリウムだよ」
 さもあたりまえのように言われたって、持っているはずがない。
「そんなものないよ」
「なか一日、なにしてたんだ。もぐらになる気はあるのか……」
 美倉はやれやれという表情をした。僕も美倉のその調子には同じような気持ちなんだけど。
 トップバッターのアイドルたちはこのあいだのライブにも出ていた気がする。
 一曲目の最中、メンバーが順番に自己紹介をしていった。そのなかの一人、アニメ声に聞き覚えがある。美倉は音楽に合わせて「マリリーン!」と合いの手を入れていた。ほかのアイドルのTシャツを着ている人も同様だ。
 昨日、美倉は言っていた。
 ――俺らはメインに応援しているアイドルだけじゃなく、地下にいる子たちみんなを一人一人が支えているんだ。この業界全体を俺らがまもっているのさ。
 なにをかっこつけているんだとそのときは思っていた。
 だけど、その言葉の意味がここに来るとよくわかる。ファンの子だけよければそれでいい、なんていう様子は全然ない。
 だからといって僕にとって居心地がいいわけでもない。地下には独特の空気が流れている。
 ミトはこの世界で生きているんだな。ふと思った。
 何組か終わってから、美倉が口を開いた。
「来た」
 ミトが舞台に現れる。
 地下世界に異質な雰囲気をまとっている。ほかの人はそう思っていないのだろうか。これまでの組と同じような応援が続いている。
 でも、歌い出してから、あれっと思った。
 曲調が明るくノリのいいものだったからだ。
 歌詞を注意して聴いていると人生を応援するような内容だとわかる。
 魂を震わせるような曲でも歌い方でもない。でも、たしかな歌唱力とテンポのよさに、思わず手を叩きたくなる。
 僕は讃美歌について詳しくはないけれど、これはミトならではの「讃美歌」なのだろう。
「いいな!」
 美倉は上機嫌で声を上げる。美倉はサイリウムの棒を振ったり手拍子を打ったり踊ったり、なにかといそがしそうに楽しんでいた。
 二曲目はもっと軽快で、アニメの主題歌にもなりそうな曲だった。
 王道のアイドルソングって、きっとこんな感じだ。こういうものも歌うんだと意外に思った。
「やっぱりミトちゃんの曲は元気が出るなあ」
 ミトが去っていったあとに美倉は言った。
「え、いつもはこんな感じなの?」
「もちろん。いつもこんな感じだけど? 前回は違ったのか?」
「壮大な歌だった。なんていうか、神聖な感じで」
「特別に披露したのか? 咲馬ばっかりなんでだ」
「なんでと言われても……」
 そのうち聴けるでしょ、と僕は美倉をなだめる。
 今夜もライブ後に物販の時間が設けられた。ミトのもとへ二人で向かう。
「今日も最高だったよー!」
 どことなく甘えるような口調で美倉は言う。
「永大さんのこと、ちゃんと見ていましたよ」
「知ってる!」
 本当に調子のいいやつだと思う。長所と言えば長所か。
 ミトは僕のほうを見た。目が合う。思わずそらしてしまった。そんな僕のことは気にもとめず、美倉は来店時のことを話し始める。
「ミトちゃん、咲馬からきいたよー。うちの店に来たんだって? あいさつしてってよー」
「サクマさんっていうんですね」
 美倉の言葉には返答せず、ミトは言った。そうか、僕は名前を言っていなかったんだ。
 
       *

 数日後、ミトはまたバイト先に来た。ちょうど僕がUFOキャッチャーのコーナーにいるときだ。
「こんにちは」
 アームのねじを調整するために台のなかへ頭を入れていた。ミトの声がして振り返る。
こんにちは、と返事をするものの、時間を置いてしまうとまたぎこちなくなる。
「サクマさんってどういう漢字で書くの? このまえきき忘れちゃって」
 いつも美倉から「咲馬」と呼ばれているのに、ミトの口から言われると新鮮な気持ちになる。ちゃんと覚えてくれていたことに少しだけ驚きながら。
「花が咲く馬、で咲馬」
「へえ、いい名前。咲馬さんか、覚えておくね。私のことは水兎って呼んで。カタカナじゃなくて、本名の漢字のほうで」
「読み方は同じじゃ……?」
「私の気持ちの問題なの。こうして遊んでいるときはアイドルじゃなくて、普通の子でいたいから」
 どこかさびしそうな目をした。もちろん僕の気のせいかもしれないけど。
 ミトじゃなくて水兎――僕は心のなかでその文字を浮かべる。
 弁当を買いに行っていた美倉が戻ってきた。
「ああ、ミトちゃーん!」
「へへ、遊びに来ました」
「待ってたよー。いつでも来てよー」
「ありがとうございます。それなんですか?」
 美倉が持っているビニール袋に水兎の視線が移る。
「末広亭のお弁当だよ。いつも俺が買ってくるんだ」
「そういう食事してみたいなあ」
 そういうってどういう食事だろう、と思いながら僕は二人のやりとりを聞いていた。
「じゃあ、次に来るときはおごってあげる」
 美倉の提案に、本当ですかと水兎は声を上げた。

 水兎はメダルコーナーに行った。僕らもついていく。
 このまえあげたメダルを、中央のプッシャーゲームに投入した。その一枚がはずみとなって数枚のメダルを落とした。水兎はさらに増えたメダルでプッシャーゲームを続ける。ルーレットが始まり、大当たりを引き当てた。けたたましい音で台は当たりを知らせる。
 次から次へとメダルは吐き出されていった。
 僕らは大当たりが出るのは見慣れている。だけど、たった一枚を大量のメダルに増やした人は初めて見た。
「カウンターで預かろうか?」
 美倉の言葉に水兎は、お願いしますとうなずく。
 簡単な手続きを済ませ、水兎にはメダル貸出機にメダルを流し入れてもらう。計測の結果、一三◯◯枚にまで到達していた。これでしばらくは遊ぶことができるはずだ。
 帰り際、水兎は僕にだけ聞こえる声で、あの一枚は金メダルだね、と言った。

       *

 水兎は週に二回は来店するようになった。僕らとの雑談もおなじみのことだ。
 いつものように末広亭から帰ってきた美倉は僕に耳打ちをした。
「最近、店内に怪しい男がいる。格好は違うが絶対にそうだ」
「え?」
 全然気づかなかった。美倉は客の行動をよく知っている。妙な観察力があるらしい。
「しばらく様子を見ていたが、決まって来る日があることがわかった」
 美倉の言葉の続きを、かたずを飲んで待つ。
「ミトちゃんの来る日だ」
「まさか」
「いや、本当だ」
 美倉は冗談を言っている様子がない。まさか。もう一度、僕は思った。
「たまに送る視線の先にミトちゃんがいることも多い。プレイをしているふりのときもあるが、まるでゲームに集中していない。関係性まではわからないが。ミトちゃんが帰ったらそいつも出ていく」
 背筋がひやりとする。純粋に楽しんでいるだけの水兎の身になにが。
 どこの誰かを探そうと視線をうろうろさせていたら、美倉に注意された。
「下手に探ろうとするな。気づかれたら面倒なことになるかもしれない」
あとで誰かはこっそり教えるから、と言われた。
 水兎はこのことに当然気づいていないはずだ。伝えて不安にさせてもいけない。どうしたらいいのだろう。
 せっかく水兎と話せるようになってきたのに、違う意味でぎこちなくなってしまう。水兎になにも起きないことを願った。

 それからも水兎にはなにも起きていない。変化と言えば、毎日同じ時間に同じ格闘ゲームの台に座る男性とも少し話すようになったことくらいだ。きっかけは水兎が落としたポーチを彼が拾ったことだったらしい。
 今日もなにも起きないだろうと思っていたとき、景品の入れ替えを行っていた僕のもとへ客が慌てて来て言った。
「外で男性が絡まれています」
 僕は嫌な予感がして駆けていく。
「やめてってば! この人はなんにも関係ないんだから!」
 男ににらみつけられている常連と、そのすぐそばで声を上げる水兎がいた。
 声をかけたいけれど、声が出ない。足も動き出せない。
「おい」
 振り返ると小川さんがいた。僕の脇を抜け、集団のほうへと歩いていく。
「あ? なんだよ」
「悪いが帰ってくれ」
 男よりもはるかに凄みのある声で小川さんは言う。
「この方は大事なお客様だ。おまえらが勝手に傷つけていいはずがない」
「こいつが水兎さんにつきまとってるから注意してやっただけだろうが」
 水兎さん? この男とどういう関係なんだ? ますます混乱してくる。
 小川さんは男を引き寄せ、耳もとでなにか告げたあと、僕らにも聞こえるように言った。
「この子がここに来るときは、俺が面倒見る。おまえは来るな」
 一瞬、男は苦い顔を見せたものの、そのまま退散していった。小川さんはいったいなにを伝えたのか。
 男はいなくなったのに、僕の体はまだこわばっている。解放された常連客はへたりと座り込んでしまった。
「お客様、大変失礼いたしました」
 小川さんは深く頭を下げている。
「安心してお楽しみいただける空間を提供できますよう、これからも精進してまいりますので、なにとぞお許しください」
「あ、えっと……」
 常連客は明らかにまだ落ち着きを取り戻していない。
「だ、大丈夫です。水兎さんがこれからも来てくれるならそれで……」
岩本いわもとさん、ごめんなさい!」
 水兎まで謝っている。きっと水兎だって巻き込まれてしまった一人なのに。
「お話ししてくれていただけなのに……」
「水兎さん」
 小川さんが言った。
「は、はい」
「これからもお客様や咲馬くんと話してください。水兎さんが来てからみんなの笑顔が見られるようになりました。きっとそういう力を持っているんでしょうね」
 笑顔? そんなこと自分では気づかなかった。きっとこの岩本さんと呼ばれた常連客もそうだろうし、水兎だって予想外の言葉を言われたという表情になっている。
「いつでもお待ちしていますよ。もちろん今からでもどうぞ」
 小川さんは店内へと戻っていく。僕ら三人は、なにも言わずにその後ろ姿を見ていた。
「は、入りますか?」
 僕はようやく声を出せた。水兎が「うん」と言う。岩本さんはゆっくりと立ち上がった。
 店内で小川さんは、なにごともなかったかのように働いていた。美倉も休憩から戻ってきている。
 岩本さんは定位置の台は埋まっていた。順番が空くまで待つという。
「岩本さん、巻き込んでしまってすみませんでした」
「そんなに何度も謝らないでください。水兎さんは悪くないんですから」
 逆に岩本さんのほうが申し訳なさそうにしている。
「さっきの男の人とはどういう……」
 岩本さんにまで影響が及んでしまったから、きかないわけにはいかないような気がした。
 僕の言葉にとても言いづらそうにしている。
「いや、無理に答えなくてもいいんだけど……」
「家の――者かな……。私の見張り役みたいな」
「どこかのお城から抜け出してきたお姫様、とか?」
 目の前の水兎が異次元から来たような気がして、そんな発想になってしまった。
「そんなきれいな立ち位置じゃないけど……むしろ――ううん、たぶんそんな感じ。あの家に縛られているのが嫌で外に飛び出たの」
「ぼくはずっと水兎さんを応援していますよ。どんな事情があったとしても」
 絡まれたのに岩本さんは言った。岩本さんは小川さんの言うように水兎と出会ってから表情が明るくなった気がする。
 というより、いつも無表情で画面だけを見て、キャラクターを通してでしか人と関わりを持ってこなかったはずが、こうしてたしかに人と話している。
 僕も人と交流を持つのが苦手だからよくわかる。その一歩に至るのは案外簡単じゃない。
 でも、水兎は軽々と越えさせてしまう。持って生まれた力。地下の世界で眠らせておくべきじゃない力だ。
 僕がこういう性格だから思う。水兎にはもっと多くの僕らみたいな人の、心の窓を開いてあげてほしいと。
「私――」
 水兎は視線を上げ、強いまなざしで岩本さんを見る。
「岩本さんのためにも、これからも歌い続けます。ちゃんと胸に届く歌を作るって、今決めました」
 もちろん咲馬さんのためにもね、と水兎はおどけてみせた。

 夜、自室ではなく、となりの部屋にこもった。
 この部屋は妹ができたときのために空けられていた。両親、とくに父さんは娘もほしかったらしい。でも僕のあと、妹どころか弟も生まれなかった。
 きっと父さんは、母さんのような女の子がほしかったんじゃないかと思う。祭りのときに売り子をしてくれるような。こんな兄をもっと外の世界に出してくれる存在としても期待していたはずだ。残念ながら叶わなかった。
 その代わりというのか、わが家に来たのはノラだ。
 野良猫の習性なのか、物をくわえてはわが家に運び入れることがある。巣作りをする鳥のようなものだろうか。僕が小学生のころ、どこから拾ってきたのか、壊れて手足の欠けたガンプラをくわえてきた。それを僕はやたらと大事に抱えていた。両親はそのことが印象に残っているらしい。ガンプラとの出会いはノラだった。
物を組み立てることに興味を持つきっかけとなったのは父さんだ。
 一年のほとんどの期間、父さんは祭りのことを考えている。そんな父さんは、僕の手先が意外にも器用なことに気づいた。幼稚園のときには誰よりも忠実に動物を粘土で作っていたと言う。それに、同時に多くの作業をできない分、一つのことにハマると集中することにも注目したらしい。
 僕は小学生のころ、父さんに神輿作りを見せてもらっていた。父さんは、僕に祭りへの関心がないとは思っていながらも、神輿自体にはじっと目を向けていることに気づいていた。
 中学校にあがってまもないころ、父さんに言われた一言が今の僕を生み出したと言って間違いない。
 ――咲馬、神輿の作りを手伝ってみるか?
 装飾の取りつけなど、なんて魅力的な作業だろうと子供ながらに思っていた。てっぺんに翼を広げた鳳凰が置かれる瞬間、空へ飛び立つかもしれないと胸を高鳴らせていた。いや、今でも。
 ノラがくわえてきたガンプラを、当時の僕は分解しては組み立てるということを繰り返していた。神輿以外に居場所が見つかった気がしたのだと思う。お小遣いやお年玉をためてはガンプラや工作道具を購入していった。
 妹のものになるはずだった部屋で僕はガンプラの撮影をする。写真撮影もするけど、ただの写真じゃない。ここは、ストップモーションの撮影部屋だ。
 初めての撮影は印象に残っている。
 荒野を模したジオラマに、独自の手を加えたガンプラを二体置いた。
 一コマ静止画を撮っては、ごくわずか動かす。その一コマ一コマを編集でつなぎ合わせると、まるで動画のようになる。パラパラ漫画を立体にしたようなものだ。
 自分なりに臨場感を伝える工夫をほどこした。
 様々な角度から撮影し、単調な映像にならないようにもした。
 撮影時間はどれくらいだっただろう。果てしないほどの時間をかけたことだけは覚えている。
 「アムカス」と名乗って、この動画を試しに動画サイトに投稿したところ、何名かからコメントをもらうなどの反響もあった。
 予想外の反応だっただけにうれしい。それを機にツイッターのアカウントもアムカスの名前で取得して投稿をシェアした。
 反響があったとは言え、効果音やCGなどは僕の専門外で、全然つけることができなかった。素人作品としても、とくにつたない映像作品だったのだ。
 それでもコメントをくれた人がいることには驚いている。どうやら機体の見せ方が評価されているようだった。透明なテーブルの上に機体をのせ、下から撮影することもあった。文字通り四方八方からの撮影だ。
 二回目の投稿も特別な技術効果をつけることはできなかったけれど、さらに改良を加えて撮影にのぞんだ。この投稿を見て、視聴者は確信したと言う。アムカスはただの素人じゃないと。静止画での評価は小学生のころからされてきて、客観的に理解していた。けれど、それをつなぎ合わせて動画としたときの反応は未知数だった。それだけに時間を膨大にかけて作ってきてよかったと心から思った。コメント者からは、なにか手伝えることがあったら気兼ねなく言ってほしい、と言われている。彼らのなかには、特殊効果や音響効果に長けている人がいるらしい。
 僕は現在、三回目の投稿に向けて撮影を進めている。
 彼らに無償で協力してもらうことに申し訳ない気持ちがある。次回作品が完成したら、せめてクレジットに協力者として名前を入れさせてほしいと伝えたら、「おれたちはアムカスというユニットに所属しているんだ、気にするな」と言われた。会ったこともない人たちが親指を立てているのが想像できた。
 「孤」だと思っていた名前が大きな「個」になった瞬間だ。「ユニット」の文字は今でも目に焼きついている。
 現在扱っているガンプラは新作の「ガンダムラビルス」だ。小説化やアニメ化もされていないガンプラオリジナルモデルとあって、発売まえから楽しみにしていた。
 機乗するのはどのような人物か、戦いの空間はどこがふさわしいか。発売初日に手に入れた箱のパッケージデザインから、そのようなことをいろいろと想像していた。
 家に帰ってすぐに組み立てを始めた。
 作りながらイメージを膨らませていく。
 今回は初めて見る機体とあって、二体分購入した。一体は見本に忠実に作るため、もう一つはアレンジするために。頭のなかでは「ガンダムラビルス対ガンダムラビルス」の構想ができ上がっていた。
 同じ種の機体を背負う運命となった兄と弟。それぞれが違う道を歩む。軍国主義者として侵略を進める兄に対抗するため、弟は育った町をまもる――。
 見本の色が全身純白だったため、こちらは弟の機体にしようと決めた。それに対する色として兄のものは全身を黒に塗装する。
 一人っ子として育った僕は、兄がいたらどのような気持ちがわくのか、弟がいたらどのような声をかけるのか、といったことがわからない。
 僕なりにこの兄と弟の感情を想像していくと、ときに押しつぶされそうな激しい葛藤が起こるような気がした。
 兄は本当に望んでその道に進んだのか、弟がまもりたかったのは町よりも兄のほうだったんじゃないか、と。
 この物語の設定は、僕のなかでの裏設定として考えていた。でも、協力者たちに、機体の色を黒と白にすると伝えたら理由をきかれたため、その裏設定を伝えた。
「それ、本当に具体化しそうだ」「兄弟の名前はなんにする?」「小説を書くのが得意な人を知っているから、かけ合ってみよう」などと大いに興味を持ってもらえた。
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この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

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