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天命
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「父さん」
僕は新聞を読んでいた父さんに向けて声をかける。
父さんは新聞から視線は外し、こちらを見た。
「どうした、そんなかしこまって」
「僕はずっと悩んでいたんだ。悩んで悩んで、でも決めた。まもりたいものをまもるために」
父さんは新聞を閉じて床に置いた。じっと僕の言葉に耳を寄せている。
ひざの上に置いた僕の手にぎゅっと力が入る。
「僕は龍崎さんのもとで組の一員になる。それで水兎ちゃんを、そしてこの町を、この身に変えてまもっていく。もちろん父さん母さんのことも」
父さんはぶれることのない視線を僕に送り続けていた。
――間が空く。
それから口を開いた。
「俺は、父親としてうまくやれてきたのか正直自信がない。ただ、これは親のエゴだと思って聞いてほしい。いつだって心のなかではおまえのことを信じてきた。信じ抜いてきた。その気持ちは今もまったく変わらない。だから、咲馬の決断に関して、俺はなにも言わない。いや、応援したいと思っている。簡単に決めたことじゃないんだろう? だから、どんな道に進もうが、その道が咲馬の道だ。俺や母ちゃんの息子であることはこの先もずっと変わらない。世界で一人、俺たちの子だからな」
そう言うと父さんは、ふっと笑みをこぼした。
「じつはな、俺はガンプラについてちょっと勉強していたんだ。少しでも咲馬の趣味を理解したくてな。ガンダムに神輿を担がせてみたらどうかな、なんて考えたりしていたんだよ」
僕も思わず笑いがこみ上げてきた。
涙が出るほど、二人で笑う。端に座っている母さんも泣きながら笑っていた。
「いいよ、それ。神輿に関しては頭に染みついているからね。設計図が描けるほどだよ。父さんのアイディアを絶対に形にするから。だから――」
「だから……?」
「これからもこの町のために、なにより僕のために、父さん、神輿を担ぎ続けてよ。ずっとずっと盛り上げ続けてよ」
「言われなくたってやったる! 祭りと母ちゃんはあの世に行っても離れないさ」
もちろん咲馬も大事だぞ、がはは、と父さんは笑った。
「ただな、咲馬」
父さんの表情がにわかに険しくなる。かつて見せたことのない顔だ。
「これだけは誓ってほしい。信じたものをまもり抜け。そして、絶対にひと様を傷つけるな。その道で誰も傷つけずに生きていくことは半端なことじゃない。俺たちの名前に入っている馬という動物は、神様の乗り物だ。咲馬の背には神様が乗っている。咲馬に課せられ天命は、十字架を背負うよりもはるかに責任があるんだ。人は人とのご縁でしか生きていけない。人は、人の形をした神様だ。おまえの背に今のうちに深く刻みつけておけ。なにより、その命を粗末にするな」
――はい。
これまでで最も重みのある返事をした。
父さんを初めて父さんとしてではなく、「神田伝馬」という一人の男として見た。その存在が限りなく大きく感じられる。命を粗末にするな、これはばあちゃんに何度も言われてきた言葉だ。ご飯の一粒も残さなかったばあちゃんの姿がよみがえる。
背中が熱くなった気がする。墨を入れるよりも深く僕の背に「天命」の二文字が刻まれた。きっと、意志は血のつながりを超える。
「人は自分のことを『わたし』と言う。これは本来、多くの志を調和するという意味だ」
父は近くにあったメモ帳に筆ペンで「和多志」と書いた。達筆な文字が目の前に置かれる。その文字を目でなぞった。
「自我で生きるな。神社に鏡があるのを見たことがあるだろう。そこには咲馬が映っていると思う。だが、『鏡』の中心から『我』を取ったら『神』が残る。そう、鏡に映っているのは、本当は神様だ。我を押し出すことなく、すべての命との調和を志していれば、人の形をした神様が咲馬に姿を見せる。自我意識と魂の使命との差を取ることを『悟り』と言うんだ。花はただそこにあるだけで美しい。人の心に平和をもたらし、命を吹き込む。あれは花の形をした神様だ。咲馬には、ひと様のために咲き誇ってほしい。そして、気づきを与える人になってもらいたい。それが父親としての願いだ。おまえは俺たち両親に似て、命を愛でる心がある。だから大丈夫だ。その道の開拓者になれ」
父はそう言うと、母さんに「酒の準備をしてくれ」と伝えた。母さんは「はあい、ただ今」とお勝手に向かう。
「たまには親子でくみ交わす日本酒ってのもいいだろ」
*
昨夜、脱衣所で鏡を見た。服を脱いだら相変わらずやせっぽちの体が映っていた。
でも、それは神様の体なのだと思えた。僕はこの身を借りて生きているのだと。
今日は一日中、昨日の父さんの言葉が全身を駆けめぐっていた。
仕事中、美倉が僕に声をかけた。
「咲馬、なんか大きな決断をしたって感じだな」
――どうしてそんなことが。
心のなかで僕は言った。以前に美倉から言われためがねをかけ直す癖をしていたのだろうか。
「三年前バイトを決めたとき、ミトちゃんのマネージャーを引き受けたとき、そういう転機のときには、いつもこんな感じだ。なんていうか、視線がまっすぐ迷いがない。それに今日はいつにも増して仕事がきっちりしていた。悔いを残さないようにしているみたいな」
美倉の観察眼を内心で称賛していた。見事に美倉の言う通りだ。
「咲馬の決断は間違っちゃいないさ。そういうことで、灰皿交換よろしく」
ぽんと背中を押された。一瞬よろめきながら美倉のほうを振り返ると、いつものにやついた顔をしていた。
美倉に押された背中に手のあたたかみが残っている。「天命」の二文字に触れられた気がした。
バイトの勤務後、休憩室に向かう小川さんと美倉を見送り、僕は店長のいる事務所へ入った。
「失礼します」
店長は小さく首を振った。
「お話しがあります」
「こちらへどうぞ」
オフィスチェアを差し出してくれる。店長と対面する形で座った。
「今月をもって、バイトを辞めさせていただこうと思います」
「さみしくなりますね」
ボソッといつもの調子でつぶやいた。
「とつぜんですみません。やるべき道が見えたので決断しました」
「そうですか。そんなに若いうちから道を見出して決断できるなんてすばらしいことですよ」
店長のまなざしはあたたかい。僕は店長のやさしさが好きなんだなとあらためて感じる。
いつだって目立たない所から僕を見てくれていた。僕に居場所を作ってくれた。あんな人になりたいと、店長の背中をいつも追いかけてきた。店長と出会って、言葉だけでなく背中で語る人にあこがれた。
なんの色もないと思っていた僕を今まで育ててくれた恩師だ。間違いなくそう言える。
いずれ僕の進んだ道のことが店長の耳にも入るだろう。でも、僕は使命をまもり抜いていると報告したい。店長が僕を見まもってくれていたように、今度は僕がこの町ごとまもっていく。
僕は深くおじぎをした。
「そういえば、ガンプラの動画の作者は神田くんですよね?」
「え?」
なんで店長がそのことを知っているのだろう。美倉が話したのだろうか。僕には身に覚えがない。
「うちに住む若い子たちガンプラが好きみたいでね、動画を教えてもらったんです。アムカスという名前を見たときにピンときました。ひっくり返すと、サクマですもんね。ガンプラでサクマと言えば、きっとそうだと思いました」
店長の言う通りだった。動画サイトで名乗っている「アムカス」とは「SAKUMA」を逆から読んだものだ。
「アラバヒカ・スタジオの『アラバヒカ』も反対に読むと『秋葉原」になるんですよ。桜くんにそのことを教えてもらっていたので、アムカスのこともすぐにわかりました」
僕は頭のなかで「ARABAHIKA」の文字を浮かべる。たしかに秋葉原になる。
「なるほど。桜さんはライブハウスのプロですもんね」
「そうそう、動画の音楽を提供しているのはつかさちゃんなんですよ」
「え、サイボーグさんですか」
「そうです。ミトさんの音楽にも携わることができてとても喜んでいますよ。うれしそうに話してくれるので、食事の席が華やかになりました」
「サイボーグさんがつかささん……」
「CGクリエイターのガンボーイという人物もいますよね、あれはじつは岩本くんです」
驚くべき事実が続け様にやってくる。
「岩本だから『ガン』ボーイだなんて言っていました。わが家ではみんな彼のことをガンちゃんって呼んでいます」
思い返すと、店長の奥さんである千晶さんが「岩ちゃん」と呼んでいたはずだ。そういうことだったのか。
ガンダムはもともと企画の時点では『ガンボーイフリーダム』というタイトルだった。動画を一人で始めた企画を一緒になって作ってくれる人が現れて、しかも名前が「ガンボーイ」ということでとてもうれしかったのを覚えている。企画が動き出した、と感動していた。ガンボーイさんが毎日この店で見ている岩本さんだったなんて、想像できるはずがない。
「そんなことってあるんですね……」
「ガンちゃんが動画を発見してから興味を持って、つかさちゃんに声かけたみたいです。そうしたら彼女もファンになり、ぜひ協力したいと言ったようです。桜くんも自身のブログで動画を紹介して反響があったみたいですよ。彼はブログで音楽関係のことを書いていますが、閲覧者が多いみたいです」
僕は仕事のみならず、動画でも店長の一家に支えられていた。
このアルバイトには、二十歳になるまえから美倉に誘われていた。でもしばらく返事をしていなかった。二十歳を迎えた日、両親から僕の生い立ちを聞き、なにかを始めようと唐突に思った。そして、この仕事をやることを決めたのだ。
美倉の言うように、僕の決断は間違っていなかった。
「店長がいたから、僕は動画を作ってこられたんですね。ありがとうございます」
「住人のみんなが自発的に動いていることですよ。私はなにもしていませんから」
「そんなことありません。店長がみんなのことを見ていてくれるから、僕たちは動けるんです。口にしたことはありませんでしたが、いつも感謝していました」
「こちらこそ、毎日まじめに取り組んでくれてとても助かりました。美倉くんとのコンビを見ているだけで元気をもらえますね。さ、帰りのしたくをしましょうか」
立ち上がった店長にならって僕も席を立つ。オフィスチェアを戻しながら僕は、美倉とコンビと言われたことについて考えていた。
このバイトに出会ったのも美倉がきっかけだった。水兎に出会ったのだって、龍崎さんに出会ったのだって、僕の決断の後ろにはいつだって美倉の存在がある。
僕はいい人とめぐり会っていることを実感した。
休憩室には小川さんと美倉がまだ残っていた。
「よっ、お疲れ」
美倉が片手を上げて言った。お疲れさん。僕も返す。
全員が揃っているうちに言っておきたい。僕は店長に報告したことを二人にも伝える。
「今月でバイトを辞めます。お世話になりました」
「なんだよ、相談もなしに」
美倉が少しふてくされたように顔をゆがめる。
「なあんて、うすうす気づいていたけどな。いいじゃん。新たな道に踏み出す決心がついたようだな。あ、店長。俺もミトちゃんのマネージャーに就任したので、近い将来辞めると思うっす」
「さらにさみしくなるなあ」
この流れで言うか。美倉をにらみつつ、店長の穏やかな調子にほっとする。
小川さんは「お疲れ様だったね」と短く言った。吐いた煙が天井の換気扇に吸い込まれていく。龍がのぼっていくみたいで僕はいつも見るのが好きだった。
この店で染みついたたばこの臭いは、ずっと胸のなかに残り続けるんだろうな、と思う。
*
僕は和泉オフィスのドアを叩いた。駿河さんが出てくる。
「サクか、どうした」
「龍崎さんに話があって来ました」
「冗談話を言いに来たっていう感じではなさそうだな」
入ってくれ、と通してくれた。僕が来た理由をたずねることはない。
龍崎さんはデスクに置かれたなにかの資料を深く読み込んでいるところだった。神田さんがお見えです、という駿河さんの説明で視線をこちらに向ける。
「神田さん、こんにちは」
「おいそがしいところ、すみません。でも、今話しておきたい、いえ、話さないといけないことがあって来ました」
「ダイ、ちょっと席を外してくれるか」
駿河さんはうなずいて、静かに部屋を出ていった。
こちらにお掛けください、と応接用のソファーに案内される。向かいに龍崎さんが座った。
「僕はこのところずっと考え、悩み、自分の胸に問いかけていたことがあります」
龍崎さんの眼光が僕を射抜いた。でも、僕は目をそらしてはいけないと直感的に決める。その瞳の奥にあるものを僕もつかんで離さないために。
「僕も龍崎さんと同じ道に入って水兎さんをまもりたいと決意したのです」
沈黙がおとずれる。
一瞬だったのかもしれない。けれど、長い長いひとときだ。龍崎さんのいる世界に踏み入れるための試練の時間だと考えた。
「手招きで歓迎できるものではありませんよ。表舞台で水兎を支えてほしいとは思っていましたが、こちらの世界には来てほしいと思ったことはありません。生きている心地がしないことだってあるでしょう。死というものに出会う瞬間はきっといつかやってきます。ダイも生半可な気持ちでこの組に入ったわけではないでしょう。いえ、そうだとしたらもう彼はこの世にいないかもしれません」
僕はこぶしをきつく握りしめた。
すべて考え抜いた結果、ここに来ている。
僕は口を開いた。
「死が遠い世界のできごとのような気がしていました。でも、本当は生も死もとなり合わせだと気づいたんです。光も闇も、白も黒も。僕は自分にはなにも色がないと思って生きてきました。けれど、僕にも灰色くらいには色があって、朝も夜もちゃんとやってきて、光と闇は僕に降り注いでいるのだと思いました。僕はもしかしたら生まれてまもなく死んでいたかもしれない命です。これまで意識しないようにしてきたそのことを、最近になって目を向けるようになりました」
「死んでいたかもしれない、というのは」
「僕は生みの親に捨てられた身です。現在の両親は育ての親です。血はつながっていません」
龍崎さんが初めて視線を下げた。悲しみを帯びた表情をしている。
僕に同情を覚えたのだろうか。そうだとしたら、本意ではない。
「私が神田さんに、この世界に来てほしくないと思っていた一番の理由を話さないといけない時が来たようですね」
ふたたび永遠に触れそうな時間が訪れた。
龍崎さんにとっても試練の時が来ているということだろうか。龍崎さんから放たれる言葉がどんなものなのか、全部受け止める覚悟はできている。
「水兎の母親は事故死などではなく、私の手で殺めました」
僕は新聞を読んでいた父さんに向けて声をかける。
父さんは新聞から視線は外し、こちらを見た。
「どうした、そんなかしこまって」
「僕はずっと悩んでいたんだ。悩んで悩んで、でも決めた。まもりたいものをまもるために」
父さんは新聞を閉じて床に置いた。じっと僕の言葉に耳を寄せている。
ひざの上に置いた僕の手にぎゅっと力が入る。
「僕は龍崎さんのもとで組の一員になる。それで水兎ちゃんを、そしてこの町を、この身に変えてまもっていく。もちろん父さん母さんのことも」
父さんはぶれることのない視線を僕に送り続けていた。
――間が空く。
それから口を開いた。
「俺は、父親としてうまくやれてきたのか正直自信がない。ただ、これは親のエゴだと思って聞いてほしい。いつだって心のなかではおまえのことを信じてきた。信じ抜いてきた。その気持ちは今もまったく変わらない。だから、咲馬の決断に関して、俺はなにも言わない。いや、応援したいと思っている。簡単に決めたことじゃないんだろう? だから、どんな道に進もうが、その道が咲馬の道だ。俺や母ちゃんの息子であることはこの先もずっと変わらない。世界で一人、俺たちの子だからな」
そう言うと父さんは、ふっと笑みをこぼした。
「じつはな、俺はガンプラについてちょっと勉強していたんだ。少しでも咲馬の趣味を理解したくてな。ガンダムに神輿を担がせてみたらどうかな、なんて考えたりしていたんだよ」
僕も思わず笑いがこみ上げてきた。
涙が出るほど、二人で笑う。端に座っている母さんも泣きながら笑っていた。
「いいよ、それ。神輿に関しては頭に染みついているからね。設計図が描けるほどだよ。父さんのアイディアを絶対に形にするから。だから――」
「だから……?」
「これからもこの町のために、なにより僕のために、父さん、神輿を担ぎ続けてよ。ずっとずっと盛り上げ続けてよ」
「言われなくたってやったる! 祭りと母ちゃんはあの世に行っても離れないさ」
もちろん咲馬も大事だぞ、がはは、と父さんは笑った。
「ただな、咲馬」
父さんの表情がにわかに険しくなる。かつて見せたことのない顔だ。
「これだけは誓ってほしい。信じたものをまもり抜け。そして、絶対にひと様を傷つけるな。その道で誰も傷つけずに生きていくことは半端なことじゃない。俺たちの名前に入っている馬という動物は、神様の乗り物だ。咲馬の背には神様が乗っている。咲馬に課せられ天命は、十字架を背負うよりもはるかに責任があるんだ。人は人とのご縁でしか生きていけない。人は、人の形をした神様だ。おまえの背に今のうちに深く刻みつけておけ。なにより、その命を粗末にするな」
――はい。
これまでで最も重みのある返事をした。
父さんを初めて父さんとしてではなく、「神田伝馬」という一人の男として見た。その存在が限りなく大きく感じられる。命を粗末にするな、これはばあちゃんに何度も言われてきた言葉だ。ご飯の一粒も残さなかったばあちゃんの姿がよみがえる。
背中が熱くなった気がする。墨を入れるよりも深く僕の背に「天命」の二文字が刻まれた。きっと、意志は血のつながりを超える。
「人は自分のことを『わたし』と言う。これは本来、多くの志を調和するという意味だ」
父は近くにあったメモ帳に筆ペンで「和多志」と書いた。達筆な文字が目の前に置かれる。その文字を目でなぞった。
「自我で生きるな。神社に鏡があるのを見たことがあるだろう。そこには咲馬が映っていると思う。だが、『鏡』の中心から『我』を取ったら『神』が残る。そう、鏡に映っているのは、本当は神様だ。我を押し出すことなく、すべての命との調和を志していれば、人の形をした神様が咲馬に姿を見せる。自我意識と魂の使命との差を取ることを『悟り』と言うんだ。花はただそこにあるだけで美しい。人の心に平和をもたらし、命を吹き込む。あれは花の形をした神様だ。咲馬には、ひと様のために咲き誇ってほしい。そして、気づきを与える人になってもらいたい。それが父親としての願いだ。おまえは俺たち両親に似て、命を愛でる心がある。だから大丈夫だ。その道の開拓者になれ」
父はそう言うと、母さんに「酒の準備をしてくれ」と伝えた。母さんは「はあい、ただ今」とお勝手に向かう。
「たまには親子でくみ交わす日本酒ってのもいいだろ」
*
昨夜、脱衣所で鏡を見た。服を脱いだら相変わらずやせっぽちの体が映っていた。
でも、それは神様の体なのだと思えた。僕はこの身を借りて生きているのだと。
今日は一日中、昨日の父さんの言葉が全身を駆けめぐっていた。
仕事中、美倉が僕に声をかけた。
「咲馬、なんか大きな決断をしたって感じだな」
――どうしてそんなことが。
心のなかで僕は言った。以前に美倉から言われためがねをかけ直す癖をしていたのだろうか。
「三年前バイトを決めたとき、ミトちゃんのマネージャーを引き受けたとき、そういう転機のときには、いつもこんな感じだ。なんていうか、視線がまっすぐ迷いがない。それに今日はいつにも増して仕事がきっちりしていた。悔いを残さないようにしているみたいな」
美倉の観察眼を内心で称賛していた。見事に美倉の言う通りだ。
「咲馬の決断は間違っちゃいないさ。そういうことで、灰皿交換よろしく」
ぽんと背中を押された。一瞬よろめきながら美倉のほうを振り返ると、いつものにやついた顔をしていた。
美倉に押された背中に手のあたたかみが残っている。「天命」の二文字に触れられた気がした。
バイトの勤務後、休憩室に向かう小川さんと美倉を見送り、僕は店長のいる事務所へ入った。
「失礼します」
店長は小さく首を振った。
「お話しがあります」
「こちらへどうぞ」
オフィスチェアを差し出してくれる。店長と対面する形で座った。
「今月をもって、バイトを辞めさせていただこうと思います」
「さみしくなりますね」
ボソッといつもの調子でつぶやいた。
「とつぜんですみません。やるべき道が見えたので決断しました」
「そうですか。そんなに若いうちから道を見出して決断できるなんてすばらしいことですよ」
店長のまなざしはあたたかい。僕は店長のやさしさが好きなんだなとあらためて感じる。
いつだって目立たない所から僕を見てくれていた。僕に居場所を作ってくれた。あんな人になりたいと、店長の背中をいつも追いかけてきた。店長と出会って、言葉だけでなく背中で語る人にあこがれた。
なんの色もないと思っていた僕を今まで育ててくれた恩師だ。間違いなくそう言える。
いずれ僕の進んだ道のことが店長の耳にも入るだろう。でも、僕は使命をまもり抜いていると報告したい。店長が僕を見まもってくれていたように、今度は僕がこの町ごとまもっていく。
僕は深くおじぎをした。
「そういえば、ガンプラの動画の作者は神田くんですよね?」
「え?」
なんで店長がそのことを知っているのだろう。美倉が話したのだろうか。僕には身に覚えがない。
「うちに住む若い子たちガンプラが好きみたいでね、動画を教えてもらったんです。アムカスという名前を見たときにピンときました。ひっくり返すと、サクマですもんね。ガンプラでサクマと言えば、きっとそうだと思いました」
店長の言う通りだった。動画サイトで名乗っている「アムカス」とは「SAKUMA」を逆から読んだものだ。
「アラバヒカ・スタジオの『アラバヒカ』も反対に読むと『秋葉原」になるんですよ。桜くんにそのことを教えてもらっていたので、アムカスのこともすぐにわかりました」
僕は頭のなかで「ARABAHIKA」の文字を浮かべる。たしかに秋葉原になる。
「なるほど。桜さんはライブハウスのプロですもんね」
「そうそう、動画の音楽を提供しているのはつかさちゃんなんですよ」
「え、サイボーグさんですか」
「そうです。ミトさんの音楽にも携わることができてとても喜んでいますよ。うれしそうに話してくれるので、食事の席が華やかになりました」
「サイボーグさんがつかささん……」
「CGクリエイターのガンボーイという人物もいますよね、あれはじつは岩本くんです」
驚くべき事実が続け様にやってくる。
「岩本だから『ガン』ボーイだなんて言っていました。わが家ではみんな彼のことをガンちゃんって呼んでいます」
思い返すと、店長の奥さんである千晶さんが「岩ちゃん」と呼んでいたはずだ。そういうことだったのか。
ガンダムはもともと企画の時点では『ガンボーイフリーダム』というタイトルだった。動画を一人で始めた企画を一緒になって作ってくれる人が現れて、しかも名前が「ガンボーイ」ということでとてもうれしかったのを覚えている。企画が動き出した、と感動していた。ガンボーイさんが毎日この店で見ている岩本さんだったなんて、想像できるはずがない。
「そんなことってあるんですね……」
「ガンちゃんが動画を発見してから興味を持って、つかさちゃんに声かけたみたいです。そうしたら彼女もファンになり、ぜひ協力したいと言ったようです。桜くんも自身のブログで動画を紹介して反響があったみたいですよ。彼はブログで音楽関係のことを書いていますが、閲覧者が多いみたいです」
僕は仕事のみならず、動画でも店長の一家に支えられていた。
このアルバイトには、二十歳になるまえから美倉に誘われていた。でもしばらく返事をしていなかった。二十歳を迎えた日、両親から僕の生い立ちを聞き、なにかを始めようと唐突に思った。そして、この仕事をやることを決めたのだ。
美倉の言うように、僕の決断は間違っていなかった。
「店長がいたから、僕は動画を作ってこられたんですね。ありがとうございます」
「住人のみんなが自発的に動いていることですよ。私はなにもしていませんから」
「そんなことありません。店長がみんなのことを見ていてくれるから、僕たちは動けるんです。口にしたことはありませんでしたが、いつも感謝していました」
「こちらこそ、毎日まじめに取り組んでくれてとても助かりました。美倉くんとのコンビを見ているだけで元気をもらえますね。さ、帰りのしたくをしましょうか」
立ち上がった店長にならって僕も席を立つ。オフィスチェアを戻しながら僕は、美倉とコンビと言われたことについて考えていた。
このバイトに出会ったのも美倉がきっかけだった。水兎に出会ったのだって、龍崎さんに出会ったのだって、僕の決断の後ろにはいつだって美倉の存在がある。
僕はいい人とめぐり会っていることを実感した。
休憩室には小川さんと美倉がまだ残っていた。
「よっ、お疲れ」
美倉が片手を上げて言った。お疲れさん。僕も返す。
全員が揃っているうちに言っておきたい。僕は店長に報告したことを二人にも伝える。
「今月でバイトを辞めます。お世話になりました」
「なんだよ、相談もなしに」
美倉が少しふてくされたように顔をゆがめる。
「なあんて、うすうす気づいていたけどな。いいじゃん。新たな道に踏み出す決心がついたようだな。あ、店長。俺もミトちゃんのマネージャーに就任したので、近い将来辞めると思うっす」
「さらにさみしくなるなあ」
この流れで言うか。美倉をにらみつつ、店長の穏やかな調子にほっとする。
小川さんは「お疲れ様だったね」と短く言った。吐いた煙が天井の換気扇に吸い込まれていく。龍がのぼっていくみたいで僕はいつも見るのが好きだった。
この店で染みついたたばこの臭いは、ずっと胸のなかに残り続けるんだろうな、と思う。
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僕は和泉オフィスのドアを叩いた。駿河さんが出てくる。
「サクか、どうした」
「龍崎さんに話があって来ました」
「冗談話を言いに来たっていう感じではなさそうだな」
入ってくれ、と通してくれた。僕が来た理由をたずねることはない。
龍崎さんはデスクに置かれたなにかの資料を深く読み込んでいるところだった。神田さんがお見えです、という駿河さんの説明で視線をこちらに向ける。
「神田さん、こんにちは」
「おいそがしいところ、すみません。でも、今話しておきたい、いえ、話さないといけないことがあって来ました」
「ダイ、ちょっと席を外してくれるか」
駿河さんはうなずいて、静かに部屋を出ていった。
こちらにお掛けください、と応接用のソファーに案内される。向かいに龍崎さんが座った。
「僕はこのところずっと考え、悩み、自分の胸に問いかけていたことがあります」
龍崎さんの眼光が僕を射抜いた。でも、僕は目をそらしてはいけないと直感的に決める。その瞳の奥にあるものを僕もつかんで離さないために。
「僕も龍崎さんと同じ道に入って水兎さんをまもりたいと決意したのです」
沈黙がおとずれる。
一瞬だったのかもしれない。けれど、長い長いひとときだ。龍崎さんのいる世界に踏み入れるための試練の時間だと考えた。
「手招きで歓迎できるものではありませんよ。表舞台で水兎を支えてほしいとは思っていましたが、こちらの世界には来てほしいと思ったことはありません。生きている心地がしないことだってあるでしょう。死というものに出会う瞬間はきっといつかやってきます。ダイも生半可な気持ちでこの組に入ったわけではないでしょう。いえ、そうだとしたらもう彼はこの世にいないかもしれません」
僕はこぶしをきつく握りしめた。
すべて考え抜いた結果、ここに来ている。
僕は口を開いた。
「死が遠い世界のできごとのような気がしていました。でも、本当は生も死もとなり合わせだと気づいたんです。光も闇も、白も黒も。僕は自分にはなにも色がないと思って生きてきました。けれど、僕にも灰色くらいには色があって、朝も夜もちゃんとやってきて、光と闇は僕に降り注いでいるのだと思いました。僕はもしかしたら生まれてまもなく死んでいたかもしれない命です。これまで意識しないようにしてきたそのことを、最近になって目を向けるようになりました」
「死んでいたかもしれない、というのは」
「僕は生みの親に捨てられた身です。現在の両親は育ての親です。血はつながっていません」
龍崎さんが初めて視線を下げた。悲しみを帯びた表情をしている。
僕に同情を覚えたのだろうか。そうだとしたら、本意ではない。
「私が神田さんに、この世界に来てほしくないと思っていた一番の理由を話さないといけない時が来たようですね」
ふたたび永遠に触れそうな時間が訪れた。
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青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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