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離別
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僕は実の親を知らない。今の両親が両親だと疑いなく思って生きてきた。
だから、誰が僕の本当の親なのか気にしたことはない。
僕が父さん母さんと血がつながっていないことを聞かされたのは、二十歳のときだった。
二人は細々と花屋を営んできた。小さな命に愛情を注ぐのが好きな二人は、自分たちのもとにも命が宿ると当然のこととして考えていた。
けれど、それは幻想だと気づく。
病院での検査の結果、母さんの体は子どもができにくいことがわかる。同様に父さんも精子の数が同世代の男性平均より大幅に少ないと判明した。
花の命を扱う二人に、人の命が引き寄せられることはなかった。
治療という選択肢も一時は出たらしい。だけど父さんは、命というものは神様がもたらしてくれる縁によって成り立つと考えている。だから、自然に宿らない方法を取りたくないと言った。
それなら、行き場を失った命を自分たちのもとへ迎え入れよう、と決意する。
ばあちゃんはその決断に対してなにも口を挟まなかった。いつもの凛とした姿勢をくずすことなく父さんの話を聞いていた。
ちょうどそのころ、地元紙で取り上げられたニュースがある。
墨田川に架かる両国橋の下に生後まもない児童が捨てられていたのを通りかかったホームレスの男性が発見した。
赤ん坊は、新生児特定集中治療室で治療を受けたあと、乳児院に保護された。
毎朝のように新聞を読んでいた父さんは、その記事を指さし、母さんに見せた。
父さんの意図をくみ取った母さんはうなずく。
二人は共に胸のうちで誓った。
――この子をわが家で迎え入れる。
二人はその乳児院へと出向き、どうしたらその子を家庭に入れられるかきいた。
その後、児童相談所とも話し合って準備を進めながら、家庭裁判所へ特別養子縁組の申し立てをした。
当然ながら、「親」になる者として、児童を育てるのに適正かどうか調べられる。二人の婚姻関係の有無、経済状況、年齢など、確認される項目はいくつもある。
簡単に子どもを迎え入れられるわけではないということを体感して、さらに幼子への思いは募っていった。
保護された児童が神田家に来るまで、二人の予想よりも時間はかかり、初めて乳児院を訪れてから一年が経過していた。
児童が誕生したと思われる四月、そして神田家に入ることになったその月に、二人がかつて庭に植えた馬酔木の花が咲いたことから、「咲馬」の名前がつけられた。
その児童――僕が「神田咲馬」としてこの世に名を持って生まれ変わった瞬間だ。
この話を二人から聞いたのは僕が二十歳になる日だった。
「うれしい」や「悲しい」といった感情はわいてくることがなく、冷静に聞いていた。二人がいつもの調子で話してくれたからかもしれない。
息子の生い立ちを話しているはずなのに、父さんは母さんの話題をちょくちょく挟んでくる。母さんも「大変だったのよー」と言いながら、あっさりとできてしまったかのように話すから、僕も「そっか」と言えた。
大事な話をあっけらかんと話す二人が僕の両親なんだな、とあらためて思った。僕が二人と似ていない理由もわかって納得した。
それ以来、このおよそ三年間はとくに考えることなくすごしてきた。自分が本当はどこの誰なのかなんて、どうでもいいことだと思える。幼少期からこの家族のもとで生きてきた、それが僕にとってのすべてだから。
このまえ父さんから、親として僕を信じて育ててきた思いを聞いて、僕は自分自身への関心を持つようになった。
僕は、咲馬という名前がつけられていても、本当は咲馬じゃなくて、どこの誰かもわからない無色な存在だと思い込んできた。
でも、僕はまぎれもなく咲馬なのだと立ち返った。そこから、自分の名前についても調べてみたくなった。
馬酔木の葉や花には毒性があるらしい。馬が葉を食べると酔ったみたいにふらつくようになる木、ということから馬酔木の漢字が当てられたという。
「毒」の文字に思わず笑ってしまった。今僕が進もうとしている道を暗示しているかのようだったから。
水兎たちにも話したように、馬酔木の属名が「ピエリス」だ。ギリシャ神話に出てくる音楽や文芸の九姉妹の女神たちのことを指す。ピエリスについての知識は花屋の息子だからじゃなく、このように自分で調べたから得たものだ。
僕は水兎にめぐり会う運命だったということだろう。僕の名前に宿る九姉妹の一人を水兎だと思うことにしたのだった。水のようにつかみどころがなくて、兎のようにどこかへ去ってしまいそうな水兎を、自分の分身だと思ってまもっていくと。
*
僕の人生に変化をもたらした美倉との出会いは、地元の公立高校でのことだ。
小学校、中学校と集団の輪に入ることが苦手だった僕は、高校に入学しても周囲に声をかけることができず、ひっそりとしていた。時間が早くすぎてほしいということばかりを考える日々だった。透明で、誰からも姿が見られていないのかもしれないと思っていた。いや、見られないことを望んでいたのかもしれない。自分は透明な存在なのだと思い込んでいた。
そういうふうにしてすごしていたら夏になった。
ようやく夏休みが来ると思いながら最終日の授業をやりきる。
五限目終了のチャイムが鳴ってまもなく、すぐさまカバンに教材をしまった。
これで思う存分、ガンプラを作れる。僕はそう考えていた。
帰り道、いつになく軽い足取りで歩いていた。いつも横切る公園を通過していると、猫が僕の前を軽快に横切った。それがノラだと気づく。
ノラの走っていった先に視線を送ると、僕と同じブレザーを着た男子がなにかをノラにあげていた。
僕は恐る恐る近づくと、彼が弁当箱に入った白い液体をあげていることがわかった。
おそらくミルクだ。だけど、いったい誰だろう。
僕の視線に男子は気づいた。
「よっ」
まるでまえから友達だったかのように、男子は右手を上げて言う。
知っている人だろうかと考えてしまうほどに自然な言動だった。でも、そんなはずがない。いくら同じ高校とはいっても、生徒数は多い。彼と会った記憶はまったくなかった。
僕が返答に困っていると彼から声をかけてきた。
「きみ、誰?」
「は?」
思わず僕は言った。なにを言っているんだこいつは。
自分からあいさつをしてきて、誰ってことはないだろう。僕のほうがその疑問をいだいていたところだ。
「いや、きみこそ誰」
「たぶんきみと同じ高校の一年四組、出席番号三十一番、美倉永大。好きな地下アイドルはマリリンで、夜な夜なもぐらを――」
「ちょっと待って」
「なに?」
「後半の情報はどうでもいい」
止めなかったらずっと続けそうな勢いだった。面倒なやつと出会ってしまった。
やれやれ、というように彼は肩をすくめる。
「秋葉原界わいの住人たる者、地下アイドルに興味ないとは……。まあ、いいや。もう一度きくけど、きみは?」
「神田咲馬」
「一年?」
「まあ、そうだよ」
「だと思ったよ。制服着慣れていないし、先を見越してか若干大きそうだし。カバンが全体的にきれいなままだ」
「これで二年と答えていたらどうしたんだよ」
横柄な態度で、先輩に対してだったら失礼すぎる。
「一年だったんだから問題ないっしょ。ま、俺のことは好きに呼んでくれていいよ」
そう言うと、にやっと笑った。
完全にこいつのペースに飲まれていた。これ以上、話に突っ込んでいても仕方ない。
「じゃあ、美倉って呼ぶよ」
「なんだ、そのままかー。俺は咲馬って呼ばせてもらうから」
急速に距離感を縮められた気がする。思えば、友達らしい友達どころか、ひととこんなに話すこともなかった。ましてや、父さん以外に「咲馬」と呼ばれたこともない。
面倒なやつだとは思いながらも、不快な思いをしていないことは否定できない。声の温度に嫌味を感じないからだろうか。不思議なやつだ。
「ところで、その猫なんだけど」
「ああ、この子? いつもここでミルクをあげてるよ」
「それ、うちの子なんだ」
正確に言うなら、うちにほとんど居着いている子、だ。少し見栄を張った。
「あ、そうなのか。奇遇だな。野良にしては栄養状態もよさそうだし、汚れも少ないと思ってたんだ。普通の野良猫より警戒心も少ない。誰かに世話をされているみたいな印象を受ける」
「そこまで想像していながらなんでミルクを?」
「俺が飲んでいたらそこに現れたんだ、この子が。そしたらあげるしかないだろう? スキンシップもとれるし。いつのまにか習慣になってた」
案外いいやつなんじゃないかと思った。
「安心していい。この弁当箱はちゃんと洗ってあるから」
「いや、そんなこときいてないけど」
「この子の名前は?」
「ノラだよ」
「猫の名前までまんまかよ。ってか、ノラってことは野良猫ってことだろ?」
「いいんだよ。うちにしょっちゅう出入りしてるんだから」
――こんな感じで、僕たちの出会いのきっかけはノラだった。
高校はクラスが十組もあったため、美倉と同じ組になることはなかった。美倉との出会いがあっても、僕の学校生活はずっとひそやかなものだった。
学校外での生活では、家とプラモデル関係の店のほかに、美倉の家に行くこともあった。僕の家に来ることもある。わが家は裏手に両親の店があるから、美倉は僕の父さん母さんのことも知っている。美倉が来るたびになにかしら花をあげていた。
美倉の父親は公務員の仕事に追われているようで面識はない。母親は専業主婦をしていて、いつもあたたかく迎え入れてくれた。お姉さんは短大を卒業後、働きに出ているようで、ほとんど会う機会がない。会ってもあいさつを交わす程度だった。
美倉は僕の両親から受け取った花を母親やお姉さんにあげているらしく、二人からお礼を言われたことがある。
高校卒業後、これといった進路の希望がなかった僕は四年制大学の商学部に入り、公務員にはならないと宣言した美倉は製菓の専門学校に進んだ。
――咲馬が手先が器用なら、俺だって器用なはずだ。俺は食の分野で芸術性を高めに行く。
こんなよくわからない理由で製菓学校に進んだらしい。分野が違いすぎて張り合いにもならない。
しかし、意外にも美倉の才能は開花したようで、実力は自他ともに認めるレベルだという。
僕が水兎に初めて出会った日、水兎に届けてほしいと渡してきた焼き菓子も、自分で作ったものだと言っていた。あの日、姉の誕生会があるからと勤務後すぐに帰っていったけど、ケーキを作るために早く帰ったのだそうだ。
僕らが進学した翌年の冬、僕の日常にあった風景が変わってしまった。二年制の製菓学校に通っていた美倉にとっては卒業の年に当たる。
そして僕らにとって、最後の十代だった。
いつも通り学校に行こうとしていた朝だった。ノラがガリガリとドアで爪を研ぐ音で起こされた。
着替えを済ませて一階に下りる。ふだんならばあちゃんがとっくに起きている時間だ。朝の早い両親はすでに店のほうに出ていた。
僕は念のためばあちゃんの部屋へ行くことにした。
「ばあちゃん」
部屋の外から声をかける。返事はない。もう一度、少し大きめの声をかけてみた。やっぱり反応はない。
ふすまを開ける。ばあちゃんは布団で横になったままだった。
――なんだ、まだ寝ていたのか。
僕は安心してふすまを閉めようとしたとき、朝食を求めてやってきたノラが、すっとばあちゃんの部屋に入り、駆けていった。
「あ、こら」
僕の声で制止することなく、ノラはそのまま布団に近づいていく。
なにかを加えていることに気づいた。
ノラはばあちゃんの顔の脇にそれを置く。おまもりだ。「鳥越神社」の文字が見える。
そして、ノラはばあちゃんの顔を舐めた。でも、ばあちゃんはぴくりとも動かない。
不自然さに気づいた僕は、掛け布団越しにばあちゃんの体をゆすった。なにも変動がない。
おかしいと思い、頬に触れてみる。
――冷たい。
僕は急いで父さんたちのもとへ向かう。部屋でばあちゃんのことを確認した父さんは救急車を呼んだ。母さんは口をつぐんでいた。
病院に運ばれたばあちゃんの死因は「心不全」と診断された。享年九十四。大往生だったと言えるだろう。
眠るように旅立ったとは、ばあちゃんのためにある言葉のようだ。
――苦しまないで逝けたならよかった。
父さんは病院で言った。
周囲の存在のすべては当たり前に存在していくものだと思っていた。こんなにあっさりといなくなってしまうなんて考えてもいなかった。
それが「死」というものだと知る。
命を粗末にしてはいけないと何度も言っていたばあちゃんの命を粗末にはしたくはない。でも、そんなことが僕にできるだろうか。
気が動転しているなか、ふと美倉の顔が浮かんだ。
うまく回転しない思考のまま、一通メールを送る。
『ばあちゃんが旅立った』
父さんたちは慌ただしく葬儀の段取りを業者と打ち合わせていた。
翌朝、美倉がわが家にとつぜんやってきた。荷物をたくさん持って。
「葬式まんじゅう作ってきた。きっと必要になるだろ。甘いものは体にしみるはずだ。咲馬も食べておけ」
玄関に大量のまんじゅうを置いた美倉は、それ以上のことを言わずに去っていった。
「父さん、母さん、美倉が持ってきてくれたよ」
僕はそう伝えて、まんじゅうを渡す。
ありがたいね。母さんは静かにつぶやいた。
僕はその一つを手に取り、自室に戻る。
ベッドの端に腰かけ、手のなかのまんじゅうを見つめた。そういえば、昨日からなにも食べていなかったなと気づく。
ひと口頬張った。ほんのりとした甘みがほろりと口に広がる。
美倉の言うように体にしみた。
――やたら、しみるよ。
この味をばあちゃんにも食べさせてあげたかったな、と思った。
ノラが持ってきたおまもりをポケットから取り出し、握りしめる。
ばあちゃんとはもう会えない。この家の風景はぽっかりと一人分欠けてしまう。
僕は十代の最後に一つ大きな経験をした。
やがて二十歳になり、両親からの告白の日がやってくる。
だから、誰が僕の本当の親なのか気にしたことはない。
僕が父さん母さんと血がつながっていないことを聞かされたのは、二十歳のときだった。
二人は細々と花屋を営んできた。小さな命に愛情を注ぐのが好きな二人は、自分たちのもとにも命が宿ると当然のこととして考えていた。
けれど、それは幻想だと気づく。
病院での検査の結果、母さんの体は子どもができにくいことがわかる。同様に父さんも精子の数が同世代の男性平均より大幅に少ないと判明した。
花の命を扱う二人に、人の命が引き寄せられることはなかった。
治療という選択肢も一時は出たらしい。だけど父さんは、命というものは神様がもたらしてくれる縁によって成り立つと考えている。だから、自然に宿らない方法を取りたくないと言った。
それなら、行き場を失った命を自分たちのもとへ迎え入れよう、と決意する。
ばあちゃんはその決断に対してなにも口を挟まなかった。いつもの凛とした姿勢をくずすことなく父さんの話を聞いていた。
ちょうどそのころ、地元紙で取り上げられたニュースがある。
墨田川に架かる両国橋の下に生後まもない児童が捨てられていたのを通りかかったホームレスの男性が発見した。
赤ん坊は、新生児特定集中治療室で治療を受けたあと、乳児院に保護された。
毎朝のように新聞を読んでいた父さんは、その記事を指さし、母さんに見せた。
父さんの意図をくみ取った母さんはうなずく。
二人は共に胸のうちで誓った。
――この子をわが家で迎え入れる。
二人はその乳児院へと出向き、どうしたらその子を家庭に入れられるかきいた。
その後、児童相談所とも話し合って準備を進めながら、家庭裁判所へ特別養子縁組の申し立てをした。
当然ながら、「親」になる者として、児童を育てるのに適正かどうか調べられる。二人の婚姻関係の有無、経済状況、年齢など、確認される項目はいくつもある。
簡単に子どもを迎え入れられるわけではないということを体感して、さらに幼子への思いは募っていった。
保護された児童が神田家に来るまで、二人の予想よりも時間はかかり、初めて乳児院を訪れてから一年が経過していた。
児童が誕生したと思われる四月、そして神田家に入ることになったその月に、二人がかつて庭に植えた馬酔木の花が咲いたことから、「咲馬」の名前がつけられた。
その児童――僕が「神田咲馬」としてこの世に名を持って生まれ変わった瞬間だ。
この話を二人から聞いたのは僕が二十歳になる日だった。
「うれしい」や「悲しい」といった感情はわいてくることがなく、冷静に聞いていた。二人がいつもの調子で話してくれたからかもしれない。
息子の生い立ちを話しているはずなのに、父さんは母さんの話題をちょくちょく挟んでくる。母さんも「大変だったのよー」と言いながら、あっさりとできてしまったかのように話すから、僕も「そっか」と言えた。
大事な話をあっけらかんと話す二人が僕の両親なんだな、とあらためて思った。僕が二人と似ていない理由もわかって納得した。
それ以来、このおよそ三年間はとくに考えることなくすごしてきた。自分が本当はどこの誰なのかなんて、どうでもいいことだと思える。幼少期からこの家族のもとで生きてきた、それが僕にとってのすべてだから。
このまえ父さんから、親として僕を信じて育ててきた思いを聞いて、僕は自分自身への関心を持つようになった。
僕は、咲馬という名前がつけられていても、本当は咲馬じゃなくて、どこの誰かもわからない無色な存在だと思い込んできた。
でも、僕はまぎれもなく咲馬なのだと立ち返った。そこから、自分の名前についても調べてみたくなった。
馬酔木の葉や花には毒性があるらしい。馬が葉を食べると酔ったみたいにふらつくようになる木、ということから馬酔木の漢字が当てられたという。
「毒」の文字に思わず笑ってしまった。今僕が進もうとしている道を暗示しているかのようだったから。
水兎たちにも話したように、馬酔木の属名が「ピエリス」だ。ギリシャ神話に出てくる音楽や文芸の九姉妹の女神たちのことを指す。ピエリスについての知識は花屋の息子だからじゃなく、このように自分で調べたから得たものだ。
僕は水兎にめぐり会う運命だったということだろう。僕の名前に宿る九姉妹の一人を水兎だと思うことにしたのだった。水のようにつかみどころがなくて、兎のようにどこかへ去ってしまいそうな水兎を、自分の分身だと思ってまもっていくと。
*
僕の人生に変化をもたらした美倉との出会いは、地元の公立高校でのことだ。
小学校、中学校と集団の輪に入ることが苦手だった僕は、高校に入学しても周囲に声をかけることができず、ひっそりとしていた。時間が早くすぎてほしいということばかりを考える日々だった。透明で、誰からも姿が見られていないのかもしれないと思っていた。いや、見られないことを望んでいたのかもしれない。自分は透明な存在なのだと思い込んでいた。
そういうふうにしてすごしていたら夏になった。
ようやく夏休みが来ると思いながら最終日の授業をやりきる。
五限目終了のチャイムが鳴ってまもなく、すぐさまカバンに教材をしまった。
これで思う存分、ガンプラを作れる。僕はそう考えていた。
帰り道、いつになく軽い足取りで歩いていた。いつも横切る公園を通過していると、猫が僕の前を軽快に横切った。それがノラだと気づく。
ノラの走っていった先に視線を送ると、僕と同じブレザーを着た男子がなにかをノラにあげていた。
僕は恐る恐る近づくと、彼が弁当箱に入った白い液体をあげていることがわかった。
おそらくミルクだ。だけど、いったい誰だろう。
僕の視線に男子は気づいた。
「よっ」
まるでまえから友達だったかのように、男子は右手を上げて言う。
知っている人だろうかと考えてしまうほどに自然な言動だった。でも、そんなはずがない。いくら同じ高校とはいっても、生徒数は多い。彼と会った記憶はまったくなかった。
僕が返答に困っていると彼から声をかけてきた。
「きみ、誰?」
「は?」
思わず僕は言った。なにを言っているんだこいつは。
自分からあいさつをしてきて、誰ってことはないだろう。僕のほうがその疑問をいだいていたところだ。
「いや、きみこそ誰」
「たぶんきみと同じ高校の一年四組、出席番号三十一番、美倉永大。好きな地下アイドルはマリリンで、夜な夜なもぐらを――」
「ちょっと待って」
「なに?」
「後半の情報はどうでもいい」
止めなかったらずっと続けそうな勢いだった。面倒なやつと出会ってしまった。
やれやれ、というように彼は肩をすくめる。
「秋葉原界わいの住人たる者、地下アイドルに興味ないとは……。まあ、いいや。もう一度きくけど、きみは?」
「神田咲馬」
「一年?」
「まあ、そうだよ」
「だと思ったよ。制服着慣れていないし、先を見越してか若干大きそうだし。カバンが全体的にきれいなままだ」
「これで二年と答えていたらどうしたんだよ」
横柄な態度で、先輩に対してだったら失礼すぎる。
「一年だったんだから問題ないっしょ。ま、俺のことは好きに呼んでくれていいよ」
そう言うと、にやっと笑った。
完全にこいつのペースに飲まれていた。これ以上、話に突っ込んでいても仕方ない。
「じゃあ、美倉って呼ぶよ」
「なんだ、そのままかー。俺は咲馬って呼ばせてもらうから」
急速に距離感を縮められた気がする。思えば、友達らしい友達どころか、ひととこんなに話すこともなかった。ましてや、父さん以外に「咲馬」と呼ばれたこともない。
面倒なやつだとは思いながらも、不快な思いをしていないことは否定できない。声の温度に嫌味を感じないからだろうか。不思議なやつだ。
「ところで、その猫なんだけど」
「ああ、この子? いつもここでミルクをあげてるよ」
「それ、うちの子なんだ」
正確に言うなら、うちにほとんど居着いている子、だ。少し見栄を張った。
「あ、そうなのか。奇遇だな。野良にしては栄養状態もよさそうだし、汚れも少ないと思ってたんだ。普通の野良猫より警戒心も少ない。誰かに世話をされているみたいな印象を受ける」
「そこまで想像していながらなんでミルクを?」
「俺が飲んでいたらそこに現れたんだ、この子が。そしたらあげるしかないだろう? スキンシップもとれるし。いつのまにか習慣になってた」
案外いいやつなんじゃないかと思った。
「安心していい。この弁当箱はちゃんと洗ってあるから」
「いや、そんなこときいてないけど」
「この子の名前は?」
「ノラだよ」
「猫の名前までまんまかよ。ってか、ノラってことは野良猫ってことだろ?」
「いいんだよ。うちにしょっちゅう出入りしてるんだから」
――こんな感じで、僕たちの出会いのきっかけはノラだった。
高校はクラスが十組もあったため、美倉と同じ組になることはなかった。美倉との出会いがあっても、僕の学校生活はずっとひそやかなものだった。
学校外での生活では、家とプラモデル関係の店のほかに、美倉の家に行くこともあった。僕の家に来ることもある。わが家は裏手に両親の店があるから、美倉は僕の父さん母さんのことも知っている。美倉が来るたびになにかしら花をあげていた。
美倉の父親は公務員の仕事に追われているようで面識はない。母親は専業主婦をしていて、いつもあたたかく迎え入れてくれた。お姉さんは短大を卒業後、働きに出ているようで、ほとんど会う機会がない。会ってもあいさつを交わす程度だった。
美倉は僕の両親から受け取った花を母親やお姉さんにあげているらしく、二人からお礼を言われたことがある。
高校卒業後、これといった進路の希望がなかった僕は四年制大学の商学部に入り、公務員にはならないと宣言した美倉は製菓の専門学校に進んだ。
――咲馬が手先が器用なら、俺だって器用なはずだ。俺は食の分野で芸術性を高めに行く。
こんなよくわからない理由で製菓学校に進んだらしい。分野が違いすぎて張り合いにもならない。
しかし、意外にも美倉の才能は開花したようで、実力は自他ともに認めるレベルだという。
僕が水兎に初めて出会った日、水兎に届けてほしいと渡してきた焼き菓子も、自分で作ったものだと言っていた。あの日、姉の誕生会があるからと勤務後すぐに帰っていったけど、ケーキを作るために早く帰ったのだそうだ。
僕らが進学した翌年の冬、僕の日常にあった風景が変わってしまった。二年制の製菓学校に通っていた美倉にとっては卒業の年に当たる。
そして僕らにとって、最後の十代だった。
いつも通り学校に行こうとしていた朝だった。ノラがガリガリとドアで爪を研ぐ音で起こされた。
着替えを済ませて一階に下りる。ふだんならばあちゃんがとっくに起きている時間だ。朝の早い両親はすでに店のほうに出ていた。
僕は念のためばあちゃんの部屋へ行くことにした。
「ばあちゃん」
部屋の外から声をかける。返事はない。もう一度、少し大きめの声をかけてみた。やっぱり反応はない。
ふすまを開ける。ばあちゃんは布団で横になったままだった。
――なんだ、まだ寝ていたのか。
僕は安心してふすまを閉めようとしたとき、朝食を求めてやってきたノラが、すっとばあちゃんの部屋に入り、駆けていった。
「あ、こら」
僕の声で制止することなく、ノラはそのまま布団に近づいていく。
なにかを加えていることに気づいた。
ノラはばあちゃんの顔の脇にそれを置く。おまもりだ。「鳥越神社」の文字が見える。
そして、ノラはばあちゃんの顔を舐めた。でも、ばあちゃんはぴくりとも動かない。
不自然さに気づいた僕は、掛け布団越しにばあちゃんの体をゆすった。なにも変動がない。
おかしいと思い、頬に触れてみる。
――冷たい。
僕は急いで父さんたちのもとへ向かう。部屋でばあちゃんのことを確認した父さんは救急車を呼んだ。母さんは口をつぐんでいた。
病院に運ばれたばあちゃんの死因は「心不全」と診断された。享年九十四。大往生だったと言えるだろう。
眠るように旅立ったとは、ばあちゃんのためにある言葉のようだ。
――苦しまないで逝けたならよかった。
父さんは病院で言った。
周囲の存在のすべては当たり前に存在していくものだと思っていた。こんなにあっさりといなくなってしまうなんて考えてもいなかった。
それが「死」というものだと知る。
命を粗末にしてはいけないと何度も言っていたばあちゃんの命を粗末にはしたくはない。でも、そんなことが僕にできるだろうか。
気が動転しているなか、ふと美倉の顔が浮かんだ。
うまく回転しない思考のまま、一通メールを送る。
『ばあちゃんが旅立った』
父さんたちは慌ただしく葬儀の段取りを業者と打ち合わせていた。
翌朝、美倉がわが家にとつぜんやってきた。荷物をたくさん持って。
「葬式まんじゅう作ってきた。きっと必要になるだろ。甘いものは体にしみるはずだ。咲馬も食べておけ」
玄関に大量のまんじゅうを置いた美倉は、それ以上のことを言わずに去っていった。
「父さん、母さん、美倉が持ってきてくれたよ」
僕はそう伝えて、まんじゅうを渡す。
ありがたいね。母さんは静かにつぶやいた。
僕はその一つを手に取り、自室に戻る。
ベッドの端に腰かけ、手のなかのまんじゅうを見つめた。そういえば、昨日からなにも食べていなかったなと気づく。
ひと口頬張った。ほんのりとした甘みがほろりと口に広がる。
美倉の言うように体にしみた。
――やたら、しみるよ。
この味をばあちゃんにも食べさせてあげたかったな、と思った。
ノラが持ってきたおまもりをポケットから取り出し、握りしめる。
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颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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