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失われた契約者
第2話:王の剣と約束
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夜が浅い。
契約の熱がまだ肌に残り、胸の奥で火がゆっくり脈を打つ。
アレスは王の間の片隅に置かれた台座へ歩み、そこに横たわる一本の剣を見つめた。
父王の剣――フレア家の王剣。
今は主を失い、沈黙している。
「……父上」
柄の金糸が指に馴染む。
幼い頃、何度も握らせてもらった。
重さに腕を震わせるたび、父は笑って言った。
> 『剣は、持てるだけを振るえばいい。
> 足りないぶんは、心で補え。』
心で補う。
あのときは意味がわからなかった。
だが今、胸の中に灯った火がゆっくりと剣へ流れ込むのを感じる。
刃が微かに赤く呼吸した。
「おまえの火は、その鉄とよく馴染む」
背から、低い声。
振り向けば、炎の揺らぎが人の形をとり、王座の陰に立っている。
イフリート。
「……剣は器、火は中身、か」
「似て非なるものだ。器は形、火は意思。形に囚われれば、意思はやがて形を壊す」
難しい言い回しだ。
だが、直感は告げていた。
――剣を振るうのは腕ではなく、心。
火はその心に従う。
「父上は言った。『火を恐れよ。しかし、火の前で背を向けるな』と」
「賢い言葉だ」
イフリートの金の瞳が細くなる。
「おまえは恐れを知っているか?」
「……知っている。負けることが、ではない。“守れないこと”が、いちばん怖い」
静かな間。
炎がわずかにやわらぐ。
「ならば忘れるな、王子。恐れは刃を鈍らせるが、恐れを認めた者の刃は折れぬ」
その瞬間、王の間の扉が叩かれた。
控えめで、急を告げる音。
「アレス――陛下、よろしいですか」
扉の向こうから女の声。
書庫で見かけた、兵の手を握り祈っていた少女――セリアだ。
幼い頃から城で書を読むのが好きで、いつの間にか王城の記録仕事を手伝うようになっていた。
「入れ」
セリアが駆け込む。
灰に汚れた頬、震える息。
それでも瞳は澄んでいた。
「城門の補修が終わらず、避難の列が伸びています。西の広場へ誘導を――兵は足りません」
「俺が行く」
「ひとりでは」
「ひとりではない」
アレスは剣を上げる。
「火がある」
セリアは一瞬だけアレスの背後――イフリートの気配を見透かすように視線を動かし、すぐに頷いた。
「……わかりました。ですが、その火は人に向けないで」
短い言葉に、胸が揺れた。
イフリートが、横目でセリアを見る。
「おまえは火を恐れぬのか」
「恐れています。でも、灯りなら必要です」
「灯り?」
「道が見えないから、人は転ぶのです」
セリアの声は静かで、芯があった。
アレスは気づく。
彼女は“王に”ではなく、“アレスに”話している。
――俺を、王ではなく、人として見ている。
「行こう」
アレスは歩き出す。
イフリートの炎が追い、セリアが並ぶ。
王の間を出ると、冷たい夜気が頬を打った。
階段を駆け下り、崩れた回廊を抜ける。
城門脇の広場には、わずかな焚き火と怯えた人々。
泣き止まない幼子。
荷車に縛りつけられた家財。
誰もが、次の瞬間の暗闇を怖がっていた。
アレスは剣を地に突き立て、静かに目を閉じる。
胸の火へ、言葉を落とす。
――俺は、守るために燃やす。
火が応え、刃を伝って灯が立ち上がる。
赤ではなく、橙。
焦がさず、照らす火。
広場にざわめきが起きる。
人々の顔が炎に照らされ、影が揺らぐ。
幼子の泣き声が少し弱くなる。
「火を回せ。壁沿いに等間隔で――影を切るんだ」
アレスの声に、兵と民が動いた。
セリアは手早く布と油を配り、壊れかけの燭台に小さな火をつけて回る。
「ありがとう、陛下……ありがとう」
誰かの震え声が響いた。
アレスは頷くだけで返す。
そのとき――
城壁の向こうで、金属が激しく鳴った。
警鐘。
敵影。
「北門だ!」
兵が叫ぶ。
逃げ惑う人の波が、また恐怖に揺れ始める。
イフリートが問う。
「行くか、王子」
「行く」
アレスは剣を引き抜いた。
火が刃に沿って細く伸びる。
だが走り出す前に、彼は一度だけ振り返る。
セリアが、まっすぐこちらを見ていた。
その視線は、火を恐れながらも期待を込めている。
アレスは頷いた。
言葉はいらない。
胸に、父の声が蘇る。
> 『アレス。
> 剣を振るう前に、守る者の顔を思い出せ。
> それが、おまえの刃を真っ直ぐにする』
守る者の顔――今、目の前にある。
泣いている子、肩を抱く母、震える老人、そしてセリア。
アレスは走った。
石段を踏み、通路を抜け、北門へ。
視界に、裂けた空と黒い旗が躍り込む。
レノードの先兵。
木戸を叩き、火矢を放つ。
「下がれ!」
門上の兵をかばい、アレスは剣を一閃。
刃から奔った火線が、飛来した矢を空中で焼き消す。
残光が宙に描いた弧が、夜の天井に溶けた。
「陛下――!」
兵のどよめき。
アレスは手短に命じる。
「水樽を前へ。火は俺が抑える。門の蝶番を押さえろ、外から支点を切らせるな!」
イフリートの影が重なる。
「心は、まだ静かだな」
「怖いよ」
正直に言葉がこぼれた。
「けど、怖いって言えるうちは大丈夫だ。父上も、そう言った」
「良い父だった」
「……ああ」
敵が梯子をかける。
アレスは階段を駆け上がり、木製の梯子の根元を炎でなめるように焼く。
火は木を選んで食う。
兵へは触れない。
狙い澄ました橙の舌が、夜風に揺れた。
梯子が崩れ、敵兵が落ちていく。
悲鳴が途切れ、北門に短い静寂が訪れる。
アレスは大きく息を吐いた。
胸の火は、まだ穏やかだ。
燃やすためではなく、照らすために――。
城内から、駆け足の音。
セリアが現れ、額の汗を袖で拭いながら言う。
「避難列、北へ通しました。……持ちこたえていますね」
「ああ。火は、まだ灯りだ」
「その灯を、明日へ残しましょう」
セリアの笑みは短く、しかし確かだった。
アレスはうなずき、王剣を握り直す。
刃に薄い橙が宿る。
心が答えた証だ。
「父上」
誰にも聞こえない声で呟く。
「俺は、約束を守る。この火で、守る」
イフリートが、わずかに目を細めた。
「王子。その言葉を、古き言葉で残しておけ」
「古き言葉?」
「書は燃えるが、契りは燃えない。“契り”は、胸の内側に刻むものだ」
「なら、刻む。何度でも」
夜風が、灰の匂いを運ぶ。
遠くで、鐘が一度だけ鳴った。
火は刃に沿って呼吸し、王都の闇に細い道を描いていく。
その道の先に、何が待つのか。
アレスはまだ知らない。
だが、背に乗る熱は確かだ。
――俺は、守る。
彼は再び北門へ身を投じた。
火は、まだ灯りの形をしていた。
――火は、まだ終わらない。
契約の熱がまだ肌に残り、胸の奥で火がゆっくり脈を打つ。
アレスは王の間の片隅に置かれた台座へ歩み、そこに横たわる一本の剣を見つめた。
父王の剣――フレア家の王剣。
今は主を失い、沈黙している。
「……父上」
柄の金糸が指に馴染む。
幼い頃、何度も握らせてもらった。
重さに腕を震わせるたび、父は笑って言った。
> 『剣は、持てるだけを振るえばいい。
> 足りないぶんは、心で補え。』
心で補う。
あのときは意味がわからなかった。
だが今、胸の中に灯った火がゆっくりと剣へ流れ込むのを感じる。
刃が微かに赤く呼吸した。
「おまえの火は、その鉄とよく馴染む」
背から、低い声。
振り向けば、炎の揺らぎが人の形をとり、王座の陰に立っている。
イフリート。
「……剣は器、火は中身、か」
「似て非なるものだ。器は形、火は意思。形に囚われれば、意思はやがて形を壊す」
難しい言い回しだ。
だが、直感は告げていた。
――剣を振るうのは腕ではなく、心。
火はその心に従う。
「父上は言った。『火を恐れよ。しかし、火の前で背を向けるな』と」
「賢い言葉だ」
イフリートの金の瞳が細くなる。
「おまえは恐れを知っているか?」
「……知っている。負けることが、ではない。“守れないこと”が、いちばん怖い」
静かな間。
炎がわずかにやわらぐ。
「ならば忘れるな、王子。恐れは刃を鈍らせるが、恐れを認めた者の刃は折れぬ」
その瞬間、王の間の扉が叩かれた。
控えめで、急を告げる音。
「アレス――陛下、よろしいですか」
扉の向こうから女の声。
書庫で見かけた、兵の手を握り祈っていた少女――セリアだ。
幼い頃から城で書を読むのが好きで、いつの間にか王城の記録仕事を手伝うようになっていた。
「入れ」
セリアが駆け込む。
灰に汚れた頬、震える息。
それでも瞳は澄んでいた。
「城門の補修が終わらず、避難の列が伸びています。西の広場へ誘導を――兵は足りません」
「俺が行く」
「ひとりでは」
「ひとりではない」
アレスは剣を上げる。
「火がある」
セリアは一瞬だけアレスの背後――イフリートの気配を見透かすように視線を動かし、すぐに頷いた。
「……わかりました。ですが、その火は人に向けないで」
短い言葉に、胸が揺れた。
イフリートが、横目でセリアを見る。
「おまえは火を恐れぬのか」
「恐れています。でも、灯りなら必要です」
「灯り?」
「道が見えないから、人は転ぶのです」
セリアの声は静かで、芯があった。
アレスは気づく。
彼女は“王に”ではなく、“アレスに”話している。
――俺を、王ではなく、人として見ている。
「行こう」
アレスは歩き出す。
イフリートの炎が追い、セリアが並ぶ。
王の間を出ると、冷たい夜気が頬を打った。
階段を駆け下り、崩れた回廊を抜ける。
城門脇の広場には、わずかな焚き火と怯えた人々。
泣き止まない幼子。
荷車に縛りつけられた家財。
誰もが、次の瞬間の暗闇を怖がっていた。
アレスは剣を地に突き立て、静かに目を閉じる。
胸の火へ、言葉を落とす。
――俺は、守るために燃やす。
火が応え、刃を伝って灯が立ち上がる。
赤ではなく、橙。
焦がさず、照らす火。
広場にざわめきが起きる。
人々の顔が炎に照らされ、影が揺らぐ。
幼子の泣き声が少し弱くなる。
「火を回せ。壁沿いに等間隔で――影を切るんだ」
アレスの声に、兵と民が動いた。
セリアは手早く布と油を配り、壊れかけの燭台に小さな火をつけて回る。
「ありがとう、陛下……ありがとう」
誰かの震え声が響いた。
アレスは頷くだけで返す。
そのとき――
城壁の向こうで、金属が激しく鳴った。
警鐘。
敵影。
「北門だ!」
兵が叫ぶ。
逃げ惑う人の波が、また恐怖に揺れ始める。
イフリートが問う。
「行くか、王子」
「行く」
アレスは剣を引き抜いた。
火が刃に沿って細く伸びる。
だが走り出す前に、彼は一度だけ振り返る。
セリアが、まっすぐこちらを見ていた。
その視線は、火を恐れながらも期待を込めている。
アレスは頷いた。
言葉はいらない。
胸に、父の声が蘇る。
> 『アレス。
> 剣を振るう前に、守る者の顔を思い出せ。
> それが、おまえの刃を真っ直ぐにする』
守る者の顔――今、目の前にある。
泣いている子、肩を抱く母、震える老人、そしてセリア。
アレスは走った。
石段を踏み、通路を抜け、北門へ。
視界に、裂けた空と黒い旗が躍り込む。
レノードの先兵。
木戸を叩き、火矢を放つ。
「下がれ!」
門上の兵をかばい、アレスは剣を一閃。
刃から奔った火線が、飛来した矢を空中で焼き消す。
残光が宙に描いた弧が、夜の天井に溶けた。
「陛下――!」
兵のどよめき。
アレスは手短に命じる。
「水樽を前へ。火は俺が抑える。門の蝶番を押さえろ、外から支点を切らせるな!」
イフリートの影が重なる。
「心は、まだ静かだな」
「怖いよ」
正直に言葉がこぼれた。
「けど、怖いって言えるうちは大丈夫だ。父上も、そう言った」
「良い父だった」
「……ああ」
敵が梯子をかける。
アレスは階段を駆け上がり、木製の梯子の根元を炎でなめるように焼く。
火は木を選んで食う。
兵へは触れない。
狙い澄ました橙の舌が、夜風に揺れた。
梯子が崩れ、敵兵が落ちていく。
悲鳴が途切れ、北門に短い静寂が訪れる。
アレスは大きく息を吐いた。
胸の火は、まだ穏やかだ。
燃やすためではなく、照らすために――。
城内から、駆け足の音。
セリアが現れ、額の汗を袖で拭いながら言う。
「避難列、北へ通しました。……持ちこたえていますね」
「ああ。火は、まだ灯りだ」
「その灯を、明日へ残しましょう」
セリアの笑みは短く、しかし確かだった。
アレスはうなずき、王剣を握り直す。
刃に薄い橙が宿る。
心が答えた証だ。
「父上」
誰にも聞こえない声で呟く。
「俺は、約束を守る。この火で、守る」
イフリートが、わずかに目を細めた。
「王子。その言葉を、古き言葉で残しておけ」
「古き言葉?」
「書は燃えるが、契りは燃えない。“契り”は、胸の内側に刻むものだ」
「なら、刻む。何度でも」
夜風が、灰の匂いを運ぶ。
遠くで、鐘が一度だけ鳴った。
火は刃に沿って呼吸し、王都の闇に細い道を描いていく。
その道の先に、何が待つのか。
アレスはまだ知らない。
だが、背に乗る熱は確かだ。
――俺は、守る。
彼は再び北門へ身を投じた。
火は、まだ灯りの形をしていた。
――火は、まだ終わらない。
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