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菖蒲華(あやめはなさく)
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地下植物園にアヤメのような花があった。いや、それはカキツバタだったかもしれない。いずれにせよ「ような」という言葉をつけるくらいには、チカの花に対する知識は乏しかった。
問題は、その花がアヤメかカキツバタかということではなく――。
「どっ……」
大急ぎで部屋に舞い戻ったチカは、静かに読書をしていたアマネを視界に入れるや、それだけ言う。当然、アマネは「なにがなんだかわからない」といった顔で本から視線を上げ、怪訝な目でチカを見る。
肩で大きく呼吸を繰り返しながら、息も絶え絶えにチカは続きの言葉を口にする。
「ドッペルゲンガーが、出た……」
アヤメかカキツバタか知れないが、美しい花に興味を持って近づいたチカを待っていたのは、想定外の出来事。しかし“城”では悲しいかな、チカの想定の上を軽々と飛び越えて行くような事象は枚挙にいとまがない。
当然、チカのドッペルゲンガー――寸分たがわず瓜二つのニセモノが現れたとしても、“城”の不可思議な魔力に慣れ切った人間からすれば、そうおどろくべきことでもないのであった。
大慌てのチカに対して、アマネは至極冷静に――しかしため息をついて本を閉じた。
「植物園に行ったのか?」
「そ、そう」
「……おおかた、去年の球根が残っていたんだろうな。全部掘り起こしたと思っていたが」
どうやらアマネがこの不可思議な出来事の事情に精通しているらしいとわかって、チカはちょっと落ち着いた。
それでも全速力で部屋まで走ってきたので心臓の鼓動は未だ騒がしい。おまけに自分のドッペルゲンガーが今も“城”を徘徊しているとあっては、イヤなドキドキは止まらない。
「そのままにしてここまで来たのか?」
「そのままっていうか……捕まえようとする前に向こうが逃げた」
アマネがめんどうくさそうな顔をして、大きなため息をつく。読書をしているあいだは消えていた眉間のしわが復活している。チカは申し訳なく、うしろめたい気持ちになった。
「あれは……なに?」
「……ドッペルゲンガーというよりは、ニセモノ。実体がある。アヤメかカキツバタかは知らねえが、それに近づくとなぜか出てくる」
チカはアマネにわざわざ問うまでもなく、それが“捨品”絡みの厄介ごとであることを悟った。
先ほど、「去年の球根がどうの」とアマネが言っていたところからして、チカの記憶が吹き飛ぶ前にあれこれとあった出来事なのだろう。
そしてその球根は掘り出したものの、取りこぼしがあったために今年また花を咲かせた。そこにチカが不用意に接近してしまい――チカのドッペルゲンガー……否、ニセモノが現れた、というあらましのようである。
「悪いことはしねえと思うが、まあ、捕まえねえとな」
アマネが至極めんどくさそうな声を出しながら、腰を上げた。
「おい、行くぞ」
ランタンを手にしたアマネが、ぶっきらぼうな口調でチカに声をかける。部屋を出て行こうとするアマネの背を、チカはあわてて追った。
「他のみんなには言わなくて――」
「すぐ捕まえられるだろ。それに……お前と一緒にいないとややこしい」
「そっか。ニセモノは私そっくりだもんね」
「それに、ふたりがかりのほうが楽だ」
「うん」
アマネは愛想はないが頼りにはなる。チカが困っていれば助けようとしてくれる。これで人当たりがよければ文句はないのだが……と思ってしまうのは、少し欲張りすぎだろうかとチカは思ってしまう。
しかしアマネの仏頂面に慣れた今となっては、ニコニコ笑顔の彼が想像しづらい。否、不気味ですらある。
結局「今のままでいい」という結論に落ち着いてしまうあたり、ひとの心とはなんとも身勝手なものだ。
「捕まえたあとはどうするの?」
「ショウブ湯に浸ける」
「え?」
「ショウブの葉を入れた湯にぶち込むと消えるんだよ。……先に言っておくが、なんでかは知らねえ」
チカが不思議そうな顔をしたからだろう、アマネは丁寧にショウブ湯の説明までしてくれた。さすがのチカもショウブ湯がなにかくらいはわかっていたが、思わず聞き返すような声を出してしまったのは無理からぬことだろう。
「……それで消えるんだ」
「ああ。だからニセモノと本物の見分けはすぐにつく」
「へえ~……」
チカは「へえ」としか言いようがなかった。相変わらず、“城”の中で起こる不可思議な出来事に論理は不要とばかりの意味不明さであった。
「……それでニセモノが消えるんだったら、私も消えそう」
チカのその言葉には、さほど他意はなかった。間違っても本気ではなかったし、半ば冗談で口にした言葉だった。
チカは、記憶がない。これまで築いてきただろう六人との記憶は、綺麗さっぱり忘れてしまっている。そんな己は、六人の知る「チカ」ではないだろうという思いを、ずっとどこかで抱いていた。
それがぽろっと口から出てしまった。それだけの話だった。
だが、チカの言葉はアマネの足を止めるにはじゅうぶんだった。
「は?」
急にアマネからすごむような声を発されて、チカは少々びっくりした。
アマネがじっとこちらを見ているのがわかる。痛いほどの視線を感じる。目はかすかに見開かれて、その瞳の奥に激情の炎が見えた気がした。
「……くだらねえこと言ってんじゃねえよ」
「……いや……うん、まあ、そうだけど」
チカは一瞬だけ反論するかどうか迷ったが、結局アマネを怒らせたくなくてなんとなくで同意する。
しかしそんなチカの心の動きは、アマネにはお見通しのようだった。
「別に、記憶がねえお前をニセモノだなんて思ったことはない……。……他の連中もそうだろ」
チカは、アマネなりにこちらを気遣って、励ましてくれているのだと解釈することにした。
相変わらずぶっきらぼうな口調だが、言っている言葉からはこちらを慮っていることがわかる。
それにしたって目つきや表情が怖いので、アマネはどこまでも不器用だなあと思わざるを得ないが。
「アマネは……前の私に戻ってきて欲しくはないの」
「前も後もあるかよ。お前はお前だ。くだらねえこと考えてる暇があったらニセモノを捜せ」
アマネのその肯定は、甘くもあり、苦くもあった。
今の、ありのままの己を肯定されてうれしいと思う反面、どうしたって記憶を失う前と後とではきっと違う人間だろうとチカは思ってしまうのだ。
――……記憶が戻れば全部解決するのかな。
チカはそう思いつつ、再び歩みを進め始めたアマネの背を追った。
問題は、その花がアヤメかカキツバタかということではなく――。
「どっ……」
大急ぎで部屋に舞い戻ったチカは、静かに読書をしていたアマネを視界に入れるや、それだけ言う。当然、アマネは「なにがなんだかわからない」といった顔で本から視線を上げ、怪訝な目でチカを見る。
肩で大きく呼吸を繰り返しながら、息も絶え絶えにチカは続きの言葉を口にする。
「ドッペルゲンガーが、出た……」
アヤメかカキツバタか知れないが、美しい花に興味を持って近づいたチカを待っていたのは、想定外の出来事。しかし“城”では悲しいかな、チカの想定の上を軽々と飛び越えて行くような事象は枚挙にいとまがない。
当然、チカのドッペルゲンガー――寸分たがわず瓜二つのニセモノが現れたとしても、“城”の不可思議な魔力に慣れ切った人間からすれば、そうおどろくべきことでもないのであった。
大慌てのチカに対して、アマネは至極冷静に――しかしため息をついて本を閉じた。
「植物園に行ったのか?」
「そ、そう」
「……おおかた、去年の球根が残っていたんだろうな。全部掘り起こしたと思っていたが」
どうやらアマネがこの不可思議な出来事の事情に精通しているらしいとわかって、チカはちょっと落ち着いた。
それでも全速力で部屋まで走ってきたので心臓の鼓動は未だ騒がしい。おまけに自分のドッペルゲンガーが今も“城”を徘徊しているとあっては、イヤなドキドキは止まらない。
「そのままにしてここまで来たのか?」
「そのままっていうか……捕まえようとする前に向こうが逃げた」
アマネがめんどうくさそうな顔をして、大きなため息をつく。読書をしているあいだは消えていた眉間のしわが復活している。チカは申し訳なく、うしろめたい気持ちになった。
「あれは……なに?」
「……ドッペルゲンガーというよりは、ニセモノ。実体がある。アヤメかカキツバタかは知らねえが、それに近づくとなぜか出てくる」
チカはアマネにわざわざ問うまでもなく、それが“捨品”絡みの厄介ごとであることを悟った。
先ほど、「去年の球根がどうの」とアマネが言っていたところからして、チカの記憶が吹き飛ぶ前にあれこれとあった出来事なのだろう。
そしてその球根は掘り出したものの、取りこぼしがあったために今年また花を咲かせた。そこにチカが不用意に接近してしまい――チカのドッペルゲンガー……否、ニセモノが現れた、というあらましのようである。
「悪いことはしねえと思うが、まあ、捕まえねえとな」
アマネが至極めんどくさそうな声を出しながら、腰を上げた。
「おい、行くぞ」
ランタンを手にしたアマネが、ぶっきらぼうな口調でチカに声をかける。部屋を出て行こうとするアマネの背を、チカはあわてて追った。
「他のみんなには言わなくて――」
「すぐ捕まえられるだろ。それに……お前と一緒にいないとややこしい」
「そっか。ニセモノは私そっくりだもんね」
「それに、ふたりがかりのほうが楽だ」
「うん」
アマネは愛想はないが頼りにはなる。チカが困っていれば助けようとしてくれる。これで人当たりがよければ文句はないのだが……と思ってしまうのは、少し欲張りすぎだろうかとチカは思ってしまう。
しかしアマネの仏頂面に慣れた今となっては、ニコニコ笑顔の彼が想像しづらい。否、不気味ですらある。
結局「今のままでいい」という結論に落ち着いてしまうあたり、ひとの心とはなんとも身勝手なものだ。
「捕まえたあとはどうするの?」
「ショウブ湯に浸ける」
「え?」
「ショウブの葉を入れた湯にぶち込むと消えるんだよ。……先に言っておくが、なんでかは知らねえ」
チカが不思議そうな顔をしたからだろう、アマネは丁寧にショウブ湯の説明までしてくれた。さすがのチカもショウブ湯がなにかくらいはわかっていたが、思わず聞き返すような声を出してしまったのは無理からぬことだろう。
「……それで消えるんだ」
「ああ。だからニセモノと本物の見分けはすぐにつく」
「へえ~……」
チカは「へえ」としか言いようがなかった。相変わらず、“城”の中で起こる不可思議な出来事に論理は不要とばかりの意味不明さであった。
「……それでニセモノが消えるんだったら、私も消えそう」
チカのその言葉には、さほど他意はなかった。間違っても本気ではなかったし、半ば冗談で口にした言葉だった。
チカは、記憶がない。これまで築いてきただろう六人との記憶は、綺麗さっぱり忘れてしまっている。そんな己は、六人の知る「チカ」ではないだろうという思いを、ずっとどこかで抱いていた。
それがぽろっと口から出てしまった。それだけの話だった。
だが、チカの言葉はアマネの足を止めるにはじゅうぶんだった。
「は?」
急にアマネからすごむような声を発されて、チカは少々びっくりした。
アマネがじっとこちらを見ているのがわかる。痛いほどの視線を感じる。目はかすかに見開かれて、その瞳の奥に激情の炎が見えた気がした。
「……くだらねえこと言ってんじゃねえよ」
「……いや……うん、まあ、そうだけど」
チカは一瞬だけ反論するかどうか迷ったが、結局アマネを怒らせたくなくてなんとなくで同意する。
しかしそんなチカの心の動きは、アマネにはお見通しのようだった。
「別に、記憶がねえお前をニセモノだなんて思ったことはない……。……他の連中もそうだろ」
チカは、アマネなりにこちらを気遣って、励ましてくれているのだと解釈することにした。
相変わらずぶっきらぼうな口調だが、言っている言葉からはこちらを慮っていることがわかる。
それにしたって目つきや表情が怖いので、アマネはどこまでも不器用だなあと思わざるを得ないが。
「アマネは……前の私に戻ってきて欲しくはないの」
「前も後もあるかよ。お前はお前だ。くだらねえこと考えてる暇があったらニセモノを捜せ」
アマネのその肯定は、甘くもあり、苦くもあった。
今の、ありのままの己を肯定されてうれしいと思う反面、どうしたって記憶を失う前と後とではきっと違う人間だろうとチカは思ってしまうのだ。
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