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地始凍(ちはじめてこおる)
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順調に寒くなりつつある日々の夜。集中して小説を読んでいるうちに喉も乾いたし、少し体を動かしたくなったので、チカは台所まで下りることにした。
その前にしっかりと時計を確認する。午後一〇時五〇分を過ぎたところであった。午前〇時までは、まだいくらか余裕がある。
廊下に出れば足元にうっすらと冷たい空気が触れる。あと一ヶ月もすれば、本格的に冷え込んでくるだろう。
冷えた空気を吸い込むと思い出す。チカが記憶を失ったのも冬だった。ということは、そのうち記憶喪失になってから一年という歳月が過ぎることになる。
しかし未だ、チカがこのあいだの冬より以前の記憶を思い出すことはない。糸口もつかめず、気配すらない。
以前の己についてほとんど知らない以上、チカはそれがいいことなのか悪いことなのか判断ができない。
このまま忘れ去ったまま、またあの六人と月日を重ねて行くのだろうか。六人といられるのであれば――記憶のないチカでも問題ないのであれば、このままでもいいのかもしれない。
とは言え、やはり記憶を失う以前の己のことをチカは気にしていた。他のひと――主にマシロ――は以前と変わりがないと言うが、それは本当なのか。
「ハア……」
チカが息を吐いても、まだ空気は白くならない。
夜は色んなことを考え込んでしまっていけないなとチカは思った。だから、眠くなるまで小説の世界に逃避しているのだが、今読んでいるものは面白すぎて目が冴えてしまい、少々よろしくない。
小説以外の書物を読むべきだったか……とチカが考え事をしているうちに、台所へ到着する。
台所からは光が漏れていた。どうやら先客がいるようだ。
チカが顔を覗かせれば、目が合った。コーイチは、フタつきのジャグに水を汲んでいるところだった。
「なんだチカか」
そう言うコーイチの黒い髪は乱れている。やけに血色がよく、後頭部のあたりが若干くしゃっとしていた。
「水足りなくなったの?」
「あー……こぼしちまったから、汲みに下りてきたんだよ」
「そうなんだ」
コーイチが一瞬、歯切れ悪くなった。その理由をなんとなく察したチカは、彼女にしては珍しく、いたずら心が首をもたげて、そのままに口を開いた。
「お盛んだね」
チカが顔を出したときと同じように、コーイチの動きがまた止まった。しかしすぐに気を取り直したのか、水を汲み終えたジャグを台所のスペースに置く。ゴトン、と結構な音がして、中の水が揺れた。
「ついてる」
チカが己の首筋を指さすと、コーイチは直接確認できなくとも気になるのか、つられて自分の首筋を触った。そこには明らかな鬱血痕――キスマークがついている。
コーイチは一瞬、気まずげな顔をした。これがアオやユースケであれば、そんな表情は見られないだろう。アオはいつものようにヘラヘラとしていそうだし、ユースケも涼しい顔をしていそうだ。
そういう点で、コーイチの表情には、チカからすると意外性がある。
続けて、アマネだったらどういう顔をするだろうかとチカは考えてみたが、その想像は上手くできなかった。
「つけるなっつったのに」
コーイチにキスマークをつけたのはマシロだろう。というか、彼女以外に選択肢がない。まさか、アオがつけるとは思えなかった。
平素、無邪気な塊のようなマシロが、独占欲の証のようなキスマークをつけるのは、ちょっとチカの想像が及ばなかった。
けれどマシロだってひとりの人間である。独占欲だって持ち合わせているだろうし、それを恋人に向けることにはなんらの不思議もないのだろう。
むしろそういった欲と無縁そうに見えるマシロが、コーイチに欲望をぶつけていることをもって、どれだけ彼を愛しているかがうかがえようというものである。
「お前は?」
「喉乾いたついでに体動かしたくなって。ずっと小説読んでたから」
「なるほど」
コーイチはそう言ったあと、ジャグの取っ手に指をかける。
「お前も水こぼしたのかと思ったよ」
コーイチはにやりと笑って言った。意趣返しとしては、チカからすると強烈だ。きっとジャグをひっくり返したのはマシロだろうから。
チカが言葉に詰まったのを見て、コーイチは笑い出した。
「ははは。じゃあな、〇時までには部屋に戻れよー」
ジャグを手に台所を出て行くコーイチを見送る。
――寒くなってきたのに、お熱いことで。
チカはコーイチの背にそう語りかけたあと、「いや、寒いからこそかな」と思いながらホットミルクの準備を始めるのであった。
その前にしっかりと時計を確認する。午後一〇時五〇分を過ぎたところであった。午前〇時までは、まだいくらか余裕がある。
廊下に出れば足元にうっすらと冷たい空気が触れる。あと一ヶ月もすれば、本格的に冷え込んでくるだろう。
冷えた空気を吸い込むと思い出す。チカが記憶を失ったのも冬だった。ということは、そのうち記憶喪失になってから一年という歳月が過ぎることになる。
しかし未だ、チカがこのあいだの冬より以前の記憶を思い出すことはない。糸口もつかめず、気配すらない。
以前の己についてほとんど知らない以上、チカはそれがいいことなのか悪いことなのか判断ができない。
このまま忘れ去ったまま、またあの六人と月日を重ねて行くのだろうか。六人といられるのであれば――記憶のないチカでも問題ないのであれば、このままでもいいのかもしれない。
とは言え、やはり記憶を失う以前の己のことをチカは気にしていた。他のひと――主にマシロ――は以前と変わりがないと言うが、それは本当なのか。
「ハア……」
チカが息を吐いても、まだ空気は白くならない。
夜は色んなことを考え込んでしまっていけないなとチカは思った。だから、眠くなるまで小説の世界に逃避しているのだが、今読んでいるものは面白すぎて目が冴えてしまい、少々よろしくない。
小説以外の書物を読むべきだったか……とチカが考え事をしているうちに、台所へ到着する。
台所からは光が漏れていた。どうやら先客がいるようだ。
チカが顔を覗かせれば、目が合った。コーイチは、フタつきのジャグに水を汲んでいるところだった。
「なんだチカか」
そう言うコーイチの黒い髪は乱れている。やけに血色がよく、後頭部のあたりが若干くしゃっとしていた。
「水足りなくなったの?」
「あー……こぼしちまったから、汲みに下りてきたんだよ」
「そうなんだ」
コーイチが一瞬、歯切れ悪くなった。その理由をなんとなく察したチカは、彼女にしては珍しく、いたずら心が首をもたげて、そのままに口を開いた。
「お盛んだね」
チカが顔を出したときと同じように、コーイチの動きがまた止まった。しかしすぐに気を取り直したのか、水を汲み終えたジャグを台所のスペースに置く。ゴトン、と結構な音がして、中の水が揺れた。
「ついてる」
チカが己の首筋を指さすと、コーイチは直接確認できなくとも気になるのか、つられて自分の首筋を触った。そこには明らかな鬱血痕――キスマークがついている。
コーイチは一瞬、気まずげな顔をした。これがアオやユースケであれば、そんな表情は見られないだろう。アオはいつものようにヘラヘラとしていそうだし、ユースケも涼しい顔をしていそうだ。
そういう点で、コーイチの表情には、チカからすると意外性がある。
続けて、アマネだったらどういう顔をするだろうかとチカは考えてみたが、その想像は上手くできなかった。
「つけるなっつったのに」
コーイチにキスマークをつけたのはマシロだろう。というか、彼女以外に選択肢がない。まさか、アオがつけるとは思えなかった。
平素、無邪気な塊のようなマシロが、独占欲の証のようなキスマークをつけるのは、ちょっとチカの想像が及ばなかった。
けれどマシロだってひとりの人間である。独占欲だって持ち合わせているだろうし、それを恋人に向けることにはなんらの不思議もないのだろう。
むしろそういった欲と無縁そうに見えるマシロが、コーイチに欲望をぶつけていることをもって、どれだけ彼を愛しているかがうかがえようというものである。
「お前は?」
「喉乾いたついでに体動かしたくなって。ずっと小説読んでたから」
「なるほど」
コーイチはそう言ったあと、ジャグの取っ手に指をかける。
「お前も水こぼしたのかと思ったよ」
コーイチはにやりと笑って言った。意趣返しとしては、チカからすると強烈だ。きっとジャグをひっくり返したのはマシロだろうから。
チカが言葉に詰まったのを見て、コーイチは笑い出した。
「ははは。じゃあな、〇時までには部屋に戻れよー」
ジャグを手に台所を出て行くコーイチを見送る。
――寒くなってきたのに、お熱いことで。
チカはコーイチの背にそう語りかけたあと、「いや、寒いからこそかな」と思いながらホットミルクの準備を始めるのであった。
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