兄弟です。最低です。

やなぎ怜

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兄弟です。最低です。

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「あ……」

 兄の吐息のようなその声が聞こえるや、モモキは恥ずかしさと情けなさで泣き出してしまった。

 モモキの、まだ未成熟な小ぶりの陰茎の先からは、粘性のある白濁の液体が漏れ出た。

 それを見てモモキは兄の前で粗相をしてしまったと理解し、じわじわと涙が浮かんできた。

 七つ離れた異母兄のイチカのことをモモキは慕っており、昔は甘えん坊を発揮していたものの、あるていど歳を重ねてからは、この兄の前では格好をつけたいという自立心が芽生え始めていた。

 その矢先の出来事だった。

「ごめんね」「びっくりしちゃったねー」

 イチカがおどろいた顔をしていたのは一瞬のことで、すぐにいつも通りの優しい声音でモモキを慰めてくれる。

 幼いモモキは勃起も射精も精通も、知っているのは実感の伴わない言葉だけだった。

 その日、モモキは兄に触れられて、初めて射精した。

 陰茎が勃起したまま収まらず、不安に駆られて兄にこっそりと相談したモモキは、ただ兄の手が己の髪に触れただけで射精した。

 モモキもイチカも寝間着をしっかりと身に着けていたし、イチカの手つきもなんら卑猥な意図などなかった。

 イチカも、弟から勃起が収まらないなどとと相談されて少なからず動揺して、モモキの髪に触れたのだろう。

 それで、モモキは射精した。

 イチカはティッシュペーパーを数枚箱から引き抜いて、べそをかくモモキに手渡す。

 モモキは尊敬する兄の前で粗相をしてしまったという、ひどくみじめな心地の中で、今は力なく垂れる己の陰茎をぬぐった。

 そのときのモモキの中に、兄への劣情はなかっただろう。

 けれども兄に触れられて射精したという事実は、多少なりともモモキの現在のありように影響を与えているような気は、しないでもない。

「オミアイデート……?」

 モモキ、御年二一歳。

 舌足らずに口に出した言葉を、脳内で反芻すること数分。

 オウム返しをしたきり、寿命の近いパソコンみたいに固まってしまった次男を前に、父親はため息をついた。

「兄さんが……お見合い……?!」
「おどろくべきことでもないだろう。イチカももう二八歳だ。家庭を持っても――」

 モモキは、父親の言葉を話半分に聞き流した。

 モモキは父親をしり目にスマートフォンを取り出し、イチカの居場所を確認する。

 イチカが家の鍵につけているキーホルダーのマスコットは、かつてモモキが贈ったもので、それにはGPSトラッカーを仕込んであったから、モモキはいつだって兄の居所を知ることができた。

 イチカは山を背にした武家屋敷のような実家から離れた、繁華街を移動中であることが知れる。

 父親はモモキが話を聞いていないことに気づいて、またため息をついた。

「お前も、いつまでも兄の背を追ってばかりではいけない。次期当主としての自覚を――」

 父親から見るとイチカは前妻の子、モモキは後妻の子。ふたりは異母兄弟という間柄だ。

 兄弟の父親が愛していたのは前妻――つまり、イチカの実母であるのだが、複雑な事情があって次期当主として指名しているのは次男のモモキとなっている。

 モモキの実母である後妻が亡くなっていることもあって、遠慮するような相手がいないせいか、モモキは異母兄のイチカを……それはとても、よく、すごく、慕っている。

「――モモキ!」

 父親が一喝して、ようやくモモキは手元にあるスマートフォンから視線を上げた。

 けれども父親から叱られて、粛々と従うような可愛げはモモキにはない。

 先ほどまでずっとスマートフォンの画面を操作していたのだが、それが一段落したから渋々父親のほうを見たのだ。

 そしてにっこりと、外向きの笑顔を作る。

「あ、俺用事があるので、これから出かけます」
「イチカのところへ行くのか?」
「やだなあ。そんなこと、ひとことも言ってないじゃないですか」
「やめなさい」
「邪魔するわけないじゃないですか」
「モモキ!」

 モモキは時間の無駄とばかりに父親との会話を切り上げて、脱兎のごとく屋敷をあとにする。

 向かう先はひとつ。

 兄であるイチカの――お見合いデートの現場だ。


 モモキは、兄が結婚すると決めたのであれば否やはない。

 ただ、落ち込む。

 とても、かなり、すごく、落ち込む。

 モモキとて、いくら好いていようとも、兄とは結婚できないことくらい理解している。

 次期当主として、己もいつかどこぞの名家からご令嬢を娶らねばならないことも、子をなさねばならないことも、理解している。

 けれども頭では理解していても、心が追いつかない。

 つい先ほど、兄がお見合いデートをしていると聞かされたときもそうだし、兄が同性とラブホテルに行っていることを察したときだってそうだ。

 仕込んだトラッカーによって示される兄の位置情報を確認することが常習化したモモキは、そのうちにイチカが何度もラブホテルへ行っていることを知った。

 どうしても敬愛するイチカのお相手をひと目見たくなったモモキは、位置情報をもとに兄を尾行して、その相手が男性だということを知った。

 しかもイチカから、かつて「大学の友達」として紹介されたことのある男だった。

 モモキにとってはかなりショッキングな出来事で、それは自ら墓穴を掘って飛び込んだようなものであったが、しばらく落ち込んだ。

 けれども時と共に衝撃がやわらいでくると、モモキはイチカが同性の「友達」とラブホテルへ行っているという事実で、抜いた。

 モモキはそれまでも兄を自慰のオカズにして、何度も抜いていたが、その渇望は叶いやしないとハナからあきらめていた。

 けれどもイチカは、同性とラブホテルに何度も行っていた。

 その事実は、モモキに一線を越えさせるにはじゅうぶんすぎるほど、衝撃的なものだった。

「兄さんと、したい」

 二〇歳の誕生日を盛大に祝われたあと、自室に戻ればイチカが酒瓶を片手にやってきた。

 高い酒を台所からくすねてきたと冗談めかして笑ったイチカと共に、モモキは初めて酒を口にした。

 イチカもモモキも、いい気分で酔っ払った。

「もうこのあたりでお開きにしようか」

 モモキの手にあった、空になったグラスをイチカが回収する。

 モモキは、なにげないイチカの言動に、猛烈なさみしさを覚えた。

 そうして出てきたのが、「兄さんと、したい」というひとことだった。

「なにを?」

 イチカは困ったように笑って、そう問うてから「だいぶ酔っ払ってるみたいだね」とつけ加えた。

 イチカはモモキが言わんとしていることを理解しながら、知らないふりをしているのだった。

 モモキはふわふわと酩酊した脳みその、しかしまだ冷たく冴えた部分で打算する。

 それから、そっとイチカの服の裾を甘えるように軽く引っ張った。

「……俺、二〇歳だけど、まだ……童貞で。……兄さん、教えてよ」

 童貞というのは嘘だ。モモキは女を抱いたことがある。同級生ともしたし、歳上の「お姉さん」としたこともある。

 けれどもそれらはいずれも、イチカをオカズにして自慰をしたときより、気持ちのいいものではなかった。

「兄さん……」
「……モモキ、そういうのは好きなひととするものだよ」

 イチカは困ったように微笑んで、優等生的な答えを口にする。

 モモキは、そんな兄の唇を奪い、塞いだ。

 いつの間にかイチカの背を追い越し、体つきもがっしりとしたものへと成長していたモモキは、そのまま兄を抱きしめて、畳の上に押し倒した。

「――モモキ!」
「しー。兄さん、夜なんだから静かにしないと」
「今そういうこと言う状況じゃないんだけど……」

 モモキの体の下で、イチカが大きなため息をついた。

「兄さん、好き」

 モモキがそう言って、もう一度キスをすれば、イチカは幼子をあやすような手つきで弟の頭を撫でた。

 モモキの熱心さに観念したのかは定かではないものの、イチカはその後も抵抗らしい抵抗は見せなかった。

 酒が入ってはいたものの、モモキはその後こともよく覚えている。

 イチカに愛撫されて、すぐに勃起してしまったことも。

 柔らかいイチカの後孔を舐め回しながら、射精しかけたことも。

「――ん♡ あ♡ あぅ♡ いいこ♡ いいこ♡ パンパンできてえらいねえ♡」

 イチカはモモキへの当てつけなのか、そうやって行為の最中は幼子を相手にするような物言いを続けて、頭をよしよしと撫でることさえしたが、それはモモキを大いに興奮させるだけに終わった。

 その興奮ぶりたるやモモキも覚えのないもので、結局兄の中で二度果て、その後一度兄の手で抜いてもらった始末だ。

 それから、モモキはイチカと何度もセックスをしている。

 そんなイチカが、お見合いデート。

 しかもモモキにそんなことをひとことも言わず、匂わせもせず、出かけていった……。

 モモキはその事実に、どうしても暗い気持ちになってしまう。

 モモキがどんよりとした気持ちのまま、よどんだ視線を向ける先には、なごやかに会話をしている様子の兄と、お見合い相手。

 場所は近ごろオープンしたばかりらしい、こじゃれたカフェのテラス席。

 ここのところはずいぶんと空気も春めいてきて、外の席でも寒くはないが、モモキの心には寒風が吹きすさんでいた。

 兄のお相手は、意外にもモモキも顔だけは知っている人物だった。

 ――黒澤くろさわ佐月さつき。父親の会社を手伝っている……と言うとお嬢様が結婚するまでの腰掛けに思われがちだが、実際は一部門を任されるほどの辣腕家で、そもそも元々はある国際機関でバリバリ働いていたというのだから、そこからして軟弱なお嬢様とは違うことがわかる。

 黒澤佐月の顔をモモキが知っていたのは、社長である彼女の父親と、モモキの父親が会話している場で、流れで紹介されたからだ。

 ゆえに黒澤佐月とモモキは顔見知りといえる間柄ではあるものの、特別親しくした過去はない。

 ただ黒澤佐月の父親が経営している会社と、モモキの家には色々とつながりはあるから、モモキも彼女の来歴などは聞き及んでいたというわけである。

 モモキは、兄と談笑している黒澤佐月を見る。

 長く艶やかな黒髪を後ろに流した、切れ長の目の、いかにも隙のない美人――。

 兄は、こういった女性が好みなのだろうか?

 モモキはそう考えたところで、己が兄の好みの女性像を知らないことに気づいた。

 いや、好みの男性像だって知りはしない。

 それでもイチカが肉体関係を持っていた「友達」の顔は見たことがある。

 けれどもイチカが付き合っていた女性だとか、そもそも女性と恋仲になっているという話を聞いたことがないことに、モモキは気づいた。

 しかし――黒澤佐月は美人だ。高学歴、恐らく高収入、美人。三拍子揃っている。

 モモキは黒澤佐月の顔を見て、そのパーソナルな情報をいくらか思い出しても、彼女に惹かれる気持ちは湧かなかった。

 けれども、兄はどうだろうか?

 生きている人間なのだから、イチカにだって俗な部分はあるだろう。

 その極まりは実の弟――つまりモモキと、肉体関係を持っている点だ。

 モモキは黒澤佐月となにやら楽しげに会話を続けている兄を、店内の席からガラス越しに、食い入るように見つめる。

「――なに、お前ストーカー?」

 いかにも不満げな、咎めたてる声がモモキにかけられた。

 声がかかった方向を振り向けば、そこにはモモキよりひと回りは年上の男性が立っていた。

 艶やかな黒い髪に、切れ長の目の、いかにも隙のない美人――。

 今、兄と向かい合っている黒澤佐月にそっくりな印象の男を見て、モモキは黒澤佐月に双子の弟がいるという事実を思い出した。

「なるほどね。お兄ちゃんを追っかけて来たってわけ」

 モモキの向かい側の席へ移動してきた、黒澤佐月の弟である志月しづきは、そういって茶化すような語調で言う。

 モモキは思わずムッとして、「あんたも姉を追いかけてきたんだろ」と返す。

 志月はわずかに目を細めて、不機嫌な顔になる。

「佐月には『変な虫』がむらがって来やすいんだよ」
「兄さんは『変な虫』じゃない」

 モモキが志月をねめつけて憤慨すると、志月は「どうだか」と言う。

「少なくとも、『変な弟』はくっついてる」
「あんたもそうだろ!」
「大きな声出すなよ。……こんなのとは縁続きになりたくないねー」

 志月はモモキより干支ひと回りは歳上に見えたが、まったく「オトナ」という感じはしなかった。

 モモキの兄であるイチカのほうが、志月よりよほど「オトナ」に思える。

 これが兄という立場にある男と、弟という立場にある男の差なのかまでは、モモキにはわからなかった。

 わからなかったが、しかしひとつだけハッキリとわかることがある。

 モモキと志月の相性は、最悪だということだ。

 テラス席ではイチカと黒澤佐月がなごやかな談笑を続けている一方、モモキと志月のあいだには見えないブリザードが吹き込んでいるかのようだった。

「姉のお見合いを尾行してるオッサンと縁続きになるなんて、おれもイヤだね」
「お前も尾行して来たんだろ? なに、トラッカーでも仕込んでる?」

 モモキは志月が同族であると察した。

 モモキと志月が最初から険悪であるのは、互いに同族だと無意識のうちに察して抱いた、嫌悪感のせいでもあるのだろう。

「キモ……」

 兄にGPSトラッカーを仕込んだキーホルダーを贈ったという事実を棚に上げてモモキがそうつぶやけば、志月は鼻で笑う。

「事実かよ」
「キモい」
「……ま、お前みたいな弟がいるって知れただけでも収穫だな。弟も御せない兄貴に佐月はふさわしくない」
「ブーメラン刺さってるぞ」

 モモキが己を棚に上げているのと同様に、志月もまた自分を棚に上げてそんなことを言うのであった。

「ま、佐月はやさしーから? 穏便にお茶だけはしに来たって感じだろ」
「兄さんだって優しいし、少なくともあんたよりは『オトナ』だから」

 テラス席ではイチカと黒澤佐月が、変わらず談笑を続けている。

 そんなふたりを、モモキと志月は目を細めて見る。

 ほほえましいものや、眩しいものを見ての表情ではない。

 不愉快なものを見たときの顔だと、モモキも志月も、互いを横目で見やってわかった。

「……それで、あんたは姉のお見合いをぶっ壊しに来たってわけ?」
「そんなことするわけないだろ。っつーかそれこそお前がそうしに来たんじゃねえの?」
「そんなことするわけないだろ。じゃあなに、マジで見に来ただけ?」
「馬鹿。佐月は怒らせたら怖いんだよ」

 モモキは己を棚に上げて、「腑抜けだな」と思った。

 しかし同時に、志月の気持ちは痛いほど理解できてしまった。

 志月が姉に頭が上がらないように、モモキだって兄に対してはそうだ。

 次期当主として下にも置かない態度を取られることのほうが多いモモキが、唯一あからさまに媚びへつらうのは、兄であるイチカだけなのだ。

 そこにあるのは、愛情だ。

 愛しているから、嫌われたくない――。

 ……でも、その愛するひとが向ける愛の対象が自分ではなくて――別のひとで。その事実がとうてい受け入れられないものだったとき、どうすればいいのだろう。

 否定する? そんなことをすれば嫌われるに違いない。

 肯定する? そんなことすれば自分の心は壊れてしまうに違いない。

 モモキは一瞬、この命題について、似たような立場にある――と思われる――志月に問いかけようかと思った。

 けれどもそれより先に、テラス席にいたイチカと黒澤佐月が立ち上がる。

 前払い式のカフェだったので、ふたりはそのままテラス席に面して設けられた出入り口から、メインストリートへ出てしまった。

 モモキの向かいの席に座っていた志月も素早く腰を上げて、追いかける姿勢をとる。

 同じ行動を取るのは少しシャクだったが、モモキも志月に倣って席から立ち上がった。

 だが、メインストリートを出てしばらくしたところで、イチカと黒澤佐月は不逞の輩に絡まれてしまった。

 距離があるために会話は聞こえなかったものの、相手はいかにもチンピラといったわかりやすいファッションである。

 かもし出される空気も穏当とは言いがたい。

 モモキは、志月とほとんど同時に飛び出していた。


「ありがとう、志月と……モモキくん。――ところで志月はわたしになにか言うことがあるんじゃないか?」

 ガタイのいい成人男性が横からふたりも出てきたのを見て、チンピラは早々に己の不利を悟ったらしく、尻尾を巻いて逃げ出した。

 黒澤佐月は見た目から受ける印象そのままの、凛とした声で礼を告げる。

 モモキが黒澤佐月について記憶していたように、彼女もまたモモキのことは覚えていたらしい。

 だがその黒澤佐月の切れ長の目から発せられる鋭い視線は、彼女の弟の志月にぐさぐさと刺さっている最中だ。

「ごめんて! でも黙ってお見合いデート♡ とかする佐月が悪いんだよ~?!」

 志月の、甘えるような弾んだ声を聞いて、モモキは引いた。ドン引きした。

 志月はいつもはそうやって、姉である黒澤佐月の前ではかわいこぶっているのだろう。モモキは、そんな事情を察してしまった。

「黙っておかないと、お前が邪魔するだろう……」
「これまでだって一度も邪魔したことないよ! 偶然偶然!」

 反省の色が見えない弟を前に、黒澤佐月は深いため息をついた。

 そんな黒澤佐月に、イチカはいつも通りの穏やかな微笑を浮かべたまま提案する。

「弟さんも心配されているようですし、今日はここでお開きにしましょうか?」
「すいません……お言葉に甘えさせていただきます」
「いえいえ。姉思いのいい弟さんじゃないですか」

 イチカの言葉に、志月はなにか言いたげな顔になったが、結局モモキにしたような憎まれ口は叩かなかった。

 姉の前だったからかもしれない。

 モモキも、特別なにも咎めたてはしない兄を前にすれば、余計なことは言えなかった。


「……来ちゃったんだ?」
「来ちゃった……」

 黒澤姉弟きょうだいと別れ、山を背にした、武家屋敷然とした家へと帰る道のりの途上、ゆるやかな坂をのろのろと歩いて行く。

 しばらく押し黙ったままだったイチカは、やにわにそう悪戯っぽく問いかける。

 モモキは、そんな兄の語調にどこかで安堵しながら、問いかけを肯定する。

 イチカはいつも通りの微笑を浮かべたまま、また問いかける。

「……兄さんが結婚するのは嫌?」
「嫌っていうか、頭では理解していても心が追いつかないっていうか……」
「はは、兄さんもう二八歳なんだけど」
「お見合いするには、早くない?」
「そんなことないよ。アラサーなんだから結婚しているひとも多いし、なんだったら子供だっているひともいるし」
「兄さんって、結婚願望とかあったんだ」

 イチカは微笑んだまま、答えなかった。

 モモキは寒々しく、切ない気持ちになった。

 しかし、次にイチカが口を開いたとき、出てきたのはモモキが想像していたのとは、まったく逆の言葉だった。

「ないよ」
「え?」
「別に、私は当主になる予定もないから……それなら結婚しなくてもいいかなあって、思ってる」
「じゃあ、なんで今日お見合いしてたの……」
「どっちでもいいからって話だったからさ」
「え? なにが?」
「私とモモキ、お見合いの相手はどっちでもいいっていう話だったからさ、じゃあ私が行くよって父さんに言ったんだ」
「え?」
「佐月さんは嫁に出すでも婿を取るでも、どちらでもいいって方針みたいだよ。黒澤家あっちはさ」

 モモキは、「え」という言葉しか発せない、レトロでチープな機械にでも成り下がったかのような気分だった。

「はは、モモキ、さっきから『え』っておどろいてばかりだね」
「おどろくよ!」
「そんなに?」
「だって……兄さんが黙ってお見合いに行っちゃったって聞いて、おれ」
「――失望した?」

 いつの間にかモモキの歩みは止まっていた。

 イチカも、その隣で歩を止めている。

「黙ってたこと。――邪魔したこと」

 モモキは、イチカの言葉に震えた。

 喜びが雷になって、全身を駆け巡ったかのような衝撃を受けた。

「――わ。いきなり抱きついたら兄さん、つぶれちゃうよ。お前の図体は大きいんだから……」
「ごめん兄さん。うれしくて、つい」
「そんなに?」
「おれ、結婚しても兄さんが大好きだよ」
「私が? お前が?」
「おれが結婚しても、兄さんが結婚しても……」
「はは、最低」

 イチカはそんな言葉とは裏腹に、うれしそうに笑って、モモキの頭をわしゃわしゃと撫でる。

 兄に頭を撫でられたモモキは、背筋をぞくぞくと震わせる。

 そこにあるのは嫌悪ではなく、明確な性欲だった。

「……今晩、兄さんの部屋行く」

 イチカを抱きしめたまま、その耳元で宣言すれば、兄はまた愉快そうな笑い声を上げるのだった。



 ***
 (兄はだいたい弟のやっていることは把握しているし、お見合いデート中は双方だいたい弟の話をしていました)
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