バケモノ王子とその先生

やなぎ怜

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 なんとなく、窓ガラス越しではなく、直接先生の顔を見たくて中庭へと赴いた。すぐに目に入ったのはそう広くないテラスで、そこにあった長イスに先生が無防備に寝そべっている。あまりに無防備だったので、俺は一瞬先生が倒れているのかと思ってヒヤリとした。

 足早に駆けつければ、先生は静かに寝息を立てていた。口元に手をかざすようにやって、その呼気を感じてほっと一息。心臓に悪い……。そう思いつつぐでっと長イスに身を横たえる先生を見下ろす。

「先生、こんなところで寝たら風邪を引くぞ……」

 その肩を軽くゆすってみるが、先生は起きる気配がない。これは屋敷からなにか掛け布でも持ってくるべきか。そう思って一時しのぎに俺はジャケットを脱いで先生の体にそっとかける。

 それを見届けたかのようにびゅうと強い風が下から吹き上げるようにして、俺たちのあいだを通る。ジャケットが風に飛ばされそうになって、あわてて手で押さえる。やはり起こした方がいいかもしれないと思った。

 風に吹かれて巻き上がった、俺の伸ばしっぱなしの髪が目に入る。根元まで真っ白の髪。パッと俺の後姿だけを見たら、老人と勘違いされるだろう。

 俺の髪はもともとはなんの変哲もない黒だった。根元までの綺麗な白髪になったのは、バケモノになった影響だ。仲間たちも残らず、いくら若くとも総白髪であったので、最初はおかしくて笑いあったものだ。

 ……そしてこの総白髪は戦場では目立った。俺の白髪を見て味方の兵士たちはヒソヒソと何事かを噂し合っていたようだった。「ようだった」と言うのは、そんな噂に耳を傾ける余裕がなかったからだ。

 昔は綺麗に整えていた髪は伸ばし放題で、毛先は肩を通り越している。それを後ろへ流してリボンで乱雑にくくっている。……はっきり言って、見られたもんじゃない頭だろう。

 最後に髪を切ったのは……出征前の断髪式のときだ。戦の前に髪を残して行くことには、この国では重要な意味を持つ。残して行った髪がとなって、人を家へと戻してくれる――。

 そんな古くからある慣習にならい、俺たちも髪を切った。……あの髪は、どこへ行ったのだろう? 先生は王宮内で保管すると言っていた。しかし、今となってはすべて捨てられていたとしても、別におどろきはしない。

 そう、先生。断髪式で俺たちの髪を手ずから切ってくれたのは先生だった。ひとりひとり、順番に、声をかけながらゆっくりと話し込んで……。そうして出征前の恐れや不安や緊張を、俺たちは髪といっしょに置いて行くことにしたのだ。

 先生の手が髪に触れたとき、俺はその感触に胸を高鳴らせた。

 そう、俺は先生に……敬慕以上の念を抱いていた。密かに仲間たちに揶揄されるていどには、俺はわかりやすく先生に好意を抱いていた。

 その紫水晶のような目で見つめられるのが好きだった。なにもかもを見通しそうな美しい瞳の前では、俺は王子ではなくただの子供だったから。そして先生は、そんな風に俺を扱ったから。

 触れれば折れてしまいそうな女性的なたおやかさと、凛として高潔な精神。集められた仲間たちを平等に慈しむその心は、俺にとってはまぶしく――そしてひどく美しく映ったのだった。

 きっかけなんて些細なもので、だれかを愛することに大仰な理由なんて必要ないのだと思い知った。気がつくと視線で先生を探して、こっそりと先生を見つめている時間が、俺にとってのささやかな幸福となった。

 先生に想いを伝えるのは憚られた。伝えて、断られることよりも、困らせることの方がなんだか嫌だった。先生とその教え子という関係に甘んじてさえいれば、俺は永遠に教え子として先生と繋がりを持てるんじゃないかと、そう思った。

「意気地なし」。エロディがそう言って笑った。「わたしなら言っちゃうな。だってもう帰ってこれるかわからないわけだし」――エロディはその言葉の通りに帰ってはこなかった。戦争を前にして急ぐように結婚したと言っていた。「戦争が終わって、き遅れになってたら、イヤだもの」。夫となった男は……どうなったのだろうか?

 俺にはわからないし、知りたくもなかった。そんな俺をまたエロディの声が「意気地なし」と言う。記憶を想起させているのか、単なる幻聴なのか、俺には判断がつかなかった。

 そう俺は、意気地なしだ。いくらだって先生に思いを告げる機会はあった。たとえば、そう、先生からお守りを渡されたときとか。俺はびっくりして、同時にうれしく思い……そしてそのお守りが指輪だったので、ちょっとの期待を抱いた。

 結論から言うと指輪であることに特に理由はなかったらしく、俺は内心で落胆した。

「お守りって、他人から渡されないと意味がないらしいね。私は知らなかったのだけれど」

 先生はたまにそういう当たり前のことを知らなかった。俺は先生がどこからきたのかは知らなかったが、その異国風の響きを持つ名前を聞いて、他国――それも、きっと遠いところ――からやってきたのだろうということを俺たちは噂し合った。

 先生からもらった指輪は、革紐に通してずっと持ち歩いていた。けれどもどこかで失くしてしまった。いつ、どこで失くしたのか、俺は思い出せないし、そもそも覚えていないのかもしれない。

 大切なものだった。もらったときは、あんなに大切にしようと決めていたのに……失くしたことを今思い出すなんて、おかしな話だった。

 先生のことを愛していた。先生と親しくしている男を見ると、嫉妬するていどに。けれどもそれらは血で洗われて……いつの間にか忘れ去っていた。

「先生」

 先生の名前を呼んだことはなかった。知ってはいるが、「先生」という呼び方のほうが口になじんでしまっている。それに……先生の名前を知っていたからといって、なんなのだろう。……俺がその名を口にできる機会なんて、どこにもないというのに。

「先生、起きてくれ。先生」

 先生の小さな体を強く揺さぶる。はたして、先生の体はこんなに小さかっただろうか? しばらく会っていなかったからなのかはわからないが、なんとなく、そのもとより小さな体が、さらに縮んでいるような気がした。

 それは単なる気のせいかも知れない。バケモノになると上背がひどく大きくなるから――それに慣れてしまった感覚で、先生を見ているからかも知れない。

 先生は「う、うぅん……」と悩ましげな吐息と共に、ゆっくりと長いまつげに縁取られたまぶたを開いた。そして、何度かゆっくりとまばたきをする。

 ひどく無防備なその仕草に、俺の胸は意外にも密かに高鳴った。隙のない先生の、見てはいけない一面を見てしまったかのような気になって……ひどくドキドキする。

 そういう感情はどこかでもう失くしてしまったかのような気になっていたから、俺自身のことだが、俺にとっては意外だった。

「先生」
「ああ……ジルか」
「なんでこんなところで寝ているんだ?」
「眠かったから」

 飾り気がなさすぎる先生の言葉に、俺はちょっと黙り込む。そりゃあ、寝ていたということは眠かったからそうしたんだろう。それは、わかっている。わかっているが、あまりにも昔から変わらない先生に、俺は一瞬、戦前へと時間を巻き戻されたかのような感覚に陥った。

「寝るなら屋敷で――いや、駄目か」

 そこまで言ったところで今、母屋の客室はメイド長たちが必死で掃除しているだろうことを思い出す。ああ、こんなことになるのなら自分の手で少しでも日々掃除をして怠ることをしてはいけなかった。

「屋敷の中はそんなに駄目か」
「……駄目だな」
「掃除は?」
「今、してもらっている。廊下と客室を」
「なら、もういっそ屋敷中を綺麗にしてもらおう」
「え?」

 先生はいいことを思いついたとでもいう風にかすかに表情を変えて、パンと両手を合わせた。
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