この三人交際にマニュアルは存在しない。

やなぎ怜

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 寒々しい空気を感じているのは、自分だけなのか。千世はそう問いたかったが、代わりの言葉を振り絞る。

「朔良さんは、土岐さんのこと」

 「好きじゃないんですか」――千世は、感じたままの、素直な言葉を口にした。

 こんなことは正面切って聞きたくはなかった。

 朔良からどんな反応が返ってくるか、恐ろしいからだ。

 けれども、同時に「今ここで聞かなければならない」とも思った。

 千世は朔良が好きだ。どこかへ行くこともできず、行き場のなかった自分を救ってくれたのは、他でもない朔良だからだ。

 その始まりが単なる業務であったことは、千世も理解している。

 しかしそれでなお、千世は朔良に惹かれて――彼と恋人同士になった。

 千世が四郎に惹かれていることは事実だったが、しかし朔良の気持ちをないがしろにしてまで、その淡い恋を成就させようという気には、なれなかった。

「君にはどう見えているのかな」

 朔良は、千世の質問には答えず、また質問で返す。

 千世がルームミラーを見ても、運転する朔良とは視線が合わなかった。

 それでも朔良がこちらを一瞬でも見るときがあるだろうと思って、千世はルームミラーを見つめた。

「わたしは……今の、朔良さんの気持ちが、知りたいです」

 千世は、自分のたどたどしい口調を煩わしく思いながら、しかし声帯を震わせ舌を動かし言葉を紡ぐ。

「わたしが、どう感じているか、とかじゃなくて。朔良さんの、気持ちが知りたい……」

 信号機のLEDが赤に切り替わる。朔良の運転する車は、それに合わせてゆっくりと停まる。

 ――ここの交差点の赤信号は長かったな。息苦しい空気から逃避するように、千世の脳裏にそんな言葉が浮かぶ。

 相手の気持ちを変えるのは、言葉か、行動か。両方のときもある。

 今の千世にはロクな行動はできない。車中という状況もさることながら、行動だけで意思を示すには、千世の経験値は圧倒的に足りなさすぎる。

 だから、千世は言葉を使うしかない。それだって、たどたどしくて、長くしゃべると疲れてしまうが、もっともわかりやすく朔良へ気持ちを伝えられるのはこれだという確信が、千世にはあった。

「ごめん」

 不意に朔良から謝罪の言葉がかかる。

 千世が目を丸くすれば、ルームミラー越しに、朔良と視線がぶつかった。

 朔良は垂れ目の双眸のすぐ上にある眉を下げて、バツが悪そうに千世を見ていた。

「八つ当たりだった」
「……え?」
「君が土岐さんに惹かれているのは、前々から感じていた。私はそれに――なんだか嫉妬していたみたいだ」

 朔良はそう言ってから、深いため息をついた。

「君の前では、格好をつけていたいんだけどね」
「朔良さんは、いつもかっこいいですよ?」
「そうだったらうれしいんだけど。でも、君を突き放すような言葉を口にしたのは、謝りたい。……ごめんね」

 千世は思わずかぶりを振る。

 朔良に謝ってほしくて、先の言葉を口にしたわけではなかったからだ。

 ただ、千世は朔良の本心が知りたかった。

 千世より「大人」である朔良の、隠されがちな本心にきちんと触れてみたいと思ったのだ。

「謝らなくていいです。朔良さんがそうしてしまったのは、わたしがいてしまったから、で……」
「……いや、君が土岐さんに惹かれていると知っていたのなら、早めに私の本音についてはきちんと話しておくべきだった」

 信号が赤から青に切り替わる。朔良がアクセルを踏んだので、また車は滑らかに動き出した。

「土岐さんは、特に君と『相性がいい』という結果が出ている。君と、土岐さんの仲が進展するのは、いいことなんだ」

 四郎と千世との仲については、特に朔良の上司である京橋が「期待」していることを、朔良は知っている。

 京橋の催促を千世の担当官である七瀬が上手いことかわしたり、せき止めたりしていることも。

 同じ課で働いているので、そういった事情は朔良には筒抜けだったが、七瀬の努力のお陰で、千世はそのことを知らない。

 朔良としては、もとより千世が四郎に惹かれていようがいなかろうが、そういった圧力抜きで四郎を見て、彼について考えて欲しいと思っている。

 つまり――朔良としては、千世と四郎の仲が深まることには、賛成だった。四郎をまだ深く知る以前はそうではなかったが、今は違う。

 けれど。

「……土岐さんに比べて、君にあげられるものの少なさに、私は怖気づいたんだ」

 朔良は四郎のように「太い」実家もなければ、腕っぷしでも彼には勝てない。

 それに千世が絡むと、特にふらふらと思考の狭間をさまよいがちだ。……表向きでは、千世に頼りにされたくて、そういう「大人」を演じてはいるが、朔良は自分のことを取るに足らない凡人だと思っている。

 せめて四郎のように鉄の精神でもそなわっていればよかったが、残念ながら朔良の心は人並みに傷つきやすいし、悩みを抱えることもある。

 でも、そんな弱い部分を千世には見せたくなかった。

「……もらうばかりは、イヤです」

 千世が痛いほど真摯にこちらを見ているのが、朔良にはわかった。

「わたしは、朔良さんから、もうたくさんもらってます。それに、わたしだって、朔良さんに色んなものをあげられるなら、あげたい。それで、朔良さんの中を、いっぱいにしたい――」

 ……わかっていた。

 千世は今は弱ってはいるものの、それでも芯の強さはある。

 千世の柔らかい部分から、ふと垣間見えるそのしなやかな強さ。そして、愚直なまでの優しさ。飾ったところのない、素直な言葉――。

 朔良は、千世のそんな懸命な姿に惹かれたのだ。

 千世のまっすぐすぎる言葉に、朔良は一瞬だけ息を詰めた。

 それから肩の力が抜けて、口元にだらしのない微笑が浮かぶのがわかった。

「……プロポーズかと思った」

 朔良は、己の胸の内にたちこめていた暗雲がにわかに晴れていくのがわかり、その目元は自然にゆるんだ。
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