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ウィルフがトレイシーに貰われてから二週間。そのあいだ、ウィルフが想像したようなことはなにもなかった。つまり、「夜のお相手」にはならなかったということなのだが、ウィルフは別の意味でトレイシーのお相手を務めることになる。そう、添い寝だ。
トレイシーは日を開けることなく毎日ウィルフを閨に呼び、その胸元に顔を寄せて丸くなって眠る。そのあいだに体への接触はあるが、それは他愛もない劣情とはほど遠いかわいらしいものであった。
それに加えてトレイシーは特に性のにおいを感じさせない、不思議な御仁であった。美しい造作は妖艶というよりは可憐で、征服欲よりも先に庇護欲をかき立てる面立ちである。こう言うからにはウィルフも例外ではなく、市井でつつましく暮らすトレイシーに対し好意を抱き始めていた。
とかく目が離せない。気がつけば視界の外に出ているなどざらで、また魔法使いにしてはどうにも警戒心が薄い。それでいて頼って来る人間に対しては優しいので、ウィルフはトレイシーのそういう部分につけ込む輩が現れないかとハラハラしっ放しである。
トレイシーは夜はウィルフに甘えて――恐らくそうだ――来るのだが、昼のあいだはそうではない。むしろウィルフをあまり近づけさせないようにしているふしすらある。
トレイシーは仕事をしているあいだはもっぱらひとりでいることを好み、そうしているときにウィルフになにか労働をさせるということもなく、自由にしていていいと言う。
これは逆に労働が染みついているウィルフにとっては苦痛だった。だからトレイシーに何度か嘆願した末に調剤した薬瓶の仕分けといった細々した仕事を与えられた。それでも暇なときはトレイシーの許しを得て邸の中庭で素振りに励んでいる。もはや剣闘奴隷として賭け闘技にかけられないであろうことはわかっていたが、身の置き所がないので慣れた鍛錬に逃げてしまっている、というのが実情である。
そうしてウィルフは叱責されることも折檻されることもない、穏やかな日々を送っていた。その事実にどこかむずがゆい気分を得ないわけではなかったが、しかしウィルフとて痛苦になれているとはいえ、それらを率先して味わいたいなどとは思わない。だから、なんとはなしに感じてしまう違和を払拭するために当たりを引いたのだと己に言い聞かせていた。
そんなことを己の心に言い聞かすのは、なにも待遇だけのせいではない。
トレイシーの美貌を前にすると、ときたまウィルフはなにか、胸の奥底から込み上げて来るものを感じてしまうのである。その正体がわからないウィルフではない。ウィルフはいい大人だ。少なくとも、トレイシーよりは年上である。だから、自身が感ずるものの正体にはとっくに気づいていた。
だが、それは認められるものではないと思っている。たとえ、トレイシーがウィルフのことを「性奴隷」と呼んだとしても。
明け方、ウィルフは胸元で動く気配に瞼を開けた。トレイシーがウィルフから離れ、寝台を後にする。厠だろうか。ウィルフはもう一度眠りにつこうと目を閉じる。
しかし、しばらくして戻って来たトレイシーの気配と、ウィルフの敏感な鼻が察知したにおいに、彼は思わず目を見開いた。
血のにおいがする。そのことにおどろいてウィルフは上半身を起こし、寝台に戻って来たトレイシーを凝視した。
「すまない。起こしてしまったか」
眠たげに目をとろけさせているトレイシーであったが、彼からは間違いなく血のにおいが漂って来る。それは彼が近づくごとに増し、ウィルフの神経をざわめかせた。
「いえ。それよりもトレイシー様、血のにおいが……」
「え?」
ウィルフの言葉に、トレイシーが珍しく目を丸くする。そうしてややあってから、これまた珍しいことに彼はウィルフから視線を外して目を伏せてしまった。
ウィルフはと言えば、そんなトレイシーの仕草になにか粗相をしてしまったのかとあわてる。折檻や叱責が怖いのではない。純粋に、ウィルフはトレイシーには嫌われたくないとまで思うようになっていたし、できるならば気分を害すような真似はしたくないと思っていた。
「あの、どこかお怪我を……?」
「いや、違う。これは……気にしなくていい……」
「しかし」
言い募るウィルフに、トレイシーはうつむいてしまう。その耳はほのかに赤い。だがウィルフの心に芽生えるのはやはりどこか痛いのかという疑念であった。
「どこか痛むのですか?」
「痛む、と言えば痛むが」
「やはり――」
「ううん、怪我じゃない。ただ……ただ、月のものが来ただけで」
予想だにしないトレイシーの言にウィルフは動きを止めた。それを見て、トレイシーは忙しなく目を泳がせ、またうつむいてしまった。
ウィルフはトレイシーの言葉を頭の中で反芻する。「月のもの」。トレイシーはそう言った。それは女性にあるもので――トレイシーは男で――魔法使いは女が多くて――。ウィルフの中でぐるぐると断片的な言葉が回る。それらはまとまりになることなく霧散してしまった。
「……トレイシー様は、女性、なのですか?」
違う、とすぐさまウィルフは結論を出してしまう。なぜなら毎日水浴びの手伝いをしているウィルフは、トレイシーの下半身に男のしるしがついていることを知っている。女であるのならばそれがついているのは不自然なことであった。しかし、トレイシーは「月のもの」が来たと言って、それは女にしか来ないはずのもので――。ウィルフの思考はまたしても袋小路に入ってしまう。
「違う。なんというか――わたしは、男で女で、それでどちらでもない」
「つまり、両方あると……?」
「……うん、そう」
その日のトレイシーは寝台の住人であった。月のものが重い性質らしく、ちょっと動くのも辛そうにしている。薬かなにかで散らせないのかと思えば、トレイシー本人から作ってみたことはあるがあまり効かないので止めてしまったと告げられた。
当然ながら玄関先には立てないので、代わりにウィルフがやり取りを買って出ることになる。この二週間でトレイシーの家に来た奴隷のことは市井の人々には知れ渡っていたので、訪れる者たちはトレイシーになにかあったのかと口々に心配していた。それに少々体調が悪いのだと返して、ウィルフは訪問者を捌いて行く。
「トレイシーはいないのかね?」
そんな折り、この狭苦しい路地裏の住宅群とは似つかわしくない装いの男がやって来た。
「はい。トレイシー様は体調が優れず……」
ウィルフはにこやかに応対するものの、内心では猜疑の目で男を見ていた。
男は痩身で縦にひょろりと細長い。見につけている貴金属からも上流階級の人間であることがわかる。それも貴族というよりは成金といった風情であった。見るからに仕立ての良さそうな服を着て、周囲にぞろぞろと供の人間を連れている。
「ふむ。ならばこれを渡しておいてくれたまえ」
そう言って男は手紙を差し出した。ウィルフはそれをうやうやしく受け取るが、なんとはなしに男の視線が気になってしまう。久々に感じる、侮蔑を含んだ視線だ。よく前の主人がこのような目でウィルフを見ていたから、彼にはわかったのである。
ただ、以前受けたものよりもずっと悪意に満ちた視線だ。なぜ、このような目をこの男がしているのかウィルフには心からわかることはなかったが、大方奴隷は汚らわしいものとでも思っているのだろうと深くは考えなかった。
男はそのまま大勢の供を連れて立ち去る。薬瓶を受け取るために集まった人々は、波が引くように遠巻きにしていたが、男が去るとウィルフの元に再び集まって来た。そのうちの恰幅の良い中年の女性がウィルフにこんなことを話し出す。
「今のはゴードン様だよ。まだトレイシー先生にちょっかいを出しているんだねえ。アンタ、大丈夫かい?」
「はあ……先ほどの方はゴードン様と言うのですのね」
「そうそう。トレイシー先生が嫌がってるのに言い寄ってるって」
「顔が綺麗だからって……ねえ。先生は迷惑してるだろうに」
女たちがかしましく口々に言いたてる言葉を聞きながら、ウィルフはおどろいていた。トレイシーに言い寄る人間がいる、ということを。なぜかウィルフはその可能性すら失念していたのだ。
考えればあの美貌である。男だろうと女だろうと言い寄る人間がいてもおかしくはない。だというのに、それを知らされたウィルフはもやもやとした消化しづらい感情を抱いた。
それは欲だった。自分が今トレイシーの一番近くにいるのだと言う、思い上がりもはなはだしい過信。それが揺らいだことで、ウィルフはなんとも言いがたい感情を抱くにいたったのである。
思い上がりもいいところだとすぐさま振り払おうとするが、胸の中の凝りは消えそうになかった。そのことでウィルフはこの短期間でここまでトレイシーに心を奪われていることを知る。あの、いじらしい主人がだれかに甘えることを考えるとウィルフはいらだちを覚えずにはいられない。
だがそれとこれとは別だ。当然ながらウィルフは預かった手紙をトレイシーに渡す。トレイシーはウィルフの前で手紙の封を切り、中に入っていた紙切れ――香水が降りかけてあったのかにおいがした――に書かれた文字に目を通すと、ため息をひとつついた。ウィルフはなにが書いてあったのか聞きたかったが、理性の部分でその欲求を押し留める。
寝台の上で上半身を起こしていたトレイシーは、手紙を読み終えるとナイトテーブルの上にそれを放ってしまう。
「手紙はいかがいたしましょうか」
「ん……捨てておいて」
ナイトテーブルから手紙を拾い上げると、ウィルフはそれを屑籠へと放り込む。そうして寝台に横たわるトレイシーを振り返ると、彼はこちらへ手招きする仕草を見せた。まるで火に惹かれる虫のようにウィルフは律儀にトレイシーの元へと向かう。
「こっちに座って」
言われるがままにウィルフはトレイシーが寝そべる寝台へと腰を下ろした。体を丸めて横たわるトレイシーの顔は強張っている。月のものの痛みが辛いのだろう。その姿を見ているとウィルフもなにかをしなければ、してあげたいという欲求が湧き上がって来る。
トレイシーはいつもの鮮やかさの失せた、どこかくすんだ青の瞳をウィルフに向ける。
「腰、撫でて……」
「では……」
ウィルフは掛け布の上からトレイシーに触れようとしたが、それよりも前に彼が布を取り払ってしまう。一瞬動揺したウィルフであったが、すぐさまそれを押し隠しトレイシーの腰に手のひらをつける。トレイシーの体は少々冷えているように感じた。
ゆっくりとたしかめるようにトレイシーの腰をやさしい手つきで撫でる。慎重に手を動かすと、トレイシーは目を細めた。
「あったかい」
そう言って強張っていた顔は少しだけ穏やかさを取り戻す。それがうれしくて、ウィルフは一心にトレイシーの体をさすった。
「体調はいかがですか? トレイシー様」
「うん……ウィルフがさすってくれるから、ちょっと楽になった」
「よかったです」
「うん、ありがとう、ウィルフ」
礼を言うトレイシーにウィルフは不意を突かれた。こんな風にだれかに感謝されたことはいつぶりだろうか。ウィルフの胸に動揺と同時に温かいものが広がる。「もったいないお言葉です」どうにかそれだけ絞り出したウィルフであったが、その心中では顔がにやけそうになるのを抑えるのに必死であった。
手のひらと指先で感じるトレイシーの体はやはり華奢だ。女性的な丸みを感じないでもないが、それにしてはいささか貧相である。
手に当たる骨の感触や、柔らかい腹部分の触り心地にウィルフは心惹かれてしまう。それは明らかに欲を含んだもので、あわててそれらを振り払う。
完全にほだされてしまっている、と思った。ウィルフに触れられて心地よさそうに目をすぼめるトレイシーは、なんとも愛らしい。そんな感情が抑えきれず、暴走してしまいそうだった。
「ありがと。もういいよ」
その言葉にウィルフは手を引っ込めるが、内心では名残惜しい気持ちでいっぱいであった。手のひらに直接当たったトレイシーの体温は、普段添い寝をしているときに感じるものよりも、数段ウィルフの心を乱して行ったのである。
トレイシーは日を開けることなく毎日ウィルフを閨に呼び、その胸元に顔を寄せて丸くなって眠る。そのあいだに体への接触はあるが、それは他愛もない劣情とはほど遠いかわいらしいものであった。
それに加えてトレイシーは特に性のにおいを感じさせない、不思議な御仁であった。美しい造作は妖艶というよりは可憐で、征服欲よりも先に庇護欲をかき立てる面立ちである。こう言うからにはウィルフも例外ではなく、市井でつつましく暮らすトレイシーに対し好意を抱き始めていた。
とかく目が離せない。気がつけば視界の外に出ているなどざらで、また魔法使いにしてはどうにも警戒心が薄い。それでいて頼って来る人間に対しては優しいので、ウィルフはトレイシーのそういう部分につけ込む輩が現れないかとハラハラしっ放しである。
トレイシーは夜はウィルフに甘えて――恐らくそうだ――来るのだが、昼のあいだはそうではない。むしろウィルフをあまり近づけさせないようにしているふしすらある。
トレイシーは仕事をしているあいだはもっぱらひとりでいることを好み、そうしているときにウィルフになにか労働をさせるということもなく、自由にしていていいと言う。
これは逆に労働が染みついているウィルフにとっては苦痛だった。だからトレイシーに何度か嘆願した末に調剤した薬瓶の仕分けといった細々した仕事を与えられた。それでも暇なときはトレイシーの許しを得て邸の中庭で素振りに励んでいる。もはや剣闘奴隷として賭け闘技にかけられないであろうことはわかっていたが、身の置き所がないので慣れた鍛錬に逃げてしまっている、というのが実情である。
そうしてウィルフは叱責されることも折檻されることもない、穏やかな日々を送っていた。その事実にどこかむずがゆい気分を得ないわけではなかったが、しかしウィルフとて痛苦になれているとはいえ、それらを率先して味わいたいなどとは思わない。だから、なんとはなしに感じてしまう違和を払拭するために当たりを引いたのだと己に言い聞かせていた。
そんなことを己の心に言い聞かすのは、なにも待遇だけのせいではない。
トレイシーの美貌を前にすると、ときたまウィルフはなにか、胸の奥底から込み上げて来るものを感じてしまうのである。その正体がわからないウィルフではない。ウィルフはいい大人だ。少なくとも、トレイシーよりは年上である。だから、自身が感ずるものの正体にはとっくに気づいていた。
だが、それは認められるものではないと思っている。たとえ、トレイシーがウィルフのことを「性奴隷」と呼んだとしても。
明け方、ウィルフは胸元で動く気配に瞼を開けた。トレイシーがウィルフから離れ、寝台を後にする。厠だろうか。ウィルフはもう一度眠りにつこうと目を閉じる。
しかし、しばらくして戻って来たトレイシーの気配と、ウィルフの敏感な鼻が察知したにおいに、彼は思わず目を見開いた。
血のにおいがする。そのことにおどろいてウィルフは上半身を起こし、寝台に戻って来たトレイシーを凝視した。
「すまない。起こしてしまったか」
眠たげに目をとろけさせているトレイシーであったが、彼からは間違いなく血のにおいが漂って来る。それは彼が近づくごとに増し、ウィルフの神経をざわめかせた。
「いえ。それよりもトレイシー様、血のにおいが……」
「え?」
ウィルフの言葉に、トレイシーが珍しく目を丸くする。そうしてややあってから、これまた珍しいことに彼はウィルフから視線を外して目を伏せてしまった。
ウィルフはと言えば、そんなトレイシーの仕草になにか粗相をしてしまったのかとあわてる。折檻や叱責が怖いのではない。純粋に、ウィルフはトレイシーには嫌われたくないとまで思うようになっていたし、できるならば気分を害すような真似はしたくないと思っていた。
「あの、どこかお怪我を……?」
「いや、違う。これは……気にしなくていい……」
「しかし」
言い募るウィルフに、トレイシーはうつむいてしまう。その耳はほのかに赤い。だがウィルフの心に芽生えるのはやはりどこか痛いのかという疑念であった。
「どこか痛むのですか?」
「痛む、と言えば痛むが」
「やはり――」
「ううん、怪我じゃない。ただ……ただ、月のものが来ただけで」
予想だにしないトレイシーの言にウィルフは動きを止めた。それを見て、トレイシーは忙しなく目を泳がせ、またうつむいてしまった。
ウィルフはトレイシーの言葉を頭の中で反芻する。「月のもの」。トレイシーはそう言った。それは女性にあるもので――トレイシーは男で――魔法使いは女が多くて――。ウィルフの中でぐるぐると断片的な言葉が回る。それらはまとまりになることなく霧散してしまった。
「……トレイシー様は、女性、なのですか?」
違う、とすぐさまウィルフは結論を出してしまう。なぜなら毎日水浴びの手伝いをしているウィルフは、トレイシーの下半身に男のしるしがついていることを知っている。女であるのならばそれがついているのは不自然なことであった。しかし、トレイシーは「月のもの」が来たと言って、それは女にしか来ないはずのもので――。ウィルフの思考はまたしても袋小路に入ってしまう。
「違う。なんというか――わたしは、男で女で、それでどちらでもない」
「つまり、両方あると……?」
「……うん、そう」
その日のトレイシーは寝台の住人であった。月のものが重い性質らしく、ちょっと動くのも辛そうにしている。薬かなにかで散らせないのかと思えば、トレイシー本人から作ってみたことはあるがあまり効かないので止めてしまったと告げられた。
当然ながら玄関先には立てないので、代わりにウィルフがやり取りを買って出ることになる。この二週間でトレイシーの家に来た奴隷のことは市井の人々には知れ渡っていたので、訪れる者たちはトレイシーになにかあったのかと口々に心配していた。それに少々体調が悪いのだと返して、ウィルフは訪問者を捌いて行く。
「トレイシーはいないのかね?」
そんな折り、この狭苦しい路地裏の住宅群とは似つかわしくない装いの男がやって来た。
「はい。トレイシー様は体調が優れず……」
ウィルフはにこやかに応対するものの、内心では猜疑の目で男を見ていた。
男は痩身で縦にひょろりと細長い。見につけている貴金属からも上流階級の人間であることがわかる。それも貴族というよりは成金といった風情であった。見るからに仕立ての良さそうな服を着て、周囲にぞろぞろと供の人間を連れている。
「ふむ。ならばこれを渡しておいてくれたまえ」
そう言って男は手紙を差し出した。ウィルフはそれをうやうやしく受け取るが、なんとはなしに男の視線が気になってしまう。久々に感じる、侮蔑を含んだ視線だ。よく前の主人がこのような目でウィルフを見ていたから、彼にはわかったのである。
ただ、以前受けたものよりもずっと悪意に満ちた視線だ。なぜ、このような目をこの男がしているのかウィルフには心からわかることはなかったが、大方奴隷は汚らわしいものとでも思っているのだろうと深くは考えなかった。
男はそのまま大勢の供を連れて立ち去る。薬瓶を受け取るために集まった人々は、波が引くように遠巻きにしていたが、男が去るとウィルフの元に再び集まって来た。そのうちの恰幅の良い中年の女性がウィルフにこんなことを話し出す。
「今のはゴードン様だよ。まだトレイシー先生にちょっかいを出しているんだねえ。アンタ、大丈夫かい?」
「はあ……先ほどの方はゴードン様と言うのですのね」
「そうそう。トレイシー先生が嫌がってるのに言い寄ってるって」
「顔が綺麗だからって……ねえ。先生は迷惑してるだろうに」
女たちがかしましく口々に言いたてる言葉を聞きながら、ウィルフはおどろいていた。トレイシーに言い寄る人間がいる、ということを。なぜかウィルフはその可能性すら失念していたのだ。
考えればあの美貌である。男だろうと女だろうと言い寄る人間がいてもおかしくはない。だというのに、それを知らされたウィルフはもやもやとした消化しづらい感情を抱いた。
それは欲だった。自分が今トレイシーの一番近くにいるのだと言う、思い上がりもはなはだしい過信。それが揺らいだことで、ウィルフはなんとも言いがたい感情を抱くにいたったのである。
思い上がりもいいところだとすぐさま振り払おうとするが、胸の中の凝りは消えそうになかった。そのことでウィルフはこの短期間でここまでトレイシーに心を奪われていることを知る。あの、いじらしい主人がだれかに甘えることを考えるとウィルフはいらだちを覚えずにはいられない。
だがそれとこれとは別だ。当然ながらウィルフは預かった手紙をトレイシーに渡す。トレイシーはウィルフの前で手紙の封を切り、中に入っていた紙切れ――香水が降りかけてあったのかにおいがした――に書かれた文字に目を通すと、ため息をひとつついた。ウィルフはなにが書いてあったのか聞きたかったが、理性の部分でその欲求を押し留める。
寝台の上で上半身を起こしていたトレイシーは、手紙を読み終えるとナイトテーブルの上にそれを放ってしまう。
「手紙はいかがいたしましょうか」
「ん……捨てておいて」
ナイトテーブルから手紙を拾い上げると、ウィルフはそれを屑籠へと放り込む。そうして寝台に横たわるトレイシーを振り返ると、彼はこちらへ手招きする仕草を見せた。まるで火に惹かれる虫のようにウィルフは律儀にトレイシーの元へと向かう。
「こっちに座って」
言われるがままにウィルフはトレイシーが寝そべる寝台へと腰を下ろした。体を丸めて横たわるトレイシーの顔は強張っている。月のものの痛みが辛いのだろう。その姿を見ているとウィルフもなにかをしなければ、してあげたいという欲求が湧き上がって来る。
トレイシーはいつもの鮮やかさの失せた、どこかくすんだ青の瞳をウィルフに向ける。
「腰、撫でて……」
「では……」
ウィルフは掛け布の上からトレイシーに触れようとしたが、それよりも前に彼が布を取り払ってしまう。一瞬動揺したウィルフであったが、すぐさまそれを押し隠しトレイシーの腰に手のひらをつける。トレイシーの体は少々冷えているように感じた。
ゆっくりとたしかめるようにトレイシーの腰をやさしい手つきで撫でる。慎重に手を動かすと、トレイシーは目を細めた。
「あったかい」
そう言って強張っていた顔は少しだけ穏やかさを取り戻す。それがうれしくて、ウィルフは一心にトレイシーの体をさすった。
「体調はいかがですか? トレイシー様」
「うん……ウィルフがさすってくれるから、ちょっと楽になった」
「よかったです」
「うん、ありがとう、ウィルフ」
礼を言うトレイシーにウィルフは不意を突かれた。こんな風にだれかに感謝されたことはいつぶりだろうか。ウィルフの胸に動揺と同時に温かいものが広がる。「もったいないお言葉です」どうにかそれだけ絞り出したウィルフであったが、その心中では顔がにやけそうになるのを抑えるのに必死であった。
手のひらと指先で感じるトレイシーの体はやはり華奢だ。女性的な丸みを感じないでもないが、それにしてはいささか貧相である。
手に当たる骨の感触や、柔らかい腹部分の触り心地にウィルフは心惹かれてしまう。それは明らかに欲を含んだもので、あわててそれらを振り払う。
完全にほだされてしまっている、と思った。ウィルフに触れられて心地よさそうに目をすぼめるトレイシーは、なんとも愛らしい。そんな感情が抑えきれず、暴走してしまいそうだった。
「ありがと。もういいよ」
その言葉にウィルフは手を引っ込めるが、内心では名残惜しい気持ちでいっぱいであった。手のひらに直接当たったトレイシーの体温は、普段添い寝をしているときに感じるものよりも、数段ウィルフの心を乱して行ったのである。
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