インモラルセンス

やなぎ怜

文字の大きさ
上 下
3 / 6

(3)

しおりを挟む
 オパールはドレープを利かせた、やや少女らしすぎる鮮やかな水色のドレスの裾を翻し、馬車から降り立った。その姿は堂々としたもので、彼女がここへ来た背景を考えれば一種ふてぶてしさすら感じられる。流行りの髪型に結い上げたブルネットには無邪気な白いヒナギクの髪飾りが輝いていた。

「お姉様、わざわざお出迎えありがとうございます」

 人懐こい愛らしさに溢れた笑みを浮かべれば、オパールはどこからどうみても淑女と言った風体である。実態がそんな印象とはかけ離れているとあらかじめ知らされているレナルドの邸の使用人たちは、内心で呆れていた。

 落ち着いた臙脂えんじ色の、流行りの型を少しだけ取り入れた貞淑なドレスに身を包んだルビーは一歩前へ出ると笑顔で長旅を労った。しかしその右手の指先は、左手の薬指に嵌った結婚指輪へと無意識の内に触れる。

「離れに案内するわ。――オパールの荷物を運んであげてちょうだい」

 ルビーの言葉に、オパールはちょっと驚いた顔をした。彼女は何の疑問もなく姉夫婦の母屋に案内されると考えていたのだ。だがさすがは処世術に長けたオパールのこと、にっこりと令嬢らしい優雅な笑みを浮かべて自らの大荷物――ほとんどが衣装箱である――を運ぶ使用人たちへ隙なく愛嬌を振りまく。

 だがそれも他人の目があるところまで。長年放置されていた日当たりの悪い離れへ荷物と共に押し込まれたオパールは、パーラーで姉とふたりきりになるやいなや、キッと目を三角に吊り上げた。

「なんなの? この辛気臭い部屋は。これがお客様に対する態度だっていうの?」
「……いきなり来るからよ」

 レナルドはルビーの両親が送り出したと言ったものの、ルビーはオパールが勝手に来たのだろうと思っていた。そうでなければオパールが出立した後になって騙し打ちのように手紙を送るのはあまりに無礼すぎるからである。貧乏な田舎貴族と言えど、上流階級としての矜持を持ち合わせている両親がそのような礼を欠いた真似をするとは思えなかった。

 そしてどうやらそれは当たっていたようで、いきり立つオパールと対照的なルビーの態度は彼女の癇に障ったらしい。オパールは苛立たしげに長椅子へ恥じらいもなく腰を下ろした。

「なによ、運良く嫁げたからって女主人気取り? あのね~アンタはもう貴族じゃないの! 成金の嫁になったのよ?! でもあ・た・し・は・貴族なの! 妹だからって礼儀を欠くのは許されないわ。これ以上無礼な真似をするならお父様に言いつけるんだからね!」

 妹のあまりに幼稚な発言にルビーは頭が痛くなった。同じ日に生まれた姉妹だと言うのに、どうしてここまでたがってしまったのだろうか。――それは、間違いなく両親のせいなのだが、彼らはこの始末をどうつけるというのだろうか。ルビーはオパールのたったひとりの姉として、あまりに幼い彼女の行く末を憂えた。

「オパール。ここは実家じゃないのだから、あまり羽目を外すような真似は――」
「あーもう! なんなの?! アンタ、何様のつもり?!」

 癇癪を起こしたオパールは手近にあったクッションをルビーに投げつける。オパールがそうやって物に当たるのは良くあることであったから、ルビーはやすやすと片手でクッションを受け止めた。それがまたオパールの神経を逆撫でしたようで、行き場のない怒りを発散するように地団太踏む。

「せっかくウザい男どもから逃げて来たんだから! あたしはあたしの好きにするから!」
「オパール……」
「もう出てってよ! ウザいウザいウザいウザいウザい!」

 仕方なくルビーは小間使いがティーセットを持って来る前にパーラーから退散することになった。途中、行き会った小間使いにオパールの部屋には行かなくていいと言いつけるのは忘れず。

「奥様……あの、よろしいのでしょうか……?」
「いいのよ。オパールは旅の疲れで気が立っているの。放っておいてあげてちょうだい」

 ホールまでオパールの怒声は筒抜けであったらしく、まだ年若い小間使いは困った顔でルビーに訊ねる。その言葉の端々からは淑女らしからぬオパールの本性に対する戸惑いも見れて、ルビーは内心で苦い顔をする。

「ここまで来てくれたのに悪いわね。ティーセットは母屋のパーラーに運んでおいて」
「かしこまりました」

 小間使いの背を見送りながら、ルビーはオパールに問題を起こすなと言って聞かせるのは無理だろうと考える。

 ――せめて、レナルドの顔に泥を塗るような真似はしないで欲しいわ。

 そう願うルビーであったが、当のオパールは予想外の行動に出た。

「ねえ、レナルド、と呼んでもよろしいかしら?」

 日暮れとなり、邸へ帰って来たレナルドの出迎えの場でオパールは大胆にもそんな言葉を彼にかけたのである。ルビーは背後の使用人たちがぎょっとした様子を感じていたたまれなくなる。だがそれより先に感じたのは――あの、手負いの獣よりも激しい妬心であった。

 ルビーは一瞬、心優しいレナルドであれば許してしまうかもしれない、と思った。だが彼はしっかりと立場をわきまえていた。

「オパール嬢、嫁入り前の淑女レディが軽々しくそのようなことを言うものではありませんよ」
「あら、ごめんなさい」

 オパールは悪戯っぽく笑って手で口元を覆った。

「もっとお義兄にい様と仲良くなれたらと思って……。素敵なお義兄様だから、つい甘えてしまいましたわ」

 そうしてから眉を下げてしおらしく謝罪するオパールの姿は、少々お転婆な令嬢といったところか。内情はお転婆どころの騒ぎではないのだが。

 ルビーは胃の辺りに猛烈な不快感を覚え、それを誤魔化すのに必死だった。頭の中を駆け巡るのは暴力的な言葉ばかり。同じ口で成金だと散々罵倒しておきながら、本人を前にすれば平気で媚を売る妹に、ルビーは初めて明確な害意を抱いた。

 愛するレナルドを貶されるのはルビーにとって耐えがたいことである。しかし妻を前にしてシナを作ると言う行いは、あまりに許し難い暴挙と言って差し支えなかった。

 ルビーは口元には笑みを湛えながらも、その淡褐色の瞳には一切の感情を上らせず、談笑を長引かせるオパールを捉えていた。


 オパールはレナルドの歓心を買おうと躍起になっているようだった。その後も隙があればべたべたとレナルドに引っついて、妻でもないのにその腕に手をつけようとする。レナルドは上手くそれをかわしていたが、彼女のおしゃべりには付き合うよりほかなく、ルビーは完全に締め出されてしまった。

 味のしない晩餐を終えたルビーは、ドローイングルームで深いため息をついた。飲み込んで、消化不良になった言葉を吐き出すように、あるいは膨れ上がった憤怒の情から空気を抜くように。それから決意を込めて一度深く息を吸った。

 ――レナルドに迷惑をかけるわけにはいかない。

 ならば、ルビーがオパールをどうにかするしかないのである。そこには並大抵の精神力では太刀打ちできない問題が横たわっているのだが、オパールを諌めるのに一番角が立たないのがルビーであるのも事実。であれば役目はきちんと果たさなければならない、とルビーは憂鬱な気分になりながらも決意する。

 だがその思いは、早くも挫けてしまう。


 しばらくは猫を被っていたつもりなのか大人しくしていたオパールも、一週間が過ぎるとどうにも我慢ならなくなったらしい。目に眩しいクリームイエローのドレスに身を包み、派手な羽帽子を頭に載せて夜の街へと繰り出そうとしていたところをルビーに捕まったのである。

「……あらぁ~、お姉様……」
「こんな時間にどこへ行く気?」

 使用人にも未だ見目の良い面を見せているオパールは、すっとぼけた声を出しながら周囲に人がいないことを抜け目なく確認する。夜陰の中に姉とふたりきりであると結論付けたオパールは、すぐさま目を吊り上げてルビーに向き直った。

「どこへだっていいでしょ? アンタには関係ない」
「あるわよ。あなたは今、この邸に滞在している人間なのだから」

 強い口調ながらもなだめるようにルビーが言えば、オパールは夜闇の中でもはっきりとわかるように嘲笑の顔を作る。

「ハア~? ……本当に女主人気取りなんだあ」

 おかしくて仕方がないといった風にオパールは吹き出した。だがそれでひるむようなルビーではない。オパールの腕をつかむ手を外さぬまま、強い意志の宿った双眸で彼女を見据える。

「お願いだから、レナルドの顔に泥を塗るような真似はやめて」

 ルビーのその言葉に、オパールは相当カチンと来たらしい。乱暴な所作でルビーの腕を振り払う。ルビーはその勢いのまま地面へ尻もちをついてしまう。

「痛っ」
「ホントはどんくさいんだから」

 左手に握った杖でどうにか立とうとする姉に、オパールは上質な布で仕立て上げられたバッグを思い切り投げつけた。暗闇の静寂に乾いた音が響き渡る。バッグはルビーのこめかみに当たってそのまま地へと転がる。

「かたわのくせに何様のつもり? アンタの夫もかわいそうだよね~。こんな女貰っちゃってさあ。夜遊びもさせないんでしょ?」
「……そんなことないわ。それよりも――」
「あたしが話してんのよ! そんなこともわかんないの?! このグズ!」
「やめて!」

 ヒールの高い靴を履いた足を振り上げて、オパールはルビーの右脚を蹴った。思わずルビーは悲鳴を上げて右脚を手で庇う。それが面白いのかオパールは執拗にルビーの動かない右脚を狙って蹴りを繰り出した。

「結婚してあたしに勝ったつもりなの?」
「勝つとか、わけがわからないわ」
「ハア~……まーた良い子ぶってる。いい加減無駄だって気づいたら? ホントどんくさいよね~。そんなんじゃすぐ浮気されるって。あ、もうしてるかな? こんな陰気な女を貰っちゃったんだもん。耐えられないよね」
「レナルドは浮気なんてしないわ。あの人のことを侮辱するのはやめて」

 ルビーもかなり気が立っていた。レナルドとの生活の中で、彼女は意味もなく虐げられている義理はないのだと知った。だからこそ、以前のような嵐が過ぎるのを待つような態度を捨てて、オパールと真っ向からぶつかることが出来たのである。

 だが、オパールにはそんなことはわからない。彼女は姉のことを、なにをしても文句を言わない、便利な人形くらいにしか思っていなかった。だからこそ、その人形が生意気な口を利くものだから――その言葉に正当性があったとしてもオパールは認めないだろう――大いに立腹しているのである。

「もうウザい!」

 いつもの癇癪を起こしたオパールは、足元に転がったバッグを拾うともう一度ルビーに投げつける。

「かたわのあんたが結婚出来てあたしが出来ないなんておかしい! ぜったいぜったいあたしの方が向いてるのに! アンタなんかよりあたしの方があの男にふさわしいのに!」

 ルビーは黙ってオパールを見つめた。その奥に嫉妬の炎が渦巻いていることなど愚かな妹は気づかない。

 ルビーは、今にも弾けそうになる激情を必死で押さえ込んでいた。「わたしの方がレナルドにふさわしい。あなたよりも、ずっと」――。そんな、傲慢な言葉が口をついて出そうになるのを喉の奥で潰そうとしていた。

「あたし、刺されそうになったんだよ? だったら普通、あたしに縁談を譲るのが普通じゃない。アンタはおかしい。人の心がない」
「……はあ?」

 ルビーの喉から出た低い音に、オパールは一瞬固まった。だがすぐに持ち直して自らのプライドを保つために姉の尊厳を踏みにじることに精を出す。だがそれはほとんど幼子の癇癪に等しく、常人からすれば破綻した世迷言も同然であった。

「だってだって、アンタなんか愛されるはずないじゃん。でもあたしは違うし。だから、あたしの方がぜったいふさわしい! だってかたわじゃないし! そうよ! なんでかたわのアンタが結婚できるの?! アタシはかたわじゃないのに! かたわになっちゃうような運の悪い女を嫁にするなんておかしい! ――あのときに死んじゃえばよかったのに!」

 ルビーは、頭の芯が痺れるのを感じた。視界が白黒に明滅して、体がおこりにでもかかったように震える。

 ルビーは、自らの足について負い目を感じていたし、あんな目に遭うことがなければと、無意味な未来を描くことだってした。

 けれども、決してオパールのせいにしたことはなかった。

 わがままで自己愛の強いオパールのことは、たしかに好きではない。けれども「死んでしまえばいい」などと思ったことはなかった。憎いと思ったこともあるし、両親の依怙贔屓を恨んだことだってあった。だけど、だからと言って気にいらない相手の死を願っていいとは思えなかった。

 けれどもオパールはやすやすとその垣根を越えて、ルビーに人として決して言ってはいけないことを言ってしまったのである。

「いたいっ!」

 オパールの悲鳴にルビーはハッと我に返る。オパールは呆然とした顔で右の頬を押さえていた。そしてルビーは早々に自らの左手に日ぎられた杖で、彼女の頬を打ち据えたことを悟った。

 呆然としたのはオパールだけではなく、ルビーもそうだった。大人しく内気なルビーは、自らが暴力を振るうこととは無縁の生活を送って生きてきた。たしかに近頃は暴力的な思いに駆られることはあったけれども、それを行動に移すなどということは決してなかった。

 だからこそ、ルビーは信じられない思いでいた。己が暴力を振るうなんて――しかも、実の妹を叩いてしまうなんて。

 混乱したままぼうっと座り込むルビーとは対照的に、オパールはすぐさま大げさに泣き出してその場から走り去る。だが、その行く先は離れではなく母屋だ。ルビーは母屋を背にしていたから気づくことがなかったが、少し前から中庭で言い争う声を聞きつけた小間使いがふたりの様子をうかがっていたのだ。

「いったい、どうしたんだい」

 背後から聞こえたレナルドの声に、ルビーは全身から血の気が引くのを感じた。
しおりを挟む

処理中です...