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三ヶ月の巡礼を終えた私たちに待ち受けていたのは、式典にパレード、ついでパーティー。
はっきり言って、典型的な小市民である私からすれば、尻と腰の痛みに悩むだけだった巡礼の旅の方がラクだった。
ずっと手を振り続けているのはツライし、笑顔を維持するのもツライし、なによりきらびやかなドレスがツライ。
既にこの世界でもコルセットは過去のものとなっていたことくらいが幸いであるが、慰めにはならなかった。
あんなにも食事の作法に気を使った経験は、これが初めてのものだったし、言葉遣いにもめちゃくちゃ気を使った。
もう二度とこんな体験はしたくない。いや、しない! と心中でひそかに決意したくらいである。
そして慌ただしい日々が終われば、待っていたのは職探しの毎日……。
であるのだが、誠也くんは流石というかなんというか、早々に絵画モデルという職を引き受けていた。
絵画モデルは拘束時間が長い上に、誠也くんは巡礼の旅をしてくれたビッグネーム。
下品なこととは知りつつも誠也くんにどれくらいの賃金なのか聞いたら、それはもう小市民な私がびっくりするくらいの金額だった。それはもう、絵画モデルって普通こんなに貰える? っていうくらいの額だ。
誠也くんとしてはひとまず若いうちは絵画モデルを務めて、お金を貯めつつ次の仕事をどうするか考えるというプランらしかった。
将来性がちょっと不安だが、誠也くんが稼ぎ出す金額を考えれば、あとは老後まで慎ましく暮らせばまあ持つだろう、くらいの楽観的な見立てができそうなくらいである。
ごく一般的な職を選ばなかったのは、誠也くんの顔と名前とが知られすぎている、という現実的な理由もあった。
その点、絵画モデルは基本的に相手にするのは画家とその弟子たちくらいなので、わずらわしい思いをしなくて済む。
そう考えると絵画モデルという職は、今の誠也くんにはぴったりで、稼げるお仕事だと言えるだろう。
そして行き詰ったのは私だ。
この世界では女性といえば専業主婦が当たり前らしく、自宅の台所が主な職場という現実が私を打ち砕いた。
無論、女性でも働ける場所はあるにはあるのだが。たとえばお針子。これは、数少ない女性の職だった。
けれどもそこには職人的な技量が求められるのが当たり前で、家庭科の授業でくらいしか縫い針を扱ったことのない私が、太刀打ちできるような場所ではない。
他にも家庭教師という職もあるが、これは私に務まるかどうかは微妙なところだった。
まずピアノが弾けた方がいいと聞いて、その時点で心が折れかけた。ピアノなんて習ったことがない。私の子供時代のお稽古事といえば水泳だったのだ。
小学生から、頑張って中学生くらいまでの子になら教えられそうだったが、生来から引っ込み思案の私に教育者になれというのは中々厳しいというのが現実だった。
いや、厳しいとか言ってる場合ではない。なんとしても将来のためにお金を稼ぎださなければならない。
慎ましく暮らすにはじゅうぶんな年金を貰えるとしても、周囲が働いてるのに自分だけ働かない、という状況は小市民な私には想像がつかなかった。
……というような感じでうだうだと悩んでいる私を見かねたのか、貴人の話相手にならないかという依頼が飛び込んできた。
一も二もなく飛びついた……わけではないのだが、家庭教師と貴人の話相手とを両天秤にかけて、私は後者を選んだ。
その貴人が気位の高い老婆とかだったら、私は前者を選んでいたかもしれない。つまり、それくらい悩みに悩んだ果ての選択ということである。
そしてそんな私がおしゃべりの相手を務めるのは、なんとこの国のお姫様であった。
なんでも長いこと臥せっていたのだが、巡礼の旅が終わったお陰で無事に快癒したとのことらしい。
そういう理由であるから同年代の友人がおらず、まずは手始めに身近な相手とおしゃべりを始めるところから……ということで、私にその話が流れてきたわけであった。
お姫様――正確には王女殿下――は病弱なお姫様というイメージそのままの、ちょっと気弱な感じがするくらい、儚げな雰囲気の御仁だった。
間違っても気位の高いお姫様って感じではなかったし、いわゆるパリピからは最も遠い感じすらする印象の持ち主だ。
しかし私は根っからの庶民育ち、対するお姫様はお姫様なわけなので、話が合うのかどうかはかなり不安だった。
とはいえフタを開けてみればふたりきりで話す場面はほとんどなかった。
大抵、お姫様の幼少から付き従っている侍女さんがいっしょにいて、彼女はなにかと私とお姫様の仲を取り持とうと奮闘してくれたのだ。
なにせ、会ってわかったことなのだが、お姫様も引っ込み思案の赤面症だった。コミュニケーション能力の低さは私とどっこいどっこいと言ったところなのである。
しかしまあ、手探りで交流を始めてから、「あ、このひとは私と同じタイプだ!」と気づくのは早かった。
そしてもうひとつ私とお姫様には共通点があった。
お姫様はオメガだったのだ。
そうとわかったあとは、お姫様はなにかと私と誠也くんの話を聞きたがった。
お姫様は深窓のお姫様らしく、「つがい」に夢を見ているタイプだった。
だから、相思相愛――事実だが、自分で言うと恥ずかしい――である私たちの話に興味津々だったのである。
それゆえに私はそもそも手元で切れる話題のカードが少ないことも相まって、誠也くんとの馴れ初めから、どこに惚れたのだとか、そういうことを洗いざらい吐かされてしまったのであった……。
恥ずかしかったが、ロマンチストなお姫様は「素敵!」とご満悦だったので、まあヨシとしよう。私はまだ完全には健康体に戻れていないお姫様の無聊を慰めるのが仕事なのだから……。
そして話は私と誠也くんがいつ「つがい」になるのかという、生々しい話にまで及んでしまっていた。
侍女さんはお姫様をたしなめたけれど、お姫様にはイマイチ「つがい」になるという話が、多分に性的な事情を含んでいるとはピンとこないらしい。
お姫様の中では、好きな相手と「つがい」になることは、とっても素晴らしくロマンチックな事柄にカテゴライズされているようだった。
「でも『つがい』になるのって、どういうことなのか、あんまりピンときてないんですよね……」
「あら、どうして?」
お姫様は愛らしく小首をかしげて問いかける。
「たぶん、私の世界にはないものだったから、じゃないですかね……」
「そういえばそうだったわね。でも、夫婦という婚姻形態はあったのでしょう?」
「そうなんですけど、でも、それと『つがい』って、また違ったものじゃないですか。なんでもオメガからは『つがい』を解消することができないんですよね? でも、アルファからはいつでも解消できるって……。それはちょっと怖いですね」
そうなのだ。「つがい」のシステムはどうにもアルファには有利に、オメガには不利な部分を含んだシステムだった。
「つがい」になるにはオメガが発情期を迎えており、かつその最中にオメガのうなじをアルファが噛む必要がある。
それによって成立した「つがい」関係において、オメガのメリットは無制限に誰かれ構わずフェロモンを垂れ流さなくなることくらいだ。
しかしそのメリットはオメガにとっては多大である。オメガのフェロモンに誘引されて、オメガに乱暴を働いても当人は罪には問われないのだと言うのだから、フェロモンを垂れ流し続けるということは、オメガにとっては恐怖にも等しい。
そんな最悪の事態に遭遇する確率を少しでも減らせるのだから、「つがい」を得ることのメリットは多大だ。
そして「つがい」はアルファから一方的に解消できる。なぜかはまだわかっていないらしい。
このシステムの不条理なところは、アルファはまた「つがい」を得ることができるのに、オメガにはそれができないということだ。
オメガは二度と「つがい」を得られないどころか、アルファに捨てられたことで精神的に病んでしまうということも珍しくない。
典医さんに聞いた、オメガが虐げられてきた時代の話も含めて、なんともこの世界はオメガ性に厳しいと私は思った。
今の時代はオメガの保護や不平等の是正も進んでいるから、昔ほどひどい状態ではないそうなのは幸いだった。
けれどもやはり、そういう事情を知ってしまうと、私はどうしても「つがい」になるのは怖いと思ってしまった。
もともと、私は愛というものに懐疑的な人間だからだということもあるかもしれない。
「夫婦」という形態を取りながら、相手に対して情も敬意もなかった両親を見てきたことも、理由のひとつかもしれない。
それでも誠也くんと出会って、私は大げさでなく愛というものを知ったし、それを信じてみたくもなった。
けれどもやはり、怖い。
誠也くんが私を捨てる未来なんて想像できないけれど、けれども確率としては存在しているだろう。
そうした最悪の未来が訪れたあと、私はずっと私を捨てた誠也くんを思って死んで行くのかと思うと、それはぞっとする。
多くのアルファに捨てられたオメガが、そうした過程をたどったのだと知っては、なおさらその想定が厚みを持つ。
……最悪の結末ばかり考えたって仕方がないというのもまた、わかってはいる。
わかってはいるが、しかし、踏ん切りがつかない。
幸いにも私はこの世界にきて、オメガになって、三ヶ月以上が経ってもまだ発情期がきていない。
だからこの「つがい」問題は先延ばしにできて――しまっている。
初めての発情期が訪れたとき、私はどうするのだろうか。あるいは、どうすればいいのだろうか。
答えは、まだ出ていない。
……けれどもそれは、どうにか選び出すしかないのだということもまた、わかっている。
私はこれまでに何度かオメガの集まりに出たことがある。互助会のようなものだ。典医さんに勧められて参加した。
そこで「つがい」のいるオメガに、「つがい」になった理由を素朴な疑問として聞いてみたのだが、答えは様々だった。
悩んだ末に決めたひともいれば、流れで「つがい」になったひともいる。
ひとりだけ、「運命」だったからごく自然な流れで「つがい」になったというひともいた。
――「運命のつがい」。
聞いたときは特になんの感慨も抱かなかったが、今はそれがちょっと羨ましい。
いわば神とか遺伝子とか、普通の手段では目に見えないなにかによって、あらかじめ相手が定められていたということになるんだろう。
それが、迷いに迷っている今の私には、ちょっぴり羨ましく映った。
けれども「運命」がいたオメガだって、「運命」を示された上でそれを選んだんだ。
なんにせよ、結局のところ自分の運命は自分で決めなければならないのだ。
私の疑問に真摯に答えてくれたひとたちも、そうしてきたのだ。
「急がなくてもいいのよ。あなたはまだ若いんだから。『つがい』になれるチャンスはいくらでもあるんだから」
私の心情を察したのか、典医さんは優しくそう言ってくれた。
けれどもどうしても、私は急かされているような気になってしまう。
誠也くんは優しくて、周りの人たちもみんな優しくて――。だからこそ、誠実な答えを早く出さなければならないような気になってしまうのだと思う。
しかしそれでも心の弱い私は、未だ迷いを断ち切れないでいた。
はっきり言って、典型的な小市民である私からすれば、尻と腰の痛みに悩むだけだった巡礼の旅の方がラクだった。
ずっと手を振り続けているのはツライし、笑顔を維持するのもツライし、なによりきらびやかなドレスがツライ。
既にこの世界でもコルセットは過去のものとなっていたことくらいが幸いであるが、慰めにはならなかった。
あんなにも食事の作法に気を使った経験は、これが初めてのものだったし、言葉遣いにもめちゃくちゃ気を使った。
もう二度とこんな体験はしたくない。いや、しない! と心中でひそかに決意したくらいである。
そして慌ただしい日々が終われば、待っていたのは職探しの毎日……。
であるのだが、誠也くんは流石というかなんというか、早々に絵画モデルという職を引き受けていた。
絵画モデルは拘束時間が長い上に、誠也くんは巡礼の旅をしてくれたビッグネーム。
下品なこととは知りつつも誠也くんにどれくらいの賃金なのか聞いたら、それはもう小市民な私がびっくりするくらいの金額だった。それはもう、絵画モデルって普通こんなに貰える? っていうくらいの額だ。
誠也くんとしてはひとまず若いうちは絵画モデルを務めて、お金を貯めつつ次の仕事をどうするか考えるというプランらしかった。
将来性がちょっと不安だが、誠也くんが稼ぎ出す金額を考えれば、あとは老後まで慎ましく暮らせばまあ持つだろう、くらいの楽観的な見立てができそうなくらいである。
ごく一般的な職を選ばなかったのは、誠也くんの顔と名前とが知られすぎている、という現実的な理由もあった。
その点、絵画モデルは基本的に相手にするのは画家とその弟子たちくらいなので、わずらわしい思いをしなくて済む。
そう考えると絵画モデルという職は、今の誠也くんにはぴったりで、稼げるお仕事だと言えるだろう。
そして行き詰ったのは私だ。
この世界では女性といえば専業主婦が当たり前らしく、自宅の台所が主な職場という現実が私を打ち砕いた。
無論、女性でも働ける場所はあるにはあるのだが。たとえばお針子。これは、数少ない女性の職だった。
けれどもそこには職人的な技量が求められるのが当たり前で、家庭科の授業でくらいしか縫い針を扱ったことのない私が、太刀打ちできるような場所ではない。
他にも家庭教師という職もあるが、これは私に務まるかどうかは微妙なところだった。
まずピアノが弾けた方がいいと聞いて、その時点で心が折れかけた。ピアノなんて習ったことがない。私の子供時代のお稽古事といえば水泳だったのだ。
小学生から、頑張って中学生くらいまでの子になら教えられそうだったが、生来から引っ込み思案の私に教育者になれというのは中々厳しいというのが現実だった。
いや、厳しいとか言ってる場合ではない。なんとしても将来のためにお金を稼ぎださなければならない。
慎ましく暮らすにはじゅうぶんな年金を貰えるとしても、周囲が働いてるのに自分だけ働かない、という状況は小市民な私には想像がつかなかった。
……というような感じでうだうだと悩んでいる私を見かねたのか、貴人の話相手にならないかという依頼が飛び込んできた。
一も二もなく飛びついた……わけではないのだが、家庭教師と貴人の話相手とを両天秤にかけて、私は後者を選んだ。
その貴人が気位の高い老婆とかだったら、私は前者を選んでいたかもしれない。つまり、それくらい悩みに悩んだ果ての選択ということである。
そしてそんな私がおしゃべりの相手を務めるのは、なんとこの国のお姫様であった。
なんでも長いこと臥せっていたのだが、巡礼の旅が終わったお陰で無事に快癒したとのことらしい。
そういう理由であるから同年代の友人がおらず、まずは手始めに身近な相手とおしゃべりを始めるところから……ということで、私にその話が流れてきたわけであった。
お姫様――正確には王女殿下――は病弱なお姫様というイメージそのままの、ちょっと気弱な感じがするくらい、儚げな雰囲気の御仁だった。
間違っても気位の高いお姫様って感じではなかったし、いわゆるパリピからは最も遠い感じすらする印象の持ち主だ。
しかし私は根っからの庶民育ち、対するお姫様はお姫様なわけなので、話が合うのかどうかはかなり不安だった。
とはいえフタを開けてみればふたりきりで話す場面はほとんどなかった。
大抵、お姫様の幼少から付き従っている侍女さんがいっしょにいて、彼女はなにかと私とお姫様の仲を取り持とうと奮闘してくれたのだ。
なにせ、会ってわかったことなのだが、お姫様も引っ込み思案の赤面症だった。コミュニケーション能力の低さは私とどっこいどっこいと言ったところなのである。
しかしまあ、手探りで交流を始めてから、「あ、このひとは私と同じタイプだ!」と気づくのは早かった。
そしてもうひとつ私とお姫様には共通点があった。
お姫様はオメガだったのだ。
そうとわかったあとは、お姫様はなにかと私と誠也くんの話を聞きたがった。
お姫様は深窓のお姫様らしく、「つがい」に夢を見ているタイプだった。
だから、相思相愛――事実だが、自分で言うと恥ずかしい――である私たちの話に興味津々だったのである。
それゆえに私はそもそも手元で切れる話題のカードが少ないことも相まって、誠也くんとの馴れ初めから、どこに惚れたのだとか、そういうことを洗いざらい吐かされてしまったのであった……。
恥ずかしかったが、ロマンチストなお姫様は「素敵!」とご満悦だったので、まあヨシとしよう。私はまだ完全には健康体に戻れていないお姫様の無聊を慰めるのが仕事なのだから……。
そして話は私と誠也くんがいつ「つがい」になるのかという、生々しい話にまで及んでしまっていた。
侍女さんはお姫様をたしなめたけれど、お姫様にはイマイチ「つがい」になるという話が、多分に性的な事情を含んでいるとはピンとこないらしい。
お姫様の中では、好きな相手と「つがい」になることは、とっても素晴らしくロマンチックな事柄にカテゴライズされているようだった。
「でも『つがい』になるのって、どういうことなのか、あんまりピンときてないんですよね……」
「あら、どうして?」
お姫様は愛らしく小首をかしげて問いかける。
「たぶん、私の世界にはないものだったから、じゃないですかね……」
「そういえばそうだったわね。でも、夫婦という婚姻形態はあったのでしょう?」
「そうなんですけど、でも、それと『つがい』って、また違ったものじゃないですか。なんでもオメガからは『つがい』を解消することができないんですよね? でも、アルファからはいつでも解消できるって……。それはちょっと怖いですね」
そうなのだ。「つがい」のシステムはどうにもアルファには有利に、オメガには不利な部分を含んだシステムだった。
「つがい」になるにはオメガが発情期を迎えており、かつその最中にオメガのうなじをアルファが噛む必要がある。
それによって成立した「つがい」関係において、オメガのメリットは無制限に誰かれ構わずフェロモンを垂れ流さなくなることくらいだ。
しかしそのメリットはオメガにとっては多大である。オメガのフェロモンに誘引されて、オメガに乱暴を働いても当人は罪には問われないのだと言うのだから、フェロモンを垂れ流し続けるということは、オメガにとっては恐怖にも等しい。
そんな最悪の事態に遭遇する確率を少しでも減らせるのだから、「つがい」を得ることのメリットは多大だ。
そして「つがい」はアルファから一方的に解消できる。なぜかはまだわかっていないらしい。
このシステムの不条理なところは、アルファはまた「つがい」を得ることができるのに、オメガにはそれができないということだ。
オメガは二度と「つがい」を得られないどころか、アルファに捨てられたことで精神的に病んでしまうということも珍しくない。
典医さんに聞いた、オメガが虐げられてきた時代の話も含めて、なんともこの世界はオメガ性に厳しいと私は思った。
今の時代はオメガの保護や不平等の是正も進んでいるから、昔ほどひどい状態ではないそうなのは幸いだった。
けれどもやはり、そういう事情を知ってしまうと、私はどうしても「つがい」になるのは怖いと思ってしまった。
もともと、私は愛というものに懐疑的な人間だからだということもあるかもしれない。
「夫婦」という形態を取りながら、相手に対して情も敬意もなかった両親を見てきたことも、理由のひとつかもしれない。
それでも誠也くんと出会って、私は大げさでなく愛というものを知ったし、それを信じてみたくもなった。
けれどもやはり、怖い。
誠也くんが私を捨てる未来なんて想像できないけれど、けれども確率としては存在しているだろう。
そうした最悪の未来が訪れたあと、私はずっと私を捨てた誠也くんを思って死んで行くのかと思うと、それはぞっとする。
多くのアルファに捨てられたオメガが、そうした過程をたどったのだと知っては、なおさらその想定が厚みを持つ。
……最悪の結末ばかり考えたって仕方がないというのもまた、わかってはいる。
わかってはいるが、しかし、踏ん切りがつかない。
幸いにも私はこの世界にきて、オメガになって、三ヶ月以上が経ってもまだ発情期がきていない。
だからこの「つがい」問題は先延ばしにできて――しまっている。
初めての発情期が訪れたとき、私はどうするのだろうか。あるいは、どうすればいいのだろうか。
答えは、まだ出ていない。
……けれどもそれは、どうにか選び出すしかないのだということもまた、わかっている。
私はこれまでに何度かオメガの集まりに出たことがある。互助会のようなものだ。典医さんに勧められて参加した。
そこで「つがい」のいるオメガに、「つがい」になった理由を素朴な疑問として聞いてみたのだが、答えは様々だった。
悩んだ末に決めたひともいれば、流れで「つがい」になったひともいる。
ひとりだけ、「運命」だったからごく自然な流れで「つがい」になったというひともいた。
――「運命のつがい」。
聞いたときは特になんの感慨も抱かなかったが、今はそれがちょっと羨ましい。
いわば神とか遺伝子とか、普通の手段では目に見えないなにかによって、あらかじめ相手が定められていたということになるんだろう。
それが、迷いに迷っている今の私には、ちょっぴり羨ましく映った。
けれども「運命」がいたオメガだって、「運命」を示された上でそれを選んだんだ。
なんにせよ、結局のところ自分の運命は自分で決めなければならないのだ。
私の疑問に真摯に答えてくれたひとたちも、そうしてきたのだ。
「急がなくてもいいのよ。あなたはまだ若いんだから。『つがい』になれるチャンスはいくらでもあるんだから」
私の心情を察したのか、典医さんは優しくそう言ってくれた。
けれどもどうしても、私は急かされているような気になってしまう。
誠也くんは優しくて、周りの人たちもみんな優しくて――。だからこそ、誠実な答えを早く出さなければならないような気になってしまうのだと思う。
しかしそれでも心の弱い私は、未だ迷いを断ち切れないでいた。
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