やなぎ怜

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「『第三夫人の凶行 一夫多婦制原因か 議論再燃』……」

 隣で総菜パンを片手にスマートフォンの液晶に映る文字を読み上げて、菜月なつきは品なく鼻で笑った。

「議論なんてするまでもなく、完全に、平等に、妻全員を愛せる男なんていないっつーの」

「ねえ、文子あやこ」。そう言ってこちらへと顔を向けた菜月に、文子は同意もせず曖昧な笑みを作る。

 小さな弁当箱から卵焼きをひとつ口に放り入れ、咀嚼しながら菜月から投げかけられた言葉を反芻する。

 ――妻全員を平等に愛せる男なんていない。

 ともすれば現在の世論では偏見だと糾弾されそうなその言葉は、文子にとっては身に痛いほど実感できるものであった。

「……まあ、たとえそれを実現できる男がいたとしても、女がどう受け取るかは別だろうね」
「そうそう! 本当、ひとの欲には際限がないって、結婚してますます実感するわー」

 紙パックの野菜ジュースをストローで吸い上げて、菜月はもう一度文子を見た。文子は菜月の視線を感じながら、平静を装ってホウレンソウのゴマあえに箸をつける。

「――で、文子のほうはどうなのよ」
「どうって、なにが」
「ひとり暮らし始めたってうわさ、本当なの?」

 さきほどまでのシニカルな笑みを引っ込めて、菜月は心配げな目を文子に向ける。文子はそんな彼女の視線にため息をつきそうになって、あわててゴマあえを飲み込んだ。

 菜月のこういうところを、文子は好ましく思うと同時に、今だけは鬱陶しく感じてしまう。

 デリケートかつプライベートな事柄だ。放っておいて欲しいと思うのも事実であったが、一方で洗いざらいをこの同僚にぶちまけてしまいたいと思っていることも、また事実であった。



 男女比の大幅な崩壊に伴い、結婚制度が改正されて久しい昨今。男性が複数の妻を持つことが、暗黙のうちに強制される社会で文子は幸いにも現在の夫と思いあって結婚した。

 夫の駿しゅんとは幼馴染で、年月をかけて友好を育むと同時に、そこに生じた愛着はいつしか愛情に変わり、大学の卒業と同時にその関係を夫婦という名へと変えた。

「文子が好きだ。世界で一番好きだ」

 ともすれば陳腐なその言葉も、文子にとっては甘い愛の囁きに他ならず、それだけで生きていけると思うほどに彼女も夫となった駿を愛していた。

 ふたりは愛しあっていた。互い以外には必要ないと言い切れるほどに。

 けれども社会はふたりだけの閉じた夫婦関係を許さない。

「それで、いつ第二夫人を迎えるの?」

 そんな言葉を投げかけられるのに、ふたりが結婚してからそう時間はかからなかった。

 人類という種が一夫一婦制であるか、一夫多婦制であるかは未だ意見の分かれるところである。

 それでも過去の歴史をさかのぼり、他国の法とを照らしあわせて、この国でも一夫多妻制を推奨する法が生まれた。

 回復の兆しを見せない出生率、男女比の明らかな崩壊……侃々諤々かんかんがくがくの炎が治まりを見せない中で、その法は施行され、社会は国の存続という大義名分を振りかざして、暗黙のうちに、男に、女に、一夫多妻を強制するようになった。

 それは思いあって夫婦となったふたりに対しても変わらない。

「俺はいやだよ。文子以外にも妻を迎えるなんて」

 同じ年でありながら、どこか文子に対してだけは甘えたなところのある駿は、泣きそうな顔をしてそう言った。

 けれども文子は知っている。幼馴染であるがゆえに、彼女は駿の生育環境も家庭の事情も心得ていた。もし、そうでなかったら――つまり、詳しく知る余地がなければ――文子も駿に雷同して、本心のままに一夫多妻を拒絶していただろう。

 しかし現実に文子は駿の心情を、事情を、よく知りすぎていた。

 幼いころの駿は体が弱く、頻繁に入退院を繰り返していたし、手術を必要とするような病気だってした。成人した今は多少なりを潜めたものの、それでも季節の変わり目ともなれば寝ついてしまうことも珍しくはない。

 そんな駿を彼の両親は心配していた。また大病を患わないとも言い切れない。そうなったとき、息子を支えてくれる人間は多ければ多いほどいい。過保護ともいえるその考えを、杞憂と断じれるわけもなく、そろって頭を下げる駿の両親を前に文子はあわてるばかりだった。

 時期も悪かった。社会人となったものの急激な環境の変化は駿の体には辛かったらしい。深夜に急な発熱をして救急搬送されて入院することが決まった日に、文子は駿の両親に呼び出されて先のことを言われたのだった。

 文子も駿もごく普通の会社員である。それも駆け出しともなれば収入はささやかなもので、保険に加入しているとはいえ、頻繁に入院などされては家計を圧迫することは必定だった。

 文子は駿を愛している。駿も文子を愛している。けれども現実というものは、愛だけでどうにかなるものではなかった。

 一方の駿も、そのうちに逡巡を抱えているということを文子は承知していた。幼少期から入退院を繰り返し、家計に負担をかけていたことを駿は両親に対し申し訳なく思っていたのだ。

 だから駿は両親の望むまま、結婚するまで独り立ちせず、できる限り近くの学校を進学先として選んだ。大学生になっても門限を守り、心配する両親を安心させようと心を砕いてきた。

 文子はそれらすべてを知っていた。

 だから文子は、最終的に駿の心からの言葉に聞かぬふりを決め込んで、第二の妻を迎える後押しをしたのである。

 駿はなにも言わなかった。ただ悲しそうな、申し訳なさそうな顔をしてそれを受け入れた。

 言い訳めいた言葉はなにも口にはしなかったし、文子を薄情だとも責めはしなかった。

 文子はそのことに安心しながらも、アンビバレンツな心は駿の態度に不満を覚えた。

 本心を言えば、文子は駿に第二の妻を迎えることを拒絶して欲しかったのである。なんとも、わがままな心だが、もちろんそれを理解しているからこそ、文子はそんな思いを表に出しはしなかった。

 不安もあった。

 文子はごく普通の女だ。ごく普通の中流家庭で育ち、非行に走ることもなく真面目に勉学を修めてきた。ともすればつまらない女であろうということは、なにより彼女が一番承知していた。

 けれども華やかな容姿とは対照的に、文子と同じ内向きの性格である駿は彼女を選んだ。目に見えて男性が少ない中で、優れた容姿も加われば選択肢は多かっただろうに、彼は文子を選んだのである。

 駿は冒険を好む性格ではない。だから安心感のある自分を選んだのだと、文子はずっとそう思ってきた。

 だから、不安なのだ。

 新しい女が妻という地位を携えて乗り込んできたとき、彼女が持つ魅力に、真新しさに、駿が惹かれないかどうか。慣れてくれば愛着も湧くだろう。そうなったとき、自分は耐えられるのか。

 それは決して口にはできない類いの不安だった。それは裏を返せば駿のことを信頼していないと言っているも同然だからだ。そのことを文子は理解しながらも、自分に自信を持てない彼女はネガティブな考えに支配されてしまうのであった。

「俺の一番は文子だよ。それは絶対に変わらないから」

 文子が駿の心を理解していると同様に、彼も文子をよく知りつくしている。

 だからこそ駿は第二の妻を迎えるあいだにも文子との時間を大切にしたし、頻繁に愛の言葉を言って聞かせた。

 そして駿はおどろくべきことに、これから迎える妻にもそれを強制した。

「俺の一番は文子だから」

 そう言って、それが受け入れられない妻候補たちをふるいにかけたのである。

 これには駿の両親はおろか、文子の両親までも苦言を呈した。特に文子の両親は娘を大事に思ってくれる心を尊重しながらも、同時に大切に育てた我が子がないがしろにされる辛さを駿に語って聞かせたが、駿の意思は固かった。

「俺にとっては文子が一番大切なんだ。だからそれが尊重されないなら、俺は他の女とは結婚しない」

 そうまで言い切られては、周囲は沈黙するほかない。

 文子ももちろん、駿に言った。複数の妻を持つからには平等に愛を注ぐべきであり、文子を優先するという行為は常識にもとるのではないかと。

 しかしそう言うと駿はまた泣きそうな顔をして文子を見た。

「俺は本当は、文子以外の妻なんて欲しくない。文子のことを一番愛してるから、本当は他の女と結婚なんてしたくない」
「でも――」
「わかってるよ。そうしなきゃいけない一端は俺にもある。けれど、俺にだって選ぶ権利はある」

 そうして選ばれた「妻」は三人。いずれも文子と駿よりも年上で、古い言葉で「キャリアウーマン」と呼べるような女性ばかりだった。

 ありていに言えば金目当ての結婚である。文子よりもずっと収入が良くて、自立した女性が選ばれるのは自明の理であった。

 彼女らはみな、社会的に成功しているという矜持があり、地位があり、収入があった。そして得たくても得られない夫というものを手に入れた。つまり下品な言い方をすれば、彼女らは社会的な「勝ち組」であった。

 そんな彼女らから見て、文子はどう見てもパッとしない、地味で目立たない女だった。意思が強いでもなく、闘争心に薄く、血統的に優れているでもなく、ありふれたひよっこである。文子に、他の妻からの不満が集まるのは、当然といえば当然だった。

 けれども駿は言葉をたがえず文子を一番に愛した。他の妻たちも、それにあからさまな不満を見せながらも、しかし結婚前に交わした約定ゆえに言葉には出さず、傍観するがままだった。

 駿は他の妻たちをないがしろにしたわけではない。日ごろから感謝の言葉を忘れなかったし、記念日も欠かさなかった。贈り物をするときも彼は平等だった。

 ただ、彼は文子を一番に愛していた。ただ、それだけのことだった。

 そのフラストレーションが目に見える形で爆発したのは、文子よりも先に他の妻が妊娠したからだ。

 彼女は、言い方は悪いが文子を出し抜けば――つまり、先に子を身ごもれば駿の愛情を独占できると夢見ていたのだろう。

 けれども現実は、なにも変わりはしなかった。

 駿は妊娠を喜んだ。我が子を迎えることを楽しみにして、あれこれとベビー用品を揃えた。妊娠した妻の体を労わった。

 けれども、彼がなによりも優先する、一番は文子だった。

 ただ、それだけのこと。けれどもそれだけのことで、妊娠した彼女が不満を露わにするにはじゅうぶんだった。

 議論は平行線をたどり、結論だけを言えば、家庭の空気に耐えられなかった文子がひとり家を出た。
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