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 ひと息で言い切った、おれの言葉に明はなにも返さなかった。けれどもつかんだ明の手指の筋肉が、深く呼吸するようにしなって、おれの手を握り締める。

 そしておれたちは、じっと見つめ合った。頭上の星々が目に入らないくらい、相手だけを見て――。

「……こういうときはしっかり返してやれよ。……やっぱりヘタレだな」
「……響さんは明と和解したいんだか、したくないんだかわかりませんね」

 柔和な様子はどこへやら、どこかやさぐれた声音で響さんはそうつぶやく。もしかしたら、こっちが素なのかもしれない。あるいは、おれたちの雰囲気にアテられて、嫌になってしまったとか。

「したいけど、やっぱりシャクだな。カワイイつがいもできたことだし」

 大きな腕を胸の前で組んで、響さんはそう言って片眉を上げた。こういう仕草が妙に様になる人だ。これでフリーと言われると、よほど運に恵まれていないか、選り好みをしているのか……。あるいは、もう心に決めた人がいるけれど、叶わない恋をしているとか?

 響さんを見ていると、明の手に再び力が込められる。ぎゅっと握られて、おれは明のほうへと振り返る。

 明はじっとおれを見ていた。その視線は熱く、ずっと見ていたらこちらが焦げついてしまいそうだ。

「あーあー……そういうことは帰ってからしてくれ、な?」

 響さんが無理矢理中断させるまで、おれは明と見つめ合っていた。

 響さんの言うことも確かだと思って、おれはちょっと恥ずかしさを覚える。明のほうは、どちらかと言えば不服そうな顔をしていたが。明の中の羞恥心は、確実におれとは基準が違う。

「帰ろう、明」

 おれの言葉に今度こそ明は足を動かした。けれども、その手は離れない。がっしりと、つかまれたままだ。

 おれはそのことについて明になにか問い質すこともできた。できたけれど、今はそうしたくない気持ちがたくさんあふれてきたから、おれはあえてなにも言わなかった。

 響さんは呆れた目でおれたちを見ていたけれど、結局なんにも言わなかった。恐らくそれは響さんの優しさなのだろう。それに感謝しつつ、申し訳なく思いつつ、おれは明と手をつないだまま、響さんと連れ立って駅へと向かった。


 社会人や学生の帰宅時間と重なって、騒々しい駅のホームで明は眉根を寄せている。明はうるさいのが苦手なので、仕方のないことだ。手のひらにも汗をかいているような気がして、おれは慰めるようにぎゅっと明の手を握り込む。

 おれよりも背の高い明を見上げる。明も横目でおれを見た。前よりも明の気持ちが手に取るようにわかるような気がして――おれは浮かれていた。

「――あ」

 響さんが唐突に声を出す。反射的にその横顔を見れば、いつになく真剣で、強張った表情になっていた。

 同時に、こちらに向かって二人組の中年男性が連れ立って進んでくるのも見える。

 それを確認すると、響さんはおれと明を背に隠すようにして一歩前へと進み出たかと思えば、あっという間に二人組の中年男性の元へと小走りに行ってしまった。

「……どうしたんだろう? 知り合いかな?」

 剣呑な空気は感じていたが、響さんが知っているらしい男性ふたりを見ても、おれにはまったく見覚えがなく、どうすればいいのかわからない。

 のん気に明を見れば、明も響さんとよく似た顔をしていた。やっぱり血の繋がったイトコなんだなと、おれは場にそぐわないことを考える。

 しかしこちらから取れるアクションもないので、おれはぼんやりと響さんとふたりの中年男性を見ているしかない。

 そのうちに、二人組の中年男性のうち、片方が興奮してきたらしく、大声を上げて響さんの肩を押すように叩くのが見えた。

 周囲にいる人々も、その剣呑な空気に気づき始め、視線が響さんたちに集まって行く。

「どうしよう……?」

 明がぎゅっとおれの手をつかんだ。その視線は響さんのほうに釘づけだった。

 響さんと男性の言い合いはヒートアップしているようで、ここからでも言い合いの端々が漏れ聞こえてくる。

「――たかが親戚が――」
「――あいつのせいで――」
「――を返せば――」

 やはり言い合いになっているからには内容も不穏で、おれは心臓のあたりがざわざわと騒ぐのを感じる。

 手のひらに嫌な汗をかき始めているなと自覚した頃に、響さんと言い合っていた中年男性と視線があった。

 その瞬間、なぜか全身の毛穴が開いたような気持ちになった。

「おい、やめろ!」

 響さんはそう叫んで、言い合っていた男性の肩をつかんだ。けれども男性はそれを乱暴に振り払って、大股でこちらに向かってくる。

 その顔は――憤怒の情に満ち満ちていた。

「やめろ! くそ、明、逃げろ!」

 男性へと走り寄る響さんの言葉を聞いて、明が危ないのだとおれは思った。

 そして気がつけばおれは明をかばうようにして前に出ていた。

 瞬間、視界が黒くなる。

 次には白くなった……ような気がした。

 それから、おれの背中が勢いよく明の胸に当たる。

 ――あ。おれ、殴られたのか。

 そう思ったのは一瞬のうちの話だろう。けれどもおれにはものすごく長く感じられた。走馬灯って、こういうときに見るのかもしれないと思いながら――おれは目の前にいる男性の頬に向かって拳を突き出していた。

 ……生まれてはじめて人を殴った感想は、「殴った拳が痛い」という情けないものだった。

 なんの訓練もしていないのだし、これは当たり前かもしれないし、そもそも指の表面や手の甲が鍛えられるものなのかどうかさえ、おれは知らない。

 いずれにせよ、おれが中年男性に殴り返したという事実は揺るぎがない。

 おれの胸に去来し、おれの拳を突き動かしたのは、明を守らなければという感情だった。

 おれは確実に明よりも弱っちいが、明の腕は、手は、大切なものだ。おれをいとおしげに描いてくれるその器官が、傷つけられることはあってはならないと、おれは瞬間的に思った。

 ……思ったのだが。

 明はおれのそういう気持ちを吹き飛ばすように、おれを殴った中年男性を殴り飛ばしていた。

 そして明に殴られた中年男性は、二メートルくらい吹き飛んだように見えた。

 おれは目の前で繰り広げられる現実にびっくりしながら、おれの記憶の中にいた、明に殴り飛ばされる父親の姿は、案外と作られたものばかりではないのかもしれない――と思った。

「明! やめろ、殴るな!」

 あせりがにじむ響さんの声で、おれはようやく現実の時間に戻ってこれた。別種の騒々しさに満ちたホーム。のん気にスマートフォンのカメラレンズを向ける人々。こちらへ走ってくる駅員さん。荒い呼気を吐きながら――おれを抱きしめている、明。

 ――これって現実? どこか夢見心地の空気のままだったのに、急に頬が痛み始めて、これが夢などではないのだと教えてくれた。
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