ディンバー公子の初恋

夏目晶

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  第一話 「ディンバー公子街へ行く」

第一歩 定食屋で朝食を

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 城下街に入ると、活気に満ちた声と胃袋を刺激する良い香りに包まれる。
 色とりどりの屋台では粥やパンを買い求める者、果物を抱える者、その間をすり抜けるように給仕をする者が芸術的な体捌きで動き回っていた。
「肉も良いけど……あの、炒めた奴が旨そうだな」
 ふらふらと匂いにつられて店に入ろうとするディンバーに、一人の少年がぶつかった。
「すみません!」
 少年は忙しそうにそう言うと、さっとディンバーの脇を通り過ぎる。小走りの少年の肩がディンバーから離れようかという瞬間、ディンバーの上半身は強い力に引きずられて少年へと傾いでしまった。
 ただでさえ注意力散漫状態。ディンバーは思いっきり少年の上にのしかかる形で転んだ。「ぐえっ」っと、それこそカエルを潰したことのあるディンバーがあの時の惨状を思い出すような声を発して、少年が地面と完全密着した。
「ご、ごめんよ。何か引っかかったみたいで。ああ、どこか痛くしたかな」
 慌ててそう言いながらディンバーが立ち上がる。ちょうど少年の脇の辺りに一本の紐が見えた。つつつっとその紐を目で辿ると、ディンバーのカバンに行きつく。
「あ。これが引っかかったんだな」
 ディンバーが紐を引っ張ると、少年の脇から茶色の塊が飛び出した。
 革製のそれはディンバーの財布だ。飛び出て来たそれを掴むと、未だうつ伏せたままの少年を覗き込む。どこか打ちどころでも悪かったのだろうか。
 とりあえず腕を掴んで引っ張り上げると、少年はふらふらと立ち上がった。
 砂埃にまみれた顔を赤くし、眉を吊り上げてディンバーをにらみつけた。
 紺色のシャツはところどころかぎ裂きが出来、茶色のズボンは見るからにサイズが合っていない。粗末なサンダルの紐は、自分で付け替えたのだろうか左右の色が違っていた。
「あ、あんた……俺を、突き出すんだろ。畜生、面倒なのにあたっちまった。無防備にプラプラしてっからいいカモだと思ったのによ。いまどき爺さんみたいに紐でつないであるなんて……ついてないぜ」
「突き出すってどこに?」
 ディンバーがそう問いかけた時、ディンバーはまた突き飛ばされるような形で少年に覆いかぶさった。通行人が背中にぶつかったのだろう。転びはしなかったが体当たりする形になった少年は、どこかにぶつかったのか腰のあたりを押さえて呻いている。
「あ、ホントごめん。大丈夫?」
「あんたら突っ立てないで、入るならさっさと入っておくれ!」
 間後ろからそんな声がかかり、ディンバーと少年は返答する間もなく店の中に押し込まれてしまった。
 オレンジ色のテントの中は、小さなテーブルと背もたれの無い椅子が所狭しと並ぶ、活気にあふれた食堂だった。赤いエプロン姿の店員が、両手に大量の皿を持ってそのテーブルの間をすり抜けて行く。
 とりあえずディンバーと少年は開いた椅子に座らされた。
「いらっしゃい。朝のセットで良いかい」
「は、はあ」
 褐色の肌を惜しげもなくさらした女性が手の中の帳面に何かを書きつけて、風のように去っていく。その姿を思わず目で追いかけていたディンバーだったが、正面に座った少年が立ち上がったのを見て、慌ててその手を掴んだ。
「どこに行くんだい」
「どこもなにも、金が無いのに飯が食えるかよ。あんたが俺を警察に突き出さないなら、おれは逃げる。当たり前だろ」
「んじゃ、俺が出すよ。突き飛ばした詫びにさ。それになんで俺が君を警察に渡さなくちゃならないんだ」
 少年はポカンと口を開けた。そんなに妙なことを言っただろうか。
 理由を思い当たらないディンバーは笑ってごまかすことにした。
「いや、俺はさ、あんたの財布を引いたわけで」
「ああ、財布ね。あんなもん盗ってどうするんだ。コレクション?」
「はぁ? コレクションなわけねぇだろうが。金だよ金」
 ディンバーは首をひねった。財布が欲しいという彼の言葉と、金とが結びつかない。しかし誤解しないでもらいたい。ディンバーが財布の存在意義を知らないわけでも、「俺は金を自分で払ったことなど無い」何て言うご子息様なわけでもなく、ただ彼の家の教育方針が少し……いや、かなりずれているからなのだ。もっとも彼が自分で買いものをしたことなんて、学生時代に数えるほどなのだが。
「財布には金なんて入ってないだろ」
「何言ってんだあんた」
 少年は逃げようとしていたことも忘れたように、すとんと椅子に腰かけた。
「えー? 何言ってんだって言いたいのはこっちだよ。財布だろ。ほら」
 ディンバーはそう言って問題の財布を取り出した。
 財布は財を入れる布。彼の母はそう言ってディンバーを教育した。
 財とは何か。
 確かに一般的には現金。金や宝石を入れる者も多かろう。「財」を入れるのであるから財布だって金や宝石が入っていたからと言って文句は言わない。だが、ディンバーの家には、金も宝石も腐るほどあった。それこそその辺に転がっていたのだ。だからこそ、ディンバーには金や宝石に対する「価値のあるもの」という認識がすこぶる低い。これは公爵家の他のメンツの常識でもあった。
 では公爵家にとっての財とは何か。
 大国の王位継承権者が二人もおり、そのうちの一人は第二位を持つ公爵その人。そしてもう一人は同世代が誰もいないという第八位のお坊ちゃん。
「……これは、何?」
「俺の出生証明書。ほら、ここにあるだろ。聖エダル・ディンクス公国 サイマール・ディエト・ヴァンディエス・エルダ・ゴーニャ・スナタン・ディンスイエル・バーナート。な?」
 茶色の皮財布を開くと、中にはポケットの類は一切なく、いかにも高価そうな紺色の布張りがなされ、そこに金糸と銀糸で長々しい名前が刺繍されていた。そこにはここに住む者なら子供でも知っているサイマール領のマークと、ちりばめられた小さな宝石が縫い込まれている。そして王位継承者の証である剣の紋章。
 つまり財産とは人。
「あんた……公爵様?」
 少年の顔から血の気が引く。
「え、そりゃ親父様でしょ。俺はただの……ええと、何て言ったらいいんだ。仕事も特にしてないし。学校は去年卒業したし。フリーター? いや、ちがうな。何せ仕事してないし。一日中屋敷にいるし」
「ひきこもり?」
 ぼそりと少年が呟いた。
 その声はディンバーの耳にも入る。
「それは違うぞ。断固違う。俺は屋敷の外には出てるもんね。たいがい外にいるもんね。……そりゃ、裏山とかだけどさ」
「ちょ、ちょっと。あんた。とりあえずその財布しまってよ。っていうか、何簡単に自分の身分明かしちゃってんのさ!」
 肩を落としたディンバーに少年は慌てた様子で声を掛けてきた。のそのそと財布をしまいながら「何か問題でも」とディンバーが首を傾げると、凶悪に眉を吊り上げた少年が、上半身をテーブルの上にかぶせてディンバーの襟をつかんだ。何をするのかと目を丸くしたディンバーの耳元に口を近づける。
「当たり前だろ。金持ちには誘拐がつきもので、王位継承権者には暗殺がつきものだろうが」
 声をひそめ、鋭くささやくとすぐに椅子に座り直す。
「はぁ。そう言うもんかね。今までも特に問題は無かったんだけど」
「そりゃ、あんたの周りが優秀だったんだろ。で、何してんのさ。城下っていっても、こんな日雇いが来るような店に何の用事があったんだよ。ここが上納金でも納め忘れてたか」
 そんな時、ドンと音を立てて大きな皿が二つ二人の前に置かれた。
 腹をすかしていたディンバーは少年のことも財布のこともすっかり忘れて目の前のさらに見入ってしまった。
 油で綺麗に光った葉物には黒いソースが適度にまぶされており、香ばしさとタレが焦げたような甘い匂いが漂っている。火を入れられた分だけ葉物の色は鮮やかさを増していて旨そうだ。申し訳程度に押し固めた塩漬け肉のスライスが入っており、炒め物にしては嵩も多い。細い緑色の茎からは何とも言えない食欲をそそる香りが漂ってくる。
 米は器の周りに二粒がつくほどに乱暴に盛り付けられてはいるが、焦げがつく風情も旨そうな炊きあがりだ。ふっくらとしたフォルムに光沢も申し分ない。傍らの黄色と紅色のものは邸内では見たことのない代物だった。小皿に盛られているから食べ物なのだろうが、装飾品としてもかわいらしくてとてもよい。汁物は透明の軽い器に盛られていた。白い朧が薄い茶色の汁の中で楽しそうに泳いでいる。ほのかに立ち上る湯気にディンバーの鼻がひくひくと動くのも仕方の無いことだ。
「朝食のプレートにしてはボリュームがあるな。デザートだけは別サーブか」
 ディンバーを無視して早速食事を始めていた少年が、口の中にものを詰め込んだまま、あきれた様子で箸でディンバーの前にあったオレンジ色のものを指示した。
「……ミカンあんじゃん」
 少年はいろいろとあきらめた風情でそう言った。
「ミカン? これが、ミカン? いつもはこうもっとぷりっとした感じで」
「ぷりっと? あ、そりゃ皮が剥かれてるんだよ。まったくうっとおしい兄ちゃんだな。いいから喰えって。こういうところであんまり長居してると、頭から水掛けられんぞ」
 見れば少年の器は既に半分が開こうとしている。ディンバーも慌てて箸を取った。



 見よう見まねでミカンの皮をむき、白くてほそい筋も丁寧にとってから、やっとディンバーはミカンにありついた。それでも屋敷で食べているものとはちがう。どうやら屋敷ではさらに一枚皮をむき、冷やしてからテーブルに載っていたようだった。
 少年は筋すらも気にせずに表一枚だけを剥くと、房をはぎ取って口に放り込む。薄皮は食べられるものなのかとまじまじと観察もしてみた。
「で? 結局お咎め無しなら俺はそろそろ行くわ。財布引いちまって悪かったな。ご馳走さん」
「あ? ああ。こちらこそ、押しつぶしてしまって悪かったな。あ、それはそうとついでにもう一つ教えてくれ。支払いはどこにサインをすればいい?」
 立ち上がりかけた少年がポカンとした表情でディンバーを見てから、頭を抱えてため息をついた。
「サイン? サインって何だよ」
「サインはサインだろう。買い物をするときにはサイン。仕立て屋にも庭師にもサインしてるぞ俺は」
「そりゃ……そうか、あんたは公子子息様だったっけな。ええと、金っていうか現ナマ……じゃなくて現金お持ちですか?」
 目が笑ってない。口元をはじめ表情は笑顔に近いのに顔が笑ってない。ぐぐぐっと少年の顔が近寄ってきて、ディンバーは情けなく体を引いた。
「は、はい」
「出せ」
 ずいっと掌を突き出して、少年が険悪な表情を浮かべる。
 このときの彼の頭には、「めんどくせぇな。ちょっと値段吹っかけて請求して、残りは貰っちまおう」という子供の釣銭横領的なせこい考えが浮かんでいたのだが、ディンバーがもたもたと上着から糸くずと一緒に帝国の最高額紙幣を取り出したことで吹き飛んでしまった。
 少年の手がディンバーの鼻さきをかすめるようにしてテーブルに置かれる。バシンと音がした。
「ば、ばか。しまえ。今すぐしまえ。これじゃなくて、もっと小額紙幣があるだろ」
「え、ええと。これか。いやこっちか。十だからコレのほうが下か」
 あちこちから出てくる紙幣を少年はあきれた様子で見つめていた。
 彼が掌で隠しているのは、帝国最高額紙幣。一生出会わないで終わる人が多い高額紙幣だ。どのくらい高額かといえば、下に店舗を備え四人が悠々暮らせる家を大通り沿いに買えるくらいの金額だ。
「こりゃさすがに掏れねえよ。捌くにしても足がつく」
 呟く少年にも気付かずに、ディンバーはいくつかの紙幣を自分の衣服やらかばんやらから探し出した。そのたびに少年が説明を加える。
「緑のは一般的な金額紙幣。一万が一番上で千が一番下。赤いのは高額紙幣で十が一番で一が一番下。ちなみに赤の一は緑の一万が十枚必要。おーけー?」
 そもそも普通の生活をしているうえで赤い紙幣は必要ない。商店などの取引金額が多いところで赤の紙幣を使っている。ディンバーにも知識はあるが、何せ現金に対しての経験値がやたらと低いために、なかなか使いこなすところまで到達しないのだ。
「朝食二人分で、どのくらいなんだ」
「あー。九百バルだから緑の千でコインが戻ってくる。」
 少年は緑色の千バル紙幣を摘みあげ、トレイの下に挟み込むと席を立った。細い顎が動かされ、席を立つことを促されたディンバーもそれに倣う。
 少年に押し出されるように店を出たディンバーは、道の脇に移動した。これならばどこかに押し出されることもないだろう。少年の袖を掴み、逃がさないとばかりににっこりと笑う。
「なんだよ。支払いも無事済ませて万事オッケーだろ。ちゃんと迷わずにお家に帰れよ」
「ちょっと待って。ちょっとだけだから」
 ディンバーの力は結構強い。
「ちょっとだけって、何がだよ」
 引きずられてたたらを踏んだ少年は、面倒くさそうにディンバーを見上げた。ディンバーと少年では頭一つ半は身長が違う。
「とりあえず、どっかいい宿知らないかな」
「は? あんたこっちに泊まる気!? 嘘だろ、ほら、お家が見えませんかね」
 確かに少年の指が示しているのは、この町ならどこからでも見えるディンバー公爵邸だ。ちなみに外観は黒と金。目立つことこの上ない。
「見えてるよ。でもね、俺追い出されたからさ。さすがに今日の今日で帰るわけにもいかないし、そもそもアリューシャを見つけなくちゃならないし……」
「追い出された……御家騒動的な何かデスカネ」
 少年は少しばかり青ざめて、ちらりと公爵邸を見た。
 ディンバーの家がこの地を治めるようになったのは、ほんの十年くらい前のことだ。現在の公爵がこの地を治めるようにと王から言い渡され、先代領主を追い出す形でこの町を取り仕切り始めた。それまでの領主は、相次ぐ後継ぎ騒動や愛人騒動でこの町をたびたび戦火に陥れた人物だったのだ。
 十年平穏に過ごしてはいるものの、住人にとって「御家騒動」「愛人」「後継ぎ」何て言葉は不吉ワードそのものだ。また戦争になるのか。直接戦火を見たわけではないが、騙られる状況は悲惨そのものだったのだ。未だにその時の遺体が見つかることがあるくらいだ。
 やっとのことで活気を取り戻してきたのに。今度の領主は平和主義で良いと思っていたのに。そんな背景が少年を暗くしているのだが、当のディンバーは日に焼けた金髪の先端をいじりながら、たまに枝毛を割いてみたりしている。
「いやいや、騒動なんてもんじゃなくて」
「なんてもんじゃなくて、もしかして廃嫡!?」
「いやいやいや。勝手に俺を勘当しないでくれ。あ、でも見つけられなかったら本気で追い出されそうだな」
 青ざめる少年とは対照的に、のんびりとそんなことを言いながらディンバーは道路わきの石に腰かけた。
「だから、なんとか探し出したいんだよね。そうすれば万事うまくいくって言うか」
「何を!? 何を探すんだよ。俺も手伝ってやるから、ちゃっちゃと探して家に帰れ。な?」
 一緒に探してくれるのかと一瞬で笑顔になったディンバーに、少年はやけに真剣なまなざしを向けた。
 ディンバーは眉尻を下げて笑う。
「ええと。婚約者?」
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