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第一話 「ディンバー公子街へ行く」
第十四歩 母
しおりを挟むさらに人が増えた。黒い燕尾服を着た男と、ドレスのすそをあられもなく結びあげた女性だった。その後ろからもう一人中年の女性が飛び込んでくる。ただでさえ狭い家は人で溢れかえった。
女性はキールを押しのけると、ディンバーの口元から胸元を見る。じっと観察してから息を吐いた。
「……大丈夫。呼吸は戻るわ」
そう言っててきぱきと持ってきた道具の中から袋のようなものを取り出し、先ほどまでキールが息を吹き込んでいた管に装着する。喉の周りを粘着布のようなもので固定してから、ふっとキールを見て微笑んだ。
「ありがとう。もう、大丈夫よ。後はこの子が頑張るだけ」
同時にワッツの隣に燕尾服の上着を脱いだ男が近寄る。
「代わります。少し休んで」
タイミングを合わせてワッツと代わると、ワッツは汗だくのまま床に尻もちをついた。その手が震えている。
「……あ、助かった。もう腕の感覚がないぜ」
確かにワッツの太い腕は、小刻みに震えていた。そんなワッツが燕尾の男を見て目を丸くする。
「あんた……そのカッコってことは……あれか、潔癖症のアーウィン」
ワッツがことのほか大声でそう言ったので、キールも思わず男を見た。
「そう言うことを言うのは、このあほですよね。全く……早く起きていただかないと、叱るものも叱れない」
タイミング良く胸を押しながら、複雑な表情を浮かべ、きっちりと撫でつけた髪が乱れるのもいとわずに、何度も何度もディンバーの胸を押す。
医者なのだろう中年女性はいくつかアーウィンに指示を出すと、キールに向き直る。
無言のまま、真剣な表情で手をとられ、肩と耳を触られる。
「……耳は……機能的には問題ないけれど、形は戻らないわ。腕は……肩の部分は固定すれば大丈夫だけど……手は一度骨の位置を戻さないと。ちょっと長くかかるわね」
中年の女性は入口を振り返った。ドレス姿の女性が床に膝をつく。
「大変、大変……ご迷惑をおかけしました」
泥や血やその他もろもろで汚れた床に、平身低頭。いわゆる土下座という奴だ。
慌ててウィリケが傍に行く。
「顔をあげてください。そんな、そんな」
「いいえ。そちらの方のお怪我もそうですし、このような……みなさんがいらっしゃらなかったら、うちの愚息どもはディンもロクもとっくに鬼籍入りしています。本当にご迷惑を……それに、ここまでしていただいて、ありがとうございます」
「違う。違うよ……公爵夫人? いや、……ディンバーのお母さん。俺ら、必死だったんだ。友達助けたかっただけなんだ。だから、謝ったりとかしないでくれよ。俺ら……俺らの意思で、こいつを死なせたくないって」
声が震えた。今更ながら怖くなった。
とたん、ディンバーの母に抱き締められる。
「ありがとう……。なんて、なんて言ったらいいかわからないわ」
震えているのはディンバーの母も同じだった。その背中をいたわるように撫でてやると、そっと身体を離される。
「シュリ様!」
女医が声を挙げた。
そちらを見ると、いつの間にか口から管を通されたディンバーが、わずかに目を開けたのが見える。
キールはシュリと一緒にディンバー傍らに駆け寄って膝をついた。
「……この、馬鹿。無茶しやがって」
「ホントよ。ここまで勝手をしていいなんて言ってませんからね」
まだぼんやりとしているのだろう、ディンバーはゆっくりと視線を動かしてから、再び目を閉じた。
「大丈夫ですよ。まだ呼吸はうまくできないみたいですけど、気道への一撃はかろうじて全損を免れてます。というより、そらしたと言った方が良いのでしょうね、多分。このまましばらくは管を通して、後は外からの治療で大丈夫。ただ、今日明日は熱も上がるだろうし、だいぶ心臓に負担がかかったみたいなので、できれば動かさない方が良いのですが」
「馬車を呼んでもだめかしら」
「ロクの方は大丈夫でしょう。ちょっと頭を揺らされたのと、顎を砕かれてるので痛むでしょうけど……むしろ、ロクの場合は連れて帰って腕を……切断した方が良いと思います。血管損傷が大きいので、出血が止まらなくてきつく止血をしたみたいなんですが……先端はもう」
部屋に沈黙が落ちた。
ロクも今は意識を失っているが、役目を終えたアーウィンが手のあたりの布を整えている。
俺らはみんな一緒に育ったんで
ロクはそう言っていた。ということは、アーウィンにとっては、兄弟をいっぺんに傷つけられたということだろう。なんと声をかけたものかと思っていると、ウィリケがパンと手を叩いた。
「では決まりね。ディッツ君は家で預かります。ロク君はおうちに帰って治療。メイ、お向かいのおばさんに馬車を呼んでもらって。キール、私はベッドの草を変えるから、あなたはシーツを用意して。なにぼんやりしてるの。早く早く! ジル、お母さんを手伝って!」
ウィリケはてきぱきとそう言うと、部屋の奥から寝台用の変え藁の束を持ってくると、ジルとメイが使っていた寝台の藁をとり変え始めた。
その様子にシュリの方が呆然とする。
「でも、ええと……」
「ウィリケよ。動かせないなら家でいいじゃない。一応掃除もしてるし、藁もしっかり管理してるから大丈夫よ」
「いえ、そうじゃなくて……ご迷惑に」
「なぜ? 息子の友達を止めるだけじゃない」
ウィリケはそう言って笑った。いつもの弱弱しさはなく、そこには一人の母親がいた。
「そうね、そうね……では、遠慮なくそうさせてもらうわ。バカ息子をよろしく。起きたらコキ使っていいから。それとアーウィンを置いてくので、しばらくは息子さんの代わりに使ってやって。それから、それから……ありがとう」
涙ぐむシュリにウィリケはことのほか明るくほほ笑んだ。
「いいのよ。その代わり……名前で呼んでくれる? 私も名前で呼んでもいいのかしら」
シュリはきゅっとウィリケを抱きしめた。
「当たり前よ、ウィリケ」
「ディッツ君のことは任せてよ。シュリ」
ウィリケもまた、修理の背中を軽く叩いた。
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