毒見役の少女が愛を知った日

ふくろうまる

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毒を拒む誓い

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 マリアと庭園で会った夜

 ヴォルテ家の屋敷は、昼間の華やかさが嘘のように静まり返っていた。
 長い廊下には等間隔に燭台が並び、橙色の火が揺れている。磨き上げられた床には、その光が淡く反射していた。
 ルーカスは、自室の窓辺に寄りかかりながら、庭園を見下ろしていた。

 月が出ていた。

 白く淡い光が花壇を照らし、昼間とはまるで違う表情を作り出している。

「……参ったな」

 小さく呟き、肩をすくめる。
 視線の先には、昼間マリアと歩いた小道があった。
 たったそれだけのことなのに。
 思い出すだけで、胸の奥が妙にざわつく。
 これまで、恋愛経験がなかったわけではない。
 舞踏会で声を掛けられたこともあるし、貴族令嬢から意味ありげな視線を向けられたこともある。だが、そのどれにも心は動かなかった。

 ――退屈だった。

 美しく整えられた笑顔。
 計算された言葉。
 家柄と利益の天秤。

 すべてが、作り物に見えた。

 だから彼は、努力を辞め貴族社会から距離を置いた。
 狩りに出て、街へ逃げて、酒場で身分を隠して語り合う。
 その方が、よほど人間らしいと思えたからだ。

 だが。

「……あの子は違う」

 はっきりと言い切れる。
 初めて廊下で見たときから、ずっとそうだった。
 料理を運ぶ姿は、静かで。
 無駄な動きが一切なく。
 誰よりも丁寧なのに、決して自分を主張しない。

 まるで――祈りの像。

 あのとき感じた違和感を、ルーカスは今でも覚えている。
 人は普通、誰かに見られれば、少しは自分を飾るものだ。
 だが、マリアにはそれがなかった。
 見られていることを、最初から諦めているようだった。
 それが、妙に胸を刺した。

「毒見役……か」

 低く呟く。
 あの事実を知ったとき、怒りに似た感情が胸を突き上げた。
 屋敷に必要な役目であることは理解している。
 だが、あまりにも軽々しく扱われている現実が許せなかった。
 毒を食べる少女が、あんなにも穏やかに笑うなど――正常ではない。
 窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。

「……俺は、何をしたいんだろうな」

 問いかけても、答えはすでに分かっていた。
 彼女を救いたい。
 そんな英雄じみた願望ではない。

 ただ。

 彼女があの無表情のまま人生を終える未来を―想像したくなかった。
 ルーカスは、昼間の庭園を思い出す。
 花の名前を教えたとき。
 マリアは、ほんの少しだけ微笑んだ。
 ほんの一瞬。
 だが確かに、そこに感情があった。
 あれを見た瞬間。
 彼の中で、何かが決定的に変わった。

「……もう一度見たい」

 思わず零れた本音に、自分で苦笑する。
 なんとも単純だ。
 だが、不思議と恥ずかしさはなかった。
 むしろ、胸の奥が妙に晴れやかだった。
 ルーカスは机へ歩き、酒の入ったグラスを手に取る。
 だが一口飲んで、すぐに置いた。
 味が分からなかった。
 代わりに、頭に浮かぶのはマリアの横顔ばかりだった。

「……対等に見たい、か」

 昼間、自分が言った言葉を思い出す。
 あれは、衝動だった。
 だが、嘘ではない。
 彼女は何度も「身分が違う」と言った。
 それは彼女にとって、揺るがない現実なのだろう。

 だからこそ。

「……壊してやるよ、その常識」

 小さく笑う。
 軽い調子の言葉だったが、その瞳には迷いがなかった。
 マリアが応じれば家の態度は一変する。
 当主は、憤怒する。
 兄は、弟と認めなくなる。
 最悪、名を奪われ追い出される。

 だが、それでも構わないと思えた。

 どうせ家の期待は、全て兄のものだ。
 それならせめて――
 自分が選んだものくらい、守ってみせたい。
 ふと、庭園の奥にある使用人部屋に視線が向く。
 あの中のどこかに、彼女はいる。
 今頃、何を考えているのだろう。
 自分のことを迷惑だと思っているかもしれない。
 あるいは、本気だと信じていないかもしれない。

「……それでもいい」

 ルーカスは静かに呟いた。
 時間はいくらでもある。
 何度でも言えばいい。
 何度でも、証明すればいい。
 逃げられても、構わない。
 そのたびに追いかければいいだけだ。
 夜風が窓から吹き込み、カーテンを揺らした。
 月明かりが、部屋の床に長く伸びる。
 ルーカスはその光の中へ、一歩踏み出した。

「君を、絶対に独りにはしない」

 誰にも聞こえない誓いだった。
 だが、その声は確かに、夜の静寂へ溶けていった。
 そして同じ頃。
 屋敷のどこかで、一人の少女が蝋燭の火を見つめていることを―

 彼は、まだ知らなかった。
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