毒見役の少女が愛を知った日

ふくろうまる

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毒で生きる少女

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 ルーカスと庭園で会った夜

 使用人の自室に戻ったマリアは、灯した蝋燭の前でじっと椅子に座っていた。

 火は小さく、頼りなく揺れている。窓の外では夜風が庭園の木々を撫で、葉擦れの音が遠くから囁くように届いていた。

 マリアは、ルーカスの言葉を何度も反芻していた。

『君は、人間だ』

 胸の奥で、その声だけが妙に鮮明に残ってイル。
 最初は――冷やかしだと思っていた。
 貴族が庶民に向ける、退屈しのぎの戯れ。
 あるいは、奇妙な趣味の延長。
 だから、マリアは最初から信じなかった。
 信じてはいけないと、思っていた。

 ―だが。

 違うように思えた。
 庭園で花の名前を間違えたとき、ルーカスは笑いながらも丁寧に教えた。決して嘲ることはなかった。貴族特有の優越感も、見せなかった。

 それどころか。
 マリアの話を聞こうとした。

 出身の村のこと。
 好きな食べ物。
 屋敷での仕事。
 どれも、興味を持たれないような話だがルーカスは、本当に楽しそうに耳を傾けていた。

「……変な人」

 マリアがぽつりと呟く。

 だが、その声は責める響きを持っていなかった。
 むしろ――どこか、温度があった。

 マリアは机の上に置いた自分の手を見つめる。
 細く、傷だらけの指。
 屋敷の掃除と洗濯で傷んだ手、そして

 ――毒見役。

 その言葉が胸の奥に沈む。
 毒を食べ、主を守る。
 それが今のマリアの価値。
 感情は不要だった。恐怖は、仕事を失う。
 希望は危険だった。家族とは、もう会えない。
 未来は、必ずあるものではない。
 そうやって、自分に言い聞かせた。

 しかし、

「……もし」

 小さく呟いた瞬間、マリアの胸が強く脈打った。

「もし、あの人と……」

 そこで言葉が止まる。
 続けることが、怖かったのだ。
 現実は常に非情だ。
 それを、マリアは学んでいた。

 凶作の冬。
 空っぽの食卓。
 それでも笑って「大丈夫」と言った両親。
 淡い期待を胸に抱いて訪れた屋敷。
 それが毒見役。
 胸を締め付ける思い出ばかり。
 マリアは慌てて首を振った。

「……駄目」

 椅子から立ち上がり、窓を開ける。
 夜気が流れ込み、蝋燭の火が大きく揺れた。
 冷たい空気が頬を撫で、少しだけ思考を静めてくれる。
 遠くに、庭園が見えた。
 昼間、ルーカスと歩いた場所。
 月明かりに照らされた花壇は、昼とは違う静けさを纏っていた。
 その光景を見た瞬間。
 胸の奥に、微かな熱が灯る。

 ――もしかしたら。

 彼と共になれば。
 本当の幸せが訪れるかもしれない。
 その考えが浮かんだ瞬間、マリアは息を呑んだ。
 毒見役として封じてきた感情。
 未来を望むこと。
 夢を見ること。
 それらはすべて、許されないはずだった。

 だが。

 ルーカスの笑顔を思い出すだけで、心が揺れる。
 まるで、凍りついた湖面に小石が投げ込まれたように。
 静かだった水面が、波紋を広げていく。

「……私は」

 言葉を探す。
 だが、見つからない。
 代わりに、胸の奥から湧き上がるものがあった。

 怖れ。
 期待。
 そして――ほんの僅かな、喜び。

 マリアは窓枠を握りしめる。
 そのとき、不意に思い出した。
 毒見役の先輩が言った言葉を。

『毒っていうのはね、すぐに命を奪うものだけじゃないのよ』

 かつて、冗談めかして語っていた。

『ゆっくり心を蝕むものもある』

 そのときは、意味が分からなかった。
 だが、今なら――少しだけ分かる気がした。

「……恋も、同じなのかもしれない」

 呟いた瞬間、自分で驚き、唇を押さえる。
 そんな言葉を口にする資格など、自分にはない。
 そう思いながらも。
 胸の鼓動は、収まらなかった。
 マリアはゆっくりと窓を閉める。
 そして蝋燭の火を見つめた。
 揺れる炎は、不安定で。
 今にも消えそうで。
 けれど確かに、そこにあった。
 彼女はその火を、吹き消さなかった。
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