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7-2.
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毛皮の上着と脚絆を身につけ、腰には黒い鞘の短剣を手挟んで森を進むカガチ。その数歩先には、巨大な黒狼スースが二本の尻尾を揺らしながら歩いている。
【混沌の森】はその名が示す通り、場所ごとによって植生ががらりと変わる無軌道さを誇っているが、スースに先導されて歩くカガチの目には、進むにつれて順当に鬱蒼としていく景色が映っている。散歩と称して森の中で過ごしていることの多いスースは、この辺りのこともよく分かっているのだろう。足取りに迷いはない。
――大丈夫、スースに任せておけば平気……!
カガチは腰の短剣を左手で撫でてながら、スースの背中と揺れる尻尾だけを見て、置いて行かれないよう歩くことだけに専念した。
「……」
スースは足を止めないまま、ちらりとだけ振り返って横目でスースを見やる。
狩りをするのにその心構えはどうなのか……と思わないでもなかったが、カガチには初めての狩り、いや初めての森歩きだ。最初は自分についてくることだけ考えてもらうほうがいいか、と考えたスースは、周りに対して無警戒で歩くカガチを注意しなかった。
奥へ進むほど密度を増していた木々が、そこへ着いた瞬間、ぱっと開けた。
「わ……」
ずっと薄暗かった中から急に日差しの降り注ぐ場所に出たため、カガチは目を細める。だけど、目を細めながらも、目の前に佇むその古木に目を奪われていた。
そこだけ不自然なほど開けた土地の真ん中に、一本だけ生えている節くれ立った木だ。大樹というほど大きくはない。幹に両手をまわした場合、カガチなら無理でも、クダンなら余裕でまわせるだろう。傘のように伸びる枝には柔らかそうな葉が茂っていて、独占している日差しを浴びて、さざめいている。
静謐という言葉がこれほど相応しい木もあるまい、と誰もが思うことだろう。
「クダンの奴は、双面の樹と呼んでいたな」
「や、やぬ……?」
「二面性という意味らしい。この木には昼と夜の顔があるのだ。昼はこれこの通り、安全至極で昼寝がしたくなるのだが、うっかり寝こけて日が沈んだら……」
「し……し、沈っ、だら……?」
「……いいか、カガチ。夜はこの木に近付くなよ、絶対にだぞ」
スースは敢えて具体的なことを言わずに話を終わらせた。カガチはすごく気になったけれど、スースがにやにや笑っているのを見て、からかわれているのだと気がつくと、頬に力を込めたぎこちない澄まし顔になって、そんな話に全く興味ないですし、という態度を取った。
「はっはっ!」
「……!」
堪えきれずに、遠吠えするみたいに大口を開けて笑うスースと、ぷくっと頬を膨らませるカガチだった。
「まあ、とにかくだ」
スースが笑いを収める。
「この木の周りは昼間ならば、わりと安全だ。我輩はこれから勢子として獲物をここまで追い込むから、カガチ、おまえが仕留めろ」
「……ふぇ?」
急に言われて、カガチは惚ける。でも、スースは待たなかった。カガチに尻を向けて、木々の生い茂るほうへと歩いていく。
「あっ……」
カガチが不安げな声を上げても、スースを止めることはできなかった。
双面の木が佇むだけの空間にカガチは一人、残される。つい先ほどは静謐だと感じた空気が、急に陰湿なものに感じられてくる。
「う、うっ……」
カガチは無意識に腰へと手をやり、腰帯からスースがくれた短剣・不知錆を鞘ごと抜いて抱き締める。
黒革のような鞘はスースの毛皮と同じ手触りがして、撫でているうちに、カガチはだんだんと落ち着いてきた。
「……んっ」
短剣をぎゅっと握り締めて気合いを入れると、その場で背筋を伸ばす。すぐに動けなくなるから実際にはやらないけれど、気分としては座禅を組んでいるつもりだ。
「……、……」
自分の呼吸を無意識ではなく意識的に感じ取る。何度か深呼吸したところで、その感覚を保ったまま、自分の中の魔力を、その流れを意識の指でなぞっていく。なぞるたび明瞭になっていく魔力の流れを感じながら、その場で縄跳びをするように軽く跳ぶ。
全身の魔力を操作して、全身を満遍なく賦活する。そのまま短剣を鞘から抜き放ち、クダンから囓る程度に教わっていたやり方で短剣を突き出す。振るのは止めておけと言われていたので、半身で突き出す形だけを繰り返す。そうしながら、いま動かしている筋肉へと魔力操作を集中させていく。
筋肉だけを強めると反動で身体が軋むので、追って骨なども強化していく。
――大丈夫。いつも通り。できてる。大丈夫。
今回の狩りの趣旨は、いつも訓練でやっていることが実戦でもやれるようにする、だ。だから、カガチがやるべきなのは難しいことではない。ただ、いつも訓練でしていることを、いつものようにすればいいのだ。
「いっ、いつも、通りっ……にっ……!」
じわじわと再発してくる緊張と恐怖を振り払うように、短剣を突いては戻し、また突くという行為を繰り返す。その行為中、力が爪先から手へと駆け抜けていくのに合わせて、魔力の集中部位も移動させていく。身体を動かしている間でも、身中でもっとも負荷のかかっている箇所が常に最高まで強化されているようにする。
――大丈夫。いつも通りにやればいいだけ。短剣で狩りなんて得物が短すぎると思うけど、ちゃんと魔力操作できていれば、ちょっとくらい引っ掻いたり噛まれたりされたって平気なはずだ。そうじゃなかったら、お師様は許可を出したりしないもの……たぶん。
静かな場所に一人でいると、思考が陰っていきがちになる。
「……い、っつも、通りっ……に! いつもっ……ど、通り! にっ!」
呪文のように唱えながら、短剣で突く練習を何度も繰り返す。同時に行っている魔力操作は回を重ねる毎に精度を増していくので、突きの動きもそれに併せて勢いと鋭さを増していっていた。
しばらく無心で短剣を突いていたカガチだったが、茂みの向こうから響いてきた遠吠えで我に返った。
「あっ」
カガチは咄嗟に遠吠えがしたほうを振り返って、短剣を構える。
「獲物だ、そちらへ行くぞ!」
遠吠えに続いて発された声はスースのものだ。
聞き慣れた声に安堵する間もなく、茂みが物々しく騒音を立てる。何かが向こうから、茂みを突っ切って駆けてきているのだ。スースの言った獲物に違いない。
「んっ……や、やる……!」
カガチは右側を前にした半身になって腰を落とすと、両手でしっかり握った短剣を、右の腰骨に柄頭を載せて固定するようにして構える。後はもう、獲物が飛び出してきたら身体ごとぶつかるようにして短剣を突き出すだけだ。というか、それ以外の行動を取れると思えない。
――来る!
枝葉を掻き分ける物音がいよいよ大きくなり、正面の茂みが大きく震えたかと思うと、ずんぐりした何かが茂みを割って飛び出してきた。
「っ……わぁああっ!!」
気づいたら叫んでいた。叫びながら、カガチはとにかく短剣を突き出していた。
――あ。
瞬間、血の気が引いた。
――早すぎた……。
もっと言えば、獲物を待ち構える位置が遠すぎたのだ。そのせいで、カガチがいま突き出している短剣は、獲物に当たる前に止まってしまうだろう。腕が伸びきって隙だらけになったところを、獲物に体当たりされてしまうだろう。
――あ……走れば……。
短剣を腰溜めに構えたのは、体当たりするつもりで思い切り踏み込んで突くためだった。それなのに、腰が引けてしまっていたカガチは、手だけで突いてしまったのだ。いまから足を動かしても、余計に隙を晒すだけだ。つまり、打つ手なし――
――嫌だ。
ぶわっと全身の毛が逆立つ。発汗、動悸。瞬間的に蘇る、双頭鷲の鉤爪に腹を抉られた痛み。
――あんなの嫌またなんて嫌嫌嫌!
思考の全てが、神経の全てが「嫌」の一色に染まる。もう何も考えられない。衝動だけが身体を動かす。伸びきった腕をさらに伸ばせと命じる衝動そのままに、カガチは突き出した。
「――ピギャアアァ!!」
茂みから飛び出してきた魔物が絶叫を上げて、どうっと倒れた。その喉元には、カガチの短剣が深々と突き刺さっていた。
「あ……、……、え……?」
カガチは惚けた顔で、足下に倒れた魔物を見下ろしている。魔物は喉から血を流しながら小刻みな痙攣を繰り返していたが、程なくして完全に動かなくなった。
飛び出してきたときは凶悪な魔物に見えたのに、いま倒れているのはカガチでも抱えられそうな大きさの豚だった。全身を硬そうな毛皮が覆っているけれど、猪と呼ぶには顔つきも体つきも丸っこい。毛の生えた豚、という他ない姿の魔物だった。いや、魔物ではなく、ただの獣なのかもしれない。
カガチが自分で仕留めた獲物をぼんやり見下ろしていると、またしても茂みががさがさと音を立てる。カガチははっとして顔を上げたが、すぐに安堵した。
「ほう、上手く仕留めたか。やったな、カガチ」
茂みからのっそり出てきたのはスースだった。
「スース……」
言いやすくて気に入っている言葉が、口からぽとりと零れ出る。すると緊張が抜けたのか、すとんと腰が抜けた。
「むっ、大丈夫か……んん!?」
スースは最初、笑い混じりに話しかけたが、途中でそれに気づいて語尾を跳ね上げた。
「え……そ、れ……?」
「それだ、それ。おまえの右手だ」
「みっ……ぎ、て……ふわわぁ!?」
自分の右手を見やったカガチは、お尻で飛び跳ねるほど驚いた。
カガチの右手からは、手首から先を覆うようにして生えた緑色の紐が、何十本となく束になって伸びていた。そして、その紐束の先は、毛もじゃ子豚の喉に刺さった短剣・不知錆の柄に絡まっていた。
「ふぇ……え、え? なっ、なに……こっ、これ……!?」
カガチは右手をぶんぶん振って、緑色の紐束を振り払おうとする。でも、どういうふうになっているのか、紐束は右手から剥がれない。
激しく振られたことで、紐束の先に絡まっている不知錆が引っこ抜かれる。毛豚はすでに事切れていたので、短剣が抜けてもそれほど流血しなかったけれど、血塗れの短剣を自分の足下に転がっただけで、カガチを動転させるのには十分だった。
「わっ、わ、わあぁ!?」
「落ち着け、カガチ!」
カガチを落ち着かせようとスースが一喝する。だが、それはわずかに遅かった。スースが声を上げる直前、緑色の紐束は掴むように絡んでいた短剣の柄からしゅるっと剥がれて、そのまましゅるしゅるとカガチの右手の中に吸い込まれていっていた。
「ふぇ……え、えぇ……」
カガチは自分の右手から逃げるように仰け反って、泣きそうになっている。いや、ちょっと泣いている。
「落ち着け、カガチ」
スースが同じ言葉を繰り返す。ただし今度は、優しくだ。
「あ、ぅ……スース、さっ、さっきの……な、なに……?」
「……蔦、だな」
「つ、つた……?」
もっと詳しくお願い、とカガチは目顔で訴えるが、スースはゆるりと頭を振った。
「我輩にも想像はつくが、間違っているやもしれん。庵に戻ってクダンに問うてみるのが妥当だろう」
「う……うん……お、お師……様、ならっ」
クダンならきっと正しい答えをくれるに違いない――と、涙目だったカガチの顔にも笑顔が戻っていく。
「よし、ならば帰るか。獲物も無事に狩れたわけだしな」
「んっ」
スースは毛豚を尻尾二本の内の一本で拾い上げると、もう一本でカガチも抱えて帰途に就いた。スースはカガチが木にぶつかったりしないように相当気を遣って走ったのだが、それでも来たときの半分以下の時間で庵に帰り着いたのだった。
【混沌の森】はその名が示す通り、場所ごとによって植生ががらりと変わる無軌道さを誇っているが、スースに先導されて歩くカガチの目には、進むにつれて順当に鬱蒼としていく景色が映っている。散歩と称して森の中で過ごしていることの多いスースは、この辺りのこともよく分かっているのだろう。足取りに迷いはない。
――大丈夫、スースに任せておけば平気……!
カガチは腰の短剣を左手で撫でてながら、スースの背中と揺れる尻尾だけを見て、置いて行かれないよう歩くことだけに専念した。
「……」
スースは足を止めないまま、ちらりとだけ振り返って横目でスースを見やる。
狩りをするのにその心構えはどうなのか……と思わないでもなかったが、カガチには初めての狩り、いや初めての森歩きだ。最初は自分についてくることだけ考えてもらうほうがいいか、と考えたスースは、周りに対して無警戒で歩くカガチを注意しなかった。
奥へ進むほど密度を増していた木々が、そこへ着いた瞬間、ぱっと開けた。
「わ……」
ずっと薄暗かった中から急に日差しの降り注ぐ場所に出たため、カガチは目を細める。だけど、目を細めながらも、目の前に佇むその古木に目を奪われていた。
そこだけ不自然なほど開けた土地の真ん中に、一本だけ生えている節くれ立った木だ。大樹というほど大きくはない。幹に両手をまわした場合、カガチなら無理でも、クダンなら余裕でまわせるだろう。傘のように伸びる枝には柔らかそうな葉が茂っていて、独占している日差しを浴びて、さざめいている。
静謐という言葉がこれほど相応しい木もあるまい、と誰もが思うことだろう。
「クダンの奴は、双面の樹と呼んでいたな」
「や、やぬ……?」
「二面性という意味らしい。この木には昼と夜の顔があるのだ。昼はこれこの通り、安全至極で昼寝がしたくなるのだが、うっかり寝こけて日が沈んだら……」
「し……し、沈っ、だら……?」
「……いいか、カガチ。夜はこの木に近付くなよ、絶対にだぞ」
スースは敢えて具体的なことを言わずに話を終わらせた。カガチはすごく気になったけれど、スースがにやにや笑っているのを見て、からかわれているのだと気がつくと、頬に力を込めたぎこちない澄まし顔になって、そんな話に全く興味ないですし、という態度を取った。
「はっはっ!」
「……!」
堪えきれずに、遠吠えするみたいに大口を開けて笑うスースと、ぷくっと頬を膨らませるカガチだった。
「まあ、とにかくだ」
スースが笑いを収める。
「この木の周りは昼間ならば、わりと安全だ。我輩はこれから勢子として獲物をここまで追い込むから、カガチ、おまえが仕留めろ」
「……ふぇ?」
急に言われて、カガチは惚ける。でも、スースは待たなかった。カガチに尻を向けて、木々の生い茂るほうへと歩いていく。
「あっ……」
カガチが不安げな声を上げても、スースを止めることはできなかった。
双面の木が佇むだけの空間にカガチは一人、残される。つい先ほどは静謐だと感じた空気が、急に陰湿なものに感じられてくる。
「う、うっ……」
カガチは無意識に腰へと手をやり、腰帯からスースがくれた短剣・不知錆を鞘ごと抜いて抱き締める。
黒革のような鞘はスースの毛皮と同じ手触りがして、撫でているうちに、カガチはだんだんと落ち着いてきた。
「……んっ」
短剣をぎゅっと握り締めて気合いを入れると、その場で背筋を伸ばす。すぐに動けなくなるから実際にはやらないけれど、気分としては座禅を組んでいるつもりだ。
「……、……」
自分の呼吸を無意識ではなく意識的に感じ取る。何度か深呼吸したところで、その感覚を保ったまま、自分の中の魔力を、その流れを意識の指でなぞっていく。なぞるたび明瞭になっていく魔力の流れを感じながら、その場で縄跳びをするように軽く跳ぶ。
全身の魔力を操作して、全身を満遍なく賦活する。そのまま短剣を鞘から抜き放ち、クダンから囓る程度に教わっていたやり方で短剣を突き出す。振るのは止めておけと言われていたので、半身で突き出す形だけを繰り返す。そうしながら、いま動かしている筋肉へと魔力操作を集中させていく。
筋肉だけを強めると反動で身体が軋むので、追って骨なども強化していく。
――大丈夫。いつも通り。できてる。大丈夫。
今回の狩りの趣旨は、いつも訓練でやっていることが実戦でもやれるようにする、だ。だから、カガチがやるべきなのは難しいことではない。ただ、いつも訓練でしていることを、いつものようにすればいいのだ。
「いっ、いつも、通りっ……にっ……!」
じわじわと再発してくる緊張と恐怖を振り払うように、短剣を突いては戻し、また突くという行為を繰り返す。その行為中、力が爪先から手へと駆け抜けていくのに合わせて、魔力の集中部位も移動させていく。身体を動かしている間でも、身中でもっとも負荷のかかっている箇所が常に最高まで強化されているようにする。
――大丈夫。いつも通りにやればいいだけ。短剣で狩りなんて得物が短すぎると思うけど、ちゃんと魔力操作できていれば、ちょっとくらい引っ掻いたり噛まれたりされたって平気なはずだ。そうじゃなかったら、お師様は許可を出したりしないもの……たぶん。
静かな場所に一人でいると、思考が陰っていきがちになる。
「……い、っつも、通りっ……に! いつもっ……ど、通り! にっ!」
呪文のように唱えながら、短剣で突く練習を何度も繰り返す。同時に行っている魔力操作は回を重ねる毎に精度を増していくので、突きの動きもそれに併せて勢いと鋭さを増していっていた。
しばらく無心で短剣を突いていたカガチだったが、茂みの向こうから響いてきた遠吠えで我に返った。
「あっ」
カガチは咄嗟に遠吠えがしたほうを振り返って、短剣を構える。
「獲物だ、そちらへ行くぞ!」
遠吠えに続いて発された声はスースのものだ。
聞き慣れた声に安堵する間もなく、茂みが物々しく騒音を立てる。何かが向こうから、茂みを突っ切って駆けてきているのだ。スースの言った獲物に違いない。
「んっ……や、やる……!」
カガチは右側を前にした半身になって腰を落とすと、両手でしっかり握った短剣を、右の腰骨に柄頭を載せて固定するようにして構える。後はもう、獲物が飛び出してきたら身体ごとぶつかるようにして短剣を突き出すだけだ。というか、それ以外の行動を取れると思えない。
――来る!
枝葉を掻き分ける物音がいよいよ大きくなり、正面の茂みが大きく震えたかと思うと、ずんぐりした何かが茂みを割って飛び出してきた。
「っ……わぁああっ!!」
気づいたら叫んでいた。叫びながら、カガチはとにかく短剣を突き出していた。
――あ。
瞬間、血の気が引いた。
――早すぎた……。
もっと言えば、獲物を待ち構える位置が遠すぎたのだ。そのせいで、カガチがいま突き出している短剣は、獲物に当たる前に止まってしまうだろう。腕が伸びきって隙だらけになったところを、獲物に体当たりされてしまうだろう。
――あ……走れば……。
短剣を腰溜めに構えたのは、体当たりするつもりで思い切り踏み込んで突くためだった。それなのに、腰が引けてしまっていたカガチは、手だけで突いてしまったのだ。いまから足を動かしても、余計に隙を晒すだけだ。つまり、打つ手なし――
――嫌だ。
ぶわっと全身の毛が逆立つ。発汗、動悸。瞬間的に蘇る、双頭鷲の鉤爪に腹を抉られた痛み。
――あんなの嫌またなんて嫌嫌嫌!
思考の全てが、神経の全てが「嫌」の一色に染まる。もう何も考えられない。衝動だけが身体を動かす。伸びきった腕をさらに伸ばせと命じる衝動そのままに、カガチは突き出した。
「――ピギャアアァ!!」
茂みから飛び出してきた魔物が絶叫を上げて、どうっと倒れた。その喉元には、カガチの短剣が深々と突き刺さっていた。
「あ……、……、え……?」
カガチは惚けた顔で、足下に倒れた魔物を見下ろしている。魔物は喉から血を流しながら小刻みな痙攣を繰り返していたが、程なくして完全に動かなくなった。
飛び出してきたときは凶悪な魔物に見えたのに、いま倒れているのはカガチでも抱えられそうな大きさの豚だった。全身を硬そうな毛皮が覆っているけれど、猪と呼ぶには顔つきも体つきも丸っこい。毛の生えた豚、という他ない姿の魔物だった。いや、魔物ではなく、ただの獣なのかもしれない。
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茂みからのっそり出てきたのはスースだった。
「スース……」
言いやすくて気に入っている言葉が、口からぽとりと零れ出る。すると緊張が抜けたのか、すとんと腰が抜けた。
「むっ、大丈夫か……んん!?」
スースは最初、笑い混じりに話しかけたが、途中でそれに気づいて語尾を跳ね上げた。
「え……そ、れ……?」
「それだ、それ。おまえの右手だ」
「みっ……ぎ、て……ふわわぁ!?」
自分の右手を見やったカガチは、お尻で飛び跳ねるほど驚いた。
カガチの右手からは、手首から先を覆うようにして生えた緑色の紐が、何十本となく束になって伸びていた。そして、その紐束の先は、毛もじゃ子豚の喉に刺さった短剣・不知錆の柄に絡まっていた。
「ふぇ……え、え? なっ、なに……こっ、これ……!?」
カガチは右手をぶんぶん振って、緑色の紐束を振り払おうとする。でも、どういうふうになっているのか、紐束は右手から剥がれない。
激しく振られたことで、紐束の先に絡まっている不知錆が引っこ抜かれる。毛豚はすでに事切れていたので、短剣が抜けてもそれほど流血しなかったけれど、血塗れの短剣を自分の足下に転がっただけで、カガチを動転させるのには十分だった。
「わっ、わ、わあぁ!?」
「落ち着け、カガチ!」
カガチを落ち着かせようとスースが一喝する。だが、それはわずかに遅かった。スースが声を上げる直前、緑色の紐束は掴むように絡んでいた短剣の柄からしゅるっと剥がれて、そのまましゅるしゅるとカガチの右手の中に吸い込まれていっていた。
「ふぇ……え、えぇ……」
カガチは自分の右手から逃げるように仰け反って、泣きそうになっている。いや、ちょっと泣いている。
「落ち着け、カガチ」
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「つ、つた……?」
もっと詳しくお願い、とカガチは目顔で訴えるが、スースはゆるりと頭を振った。
「我輩にも想像はつくが、間違っているやもしれん。庵に戻ってクダンに問うてみるのが妥当だろう」
「う……うん……お、お師……様、ならっ」
クダンならきっと正しい答えをくれるに違いない――と、涙目だったカガチの顔にも笑顔が戻っていく。
「よし、ならば帰るか。獲物も無事に狩れたわけだしな」
「んっ」
スースは毛豚を尻尾二本の内の一本で拾い上げると、もう一本でカガチも抱えて帰途に就いた。スースはカガチが木にぶつかったりしないように相当気を遣って走ったのだが、それでも来たときの半分以下の時間で庵に帰り着いたのだった。
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