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3章 黒い千人の女の女王
3-1.
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ウゥルカ候に率いられたマガーダ軍が這々の体で逃げていった後、アルジュたちグプタ軍は勝利の喜びに浸るよりも先に、疲労困憊の身体を投げ出して安堵していた。
結果から見れば間違いなく大勝利だったが、実際のところは大敗と紙一重の勝利だった。
背後からの奇襲がもう少し遅かったら、せっかく蘇らせた首無し騎士は早くもこの一戦で、数の圧力に屈して討ち取られていただろう。かといって、アルジュたち本隊がもっと敵の近くで伏せていたり、大回りせずに回り込もうとしていたら、奇襲を掛ける前に発見されていたかもしれない。
千に満たない兵での一撃があれほどの戦果を挙げられたのは、それが条理を外した――常軌を逸した奇襲だったからだ。
ひとつ間違えば、何倍もの数を揃えた敵軍の中に自分から飛び込んでいくだけの自殺行為になる――グプタ兵はそのことを理解しながら戦っていたからこそ、勝利の高揚よりも、負けなかったことへの安堵に身を委ねたのだった。
だが、血の匂いも生々しい戦場にいつまでも留まっているわけにはいかない。グプタ兵は少なからぬ負傷者を抱えて、近くの村へと向かった。
街道を西進すると、程なくして村が見えてきた。
グプタ軍の騎士たちはウルゥカが守備兵を残していっている可能性も警戒していたが、その心配は取り越し苦労に終わった。この村に駐屯していた兵士は、領主ウルゥカに付き従ってとっくに逃げ出していた。
領土的野心から行動したわけではなかったアルジュにとっては不本意だったろうが、現状は「グプタ軍がマガーダ領に逆侵攻して、この辺り一帯の領土を切り取った」という状況だった。
「領土の返還か、併合か……まあ、後で考えよう。いまは皆を休息させるのが先だ」
面倒なことは後回しにすると決めて、アルジュは兵共々、村に入った。
アルジュたちがその村に入ったのは、夕暮れ時もそろそろ終わるという頃だった。最初は村人たちが敵意を剥き出しで襲ってくることも覚悟していたけれど、その予想は少し外れた。
村までやってきたアルジュの前に、村長の娘だと名乗る女性が進み出てきた言ったのだ。
「わたしが生け贄になります。ですから、どうか他のみんなはお目こぼしください……後生でございます、魔王様!」
……魔王様とはもちろん、アルジュのことだった。
村人たちは首無し騎士のことまでは知らなかったが、アルジュ率いるグプタ軍が先の戦闘で大量の死人を使役してみせたことは彼女たちにも伝わっていた。それはアルジュではなく、リシュナが――正確にはリシュナの姿をした魔物レリクスが為したことだったが、そんな細かいことはマガーダ領の村人にとって意味がない。
グプタ軍には動く死者がいた。だから、グプタの領主は死者を操る魔王だ――この認識が、村人たちにとっては全てだった。
それはさておき……。
「魔王様、わたしをひと思いに食べてしまって構いませんから!」
地べたに額ずいて慈悲を請う娘に、アルジュはしばらく瞬きも忘れて唖然としていた。
それから、一歩後ろに控えていたナクラに振り返って目顔で縋ったが、ナクラは目を逸らすように頭を振っただけだ。その次は反対側に控えていたレリクスを見やったけれど、そちらもまた仮面のような無表情で佇んでいるばかりだった。
だから仕方なく、アルジュは自分で言葉を探した。
「ええ、ああ……っと、そうだ。まず、顔を上げてくれ。そして、私の話を聞いてくれ。私は魔王ではないし、人を食べたりもしない。ただの人間だ」
……アルジュは四半刻かけて説明した。
その甲斐あって、村長の娘を始めとした村人たちは、アルジュたちがこの村を占拠しにきたわけでも、略奪を働きにきたわけでもないと分かってもらえた。ただし、アルジュが魔王でも何でもないただの人間だということは、おそらく話半分にしか聞いてもらえていなかった。
「なるほど、分かりました。魔王様はいま、人間のお姿をとっておられるのですから、人間として遇してほしいということでございますね」
村人たちはそのように理解していた節がある。
マガーダ領で一番の田舎といっていい東端の小さな村で暮らしている彼らからすれば、魔王も領主も大して変わらないようだった。
余談になるが、この魔王という呼称は瞬く間に膾炙されていくことになり、アルジュも早々に「私は魔王ではない」と訂正するのを諦めるようになる。
話が逸れたついでに言うと、アルジュを唐突な土下座で出迎えた村長の娘は、名をパティと言った。彼女の父、すなわち村長もこの場にいたのだけど、顔が真っ白になるほど怯えきっていたため、アルジュとの会話を受け持ったのは専ら娘のほうだった。
何度も言っていることが食い違いそうになりながらの長い会話が終わった後、アルジュはどっと湧いてきた疲れを隠して、できるかぎり優しい顔をしてみせた。
「私たちのことが分かってもらえて助かったよ。私たちは一晩、休ませてもらいたいだけなんだ。寝床をよこせとは言わないが、水と食べ物を少しでも分けてもらえたら助かる。もちろん、その分の支払いはしよう」
アルジュの言葉に、パティは思案に沈んだ顔をする。
「……何か、まだ質問が?」
怖々と訊ねたアルジュをきっと見据えて、パティは言った。
「魔王――じゃなくてグプタ候様、お願いがございます」
「え……」
「わたしたちをどうか、お助けください!」
パティはまたも地面に両手と両膝、それに額を擦りつけて懇願してきた。二度目の土下座である。
また一からやり直しなのか……とアルジュが疲れを顔に出したとき、パティが続きの言葉を口にした。
「どうか、わたしたちの村をマガーダ候からお救いください!」
「……え?」
アルジュは一刻前とまったく同じく、唖然とした顔をさせられたのだった。
結果から見れば間違いなく大勝利だったが、実際のところは大敗と紙一重の勝利だった。
背後からの奇襲がもう少し遅かったら、せっかく蘇らせた首無し騎士は早くもこの一戦で、数の圧力に屈して討ち取られていただろう。かといって、アルジュたち本隊がもっと敵の近くで伏せていたり、大回りせずに回り込もうとしていたら、奇襲を掛ける前に発見されていたかもしれない。
千に満たない兵での一撃があれほどの戦果を挙げられたのは、それが条理を外した――常軌を逸した奇襲だったからだ。
ひとつ間違えば、何倍もの数を揃えた敵軍の中に自分から飛び込んでいくだけの自殺行為になる――グプタ兵はそのことを理解しながら戦っていたからこそ、勝利の高揚よりも、負けなかったことへの安堵に身を委ねたのだった。
だが、血の匂いも生々しい戦場にいつまでも留まっているわけにはいかない。グプタ兵は少なからぬ負傷者を抱えて、近くの村へと向かった。
街道を西進すると、程なくして村が見えてきた。
グプタ軍の騎士たちはウルゥカが守備兵を残していっている可能性も警戒していたが、その心配は取り越し苦労に終わった。この村に駐屯していた兵士は、領主ウルゥカに付き従ってとっくに逃げ出していた。
領土的野心から行動したわけではなかったアルジュにとっては不本意だったろうが、現状は「グプタ軍がマガーダ領に逆侵攻して、この辺り一帯の領土を切り取った」という状況だった。
「領土の返還か、併合か……まあ、後で考えよう。いまは皆を休息させるのが先だ」
面倒なことは後回しにすると決めて、アルジュは兵共々、村に入った。
アルジュたちがその村に入ったのは、夕暮れ時もそろそろ終わるという頃だった。最初は村人たちが敵意を剥き出しで襲ってくることも覚悟していたけれど、その予想は少し外れた。
村までやってきたアルジュの前に、村長の娘だと名乗る女性が進み出てきた言ったのだ。
「わたしが生け贄になります。ですから、どうか他のみんなはお目こぼしください……後生でございます、魔王様!」
……魔王様とはもちろん、アルジュのことだった。
村人たちは首無し騎士のことまでは知らなかったが、アルジュ率いるグプタ軍が先の戦闘で大量の死人を使役してみせたことは彼女たちにも伝わっていた。それはアルジュではなく、リシュナが――正確にはリシュナの姿をした魔物レリクスが為したことだったが、そんな細かいことはマガーダ領の村人にとって意味がない。
グプタ軍には動く死者がいた。だから、グプタの領主は死者を操る魔王だ――この認識が、村人たちにとっては全てだった。
それはさておき……。
「魔王様、わたしをひと思いに食べてしまって構いませんから!」
地べたに額ずいて慈悲を請う娘に、アルジュはしばらく瞬きも忘れて唖然としていた。
それから、一歩後ろに控えていたナクラに振り返って目顔で縋ったが、ナクラは目を逸らすように頭を振っただけだ。その次は反対側に控えていたレリクスを見やったけれど、そちらもまた仮面のような無表情で佇んでいるばかりだった。
だから仕方なく、アルジュは自分で言葉を探した。
「ええ、ああ……っと、そうだ。まず、顔を上げてくれ。そして、私の話を聞いてくれ。私は魔王ではないし、人を食べたりもしない。ただの人間だ」
……アルジュは四半刻かけて説明した。
その甲斐あって、村長の娘を始めとした村人たちは、アルジュたちがこの村を占拠しにきたわけでも、略奪を働きにきたわけでもないと分かってもらえた。ただし、アルジュが魔王でも何でもないただの人間だということは、おそらく話半分にしか聞いてもらえていなかった。
「なるほど、分かりました。魔王様はいま、人間のお姿をとっておられるのですから、人間として遇してほしいということでございますね」
村人たちはそのように理解していた節がある。
マガーダ領で一番の田舎といっていい東端の小さな村で暮らしている彼らからすれば、魔王も領主も大して変わらないようだった。
余談になるが、この魔王という呼称は瞬く間に膾炙されていくことになり、アルジュも早々に「私は魔王ではない」と訂正するのを諦めるようになる。
話が逸れたついでに言うと、アルジュを唐突な土下座で出迎えた村長の娘は、名をパティと言った。彼女の父、すなわち村長もこの場にいたのだけど、顔が真っ白になるほど怯えきっていたため、アルジュとの会話を受け持ったのは専ら娘のほうだった。
何度も言っていることが食い違いそうになりながらの長い会話が終わった後、アルジュはどっと湧いてきた疲れを隠して、できるかぎり優しい顔をしてみせた。
「私たちのことが分かってもらえて助かったよ。私たちは一晩、休ませてもらいたいだけなんだ。寝床をよこせとは言わないが、水と食べ物を少しでも分けてもらえたら助かる。もちろん、その分の支払いはしよう」
アルジュの言葉に、パティは思案に沈んだ顔をする。
「……何か、まだ質問が?」
怖々と訊ねたアルジュをきっと見据えて、パティは言った。
「魔王――じゃなくてグプタ候様、お願いがございます」
「え……」
「わたしたちをどうか、お助けください!」
パティはまたも地面に両手と両膝、それに額を擦りつけて懇願してきた。二度目の土下座である。
また一からやり直しなのか……とアルジュが疲れを顔に出したとき、パティが続きの言葉を口にした。
「どうか、わたしたちの村をマガーダ候からお救いください!」
「……え?」
アルジュは一刻前とまったく同じく、唖然とした顔をさせられたのだった。
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