8 / 49
宝箱の中の苦い思い出1
しおりを挟む
手に花冠を持って蒼は帰途についていた。
まだ仕事に行く前の母親がいるかもしれない家へと向かっているのに、足取りは軽い。
自然と口元が綻ぶ。
このふわふわとした気持ちを蒼は今まで味わったことがなかった。
自分が今幸せを感じているということに気付いたのは、しばらくしてからだった。
蒼は幸せを知らないわけじゃない。
日常の中で時々感じることくらいある。
給食がおいしかったとか、過ごしやすい天気だなとか、些細なことで。
でも今はあまりにも幸せが大きくて、そうだと気付くのが逆に難しかったのだ。
花冠を持つ手にきゅっと力を入れる。
今手にしている幸せを大事にしようと蒼は思った。
※
アパートの玄関ドアの前に立つと、中から声が聞こえてきた。
怒鳴り声や叫び声。
さらには、食器が割れるような音。
「お母さんっ!!」
反射的に蒼は部屋の中に飛び込んでいた。
部屋の中はいつにも増して荒れていた。
肩を怒らせている男と、物が散らばった床の上にへたり込む母親。
「お母さんっ!! ーーっ!」
蒼は母親から遮るようにして、男の前に立った。大きく両手を広げて。
「何だ? お前」
「やめて!! お母さんにひどいことしないで!!」
男は蒼のよく見知った顔ーー母親の彼氏だ。
「お前さ…」
少しの間蒼のことをじっと見てから、男は鼻で笑って言った。
「その母親にいつもひどいことされてるのに、健気だねー。…っていうか」
男が蒼に近付いてくる。蒼の全身が震えた。
「やっぱり。よく見るとかわいいな。息子だと思ってたけど、お前女か!」
「秋人!」
母親の大声が男の声に被さった。
「財布からお金持ってっていいから。今日はもう帰って」
その言葉に、男が母親の方を見て笑った。
「ありがと。好きだよ、恭子ちゃん」
男が蒼の横を通り過ぎる。
やっとのことで恐怖を押し殺した蒼が振り返ると、母親の前まで行った男が母親からバッグを取り上げたところだった。
男はバッグの中にあった財布から数枚のお札を抜き取る。
「じゃあ、恭子ちゃん。今日もお仕事がんばってねー」
ひらひらとお札を振り、男は機嫌良さそうに帰って行った。
「お、かあさん…。だいじょーー」
「いい気にならないで、蒼」
静かな、だが憎しみの込められた母親の声によって、蒼は『大丈夫?』と聞こうとしたのを遮られ、母親のもとへと行こうとした身体の動きも止められた。
「あんたが可愛いはずないでしょ。クズで最低な男似のあんたが」
クズで最低な男というのは蒼の父親のことだ。
蒼は自分の父親の顔を知らない。物心ついた時には父親はいなかったし、写真の一枚もないから。
母親が蒼の父親について話すこともなかった。ただ、ひどく酒に酔った時や機嫌の悪い時にぼやくことがあった。
それによると、蒼の父親はあまりいい人間ではなかったらしい。あくまで母親の言い分だが。
「なに…それ…?」
ゆっくりと顔を上げた母親が、蒼のある一点に目を留めた。
「そんなもの…」
「え…?」
「そんなもの持ってるから女って言われたのよ!」
はっとして蒼は咄嗟に右手を背後に隠した。ずっと持っていたシロツメクサの花冠。
母親の言う『そんなもの』はこれのことに違いなかった。
「…渡しなさい、蒼」
母親が座ったまま身を乗り出し、蒼の方へ手を伸ばす。
蒼は首を横に振り、小さく後退りした。
「蒼!」
ヒステリックに叫ぶ母親の声に、蒼の身体が強張る。
母親は気だるそうに立ち上がると、蒼の前まで来て蒼から花冠をひったくった。
あっ、と蒼の口から声が漏れる。母親はくすくすとおかしそうに笑った。
「がらじゃないわよ、蒼。この花冠は可愛いわね、ほんと可愛い。でもーー」
「っ、かえして!」
蒼は花冠を取り返そうと必死で足掻いた。母親にまとわりつき、花冠に向かって手を伸ばす。
母親は自分に刃向ってくる蒼が目障りだったのだろう。空いた方の手で何発も蒼をぶった。
終いには母親に強く押され、蒼は尻もちをついた。
「これは、あんたには似合わない」
蒼のことを見下ろした母親が、花冠をぐしゃっと握り潰した。
ひなたの笑顔が崩れた。蒼の脳裏で。
スッゴクニアッテル
アオチャン、カワイイ
ひなたの声が壊れて聞こえる。
「まさか、似合うと思ってたの? 自分が可愛いとでも思った? そんなわけないじゃない」
ショックを受けている蒼の顔を見て少し機嫌が良くなったのか、母親は楽しそうに花冠をさらにぐしゃぐしゃにしていく。
「これから仕事にいくから、このゴミどっかに捨てておくわ。ねぇ蒼、私が優しくてよかったわね」
母親がそう言った時には、花冠はすでに『花冠』だったものになっていた。
母親の手によって破壊されたそれは、誰から見ても『ゴミ』と呼べるものだった。
でもーー蒼には違った。
例えどんな形になろうとそれは、ひなたから貰った幸せだった。
「…返して……」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、伸ばした手を力無く握り締める。
蒼は空しさだけを掴んでいた。
母親が家を出て行く。ぼろぼろになった花冠が入ったビニール袋を持って。
蒼の目から涙が溢れた。
泣かないのは得意なはずなのに、今はそれが難しかった。
「ひな…ごめん…」
花冠を守れなくて。
泣くことしか出来なくて。
「ごめんね…」
まだ仕事に行く前の母親がいるかもしれない家へと向かっているのに、足取りは軽い。
自然と口元が綻ぶ。
このふわふわとした気持ちを蒼は今まで味わったことがなかった。
自分が今幸せを感じているということに気付いたのは、しばらくしてからだった。
蒼は幸せを知らないわけじゃない。
日常の中で時々感じることくらいある。
給食がおいしかったとか、過ごしやすい天気だなとか、些細なことで。
でも今はあまりにも幸せが大きくて、そうだと気付くのが逆に難しかったのだ。
花冠を持つ手にきゅっと力を入れる。
今手にしている幸せを大事にしようと蒼は思った。
※
アパートの玄関ドアの前に立つと、中から声が聞こえてきた。
怒鳴り声や叫び声。
さらには、食器が割れるような音。
「お母さんっ!!」
反射的に蒼は部屋の中に飛び込んでいた。
部屋の中はいつにも増して荒れていた。
肩を怒らせている男と、物が散らばった床の上にへたり込む母親。
「お母さんっ!! ーーっ!」
蒼は母親から遮るようにして、男の前に立った。大きく両手を広げて。
「何だ? お前」
「やめて!! お母さんにひどいことしないで!!」
男は蒼のよく見知った顔ーー母親の彼氏だ。
「お前さ…」
少しの間蒼のことをじっと見てから、男は鼻で笑って言った。
「その母親にいつもひどいことされてるのに、健気だねー。…っていうか」
男が蒼に近付いてくる。蒼の全身が震えた。
「やっぱり。よく見るとかわいいな。息子だと思ってたけど、お前女か!」
「秋人!」
母親の大声が男の声に被さった。
「財布からお金持ってっていいから。今日はもう帰って」
その言葉に、男が母親の方を見て笑った。
「ありがと。好きだよ、恭子ちゃん」
男が蒼の横を通り過ぎる。
やっとのことで恐怖を押し殺した蒼が振り返ると、母親の前まで行った男が母親からバッグを取り上げたところだった。
男はバッグの中にあった財布から数枚のお札を抜き取る。
「じゃあ、恭子ちゃん。今日もお仕事がんばってねー」
ひらひらとお札を振り、男は機嫌良さそうに帰って行った。
「お、かあさん…。だいじょーー」
「いい気にならないで、蒼」
静かな、だが憎しみの込められた母親の声によって、蒼は『大丈夫?』と聞こうとしたのを遮られ、母親のもとへと行こうとした身体の動きも止められた。
「あんたが可愛いはずないでしょ。クズで最低な男似のあんたが」
クズで最低な男というのは蒼の父親のことだ。
蒼は自分の父親の顔を知らない。物心ついた時には父親はいなかったし、写真の一枚もないから。
母親が蒼の父親について話すこともなかった。ただ、ひどく酒に酔った時や機嫌の悪い時にぼやくことがあった。
それによると、蒼の父親はあまりいい人間ではなかったらしい。あくまで母親の言い分だが。
「なに…それ…?」
ゆっくりと顔を上げた母親が、蒼のある一点に目を留めた。
「そんなもの…」
「え…?」
「そんなもの持ってるから女って言われたのよ!」
はっとして蒼は咄嗟に右手を背後に隠した。ずっと持っていたシロツメクサの花冠。
母親の言う『そんなもの』はこれのことに違いなかった。
「…渡しなさい、蒼」
母親が座ったまま身を乗り出し、蒼の方へ手を伸ばす。
蒼は首を横に振り、小さく後退りした。
「蒼!」
ヒステリックに叫ぶ母親の声に、蒼の身体が強張る。
母親は気だるそうに立ち上がると、蒼の前まで来て蒼から花冠をひったくった。
あっ、と蒼の口から声が漏れる。母親はくすくすとおかしそうに笑った。
「がらじゃないわよ、蒼。この花冠は可愛いわね、ほんと可愛い。でもーー」
「っ、かえして!」
蒼は花冠を取り返そうと必死で足掻いた。母親にまとわりつき、花冠に向かって手を伸ばす。
母親は自分に刃向ってくる蒼が目障りだったのだろう。空いた方の手で何発も蒼をぶった。
終いには母親に強く押され、蒼は尻もちをついた。
「これは、あんたには似合わない」
蒼のことを見下ろした母親が、花冠をぐしゃっと握り潰した。
ひなたの笑顔が崩れた。蒼の脳裏で。
スッゴクニアッテル
アオチャン、カワイイ
ひなたの声が壊れて聞こえる。
「まさか、似合うと思ってたの? 自分が可愛いとでも思った? そんなわけないじゃない」
ショックを受けている蒼の顔を見て少し機嫌が良くなったのか、母親は楽しそうに花冠をさらにぐしゃぐしゃにしていく。
「これから仕事にいくから、このゴミどっかに捨てておくわ。ねぇ蒼、私が優しくてよかったわね」
母親がそう言った時には、花冠はすでに『花冠』だったものになっていた。
母親の手によって破壊されたそれは、誰から見ても『ゴミ』と呼べるものだった。
でもーー蒼には違った。
例えどんな形になろうとそれは、ひなたから貰った幸せだった。
「…返して……」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、伸ばした手を力無く握り締める。
蒼は空しさだけを掴んでいた。
母親が家を出て行く。ぼろぼろになった花冠が入ったビニール袋を持って。
蒼の目から涙が溢れた。
泣かないのは得意なはずなのに、今はそれが難しかった。
「ひな…ごめん…」
花冠を守れなくて。
泣くことしか出来なくて。
「ごめんね…」
10
あなたにおすすめの小説
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました
iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
理想の男性(ヒト)は、お祖父さま
たつみ
恋愛
月代結奈は、ある日突然、見知らぬ場所に立っていた。
そこで行われていたのは「正妃選びの儀」正妃に側室?
王太子はまったく好みじゃない。
彼女は「これは夢だ」と思い、とっとと「正妃」を辞退してその場から去る。
彼女が思いこんだ「夢設定」の流れの中、帰った屋敷は超アウェイ。
そんな中、現れたまさしく「理想の男性」なんと、それは彼女のお祖父さまだった!
彼女を正妃にするのを諦めない王太子と側近魔術師サイラスの企み。
そんな2人から彼女守ろうとする理想の男性、お祖父さま。
恋愛よりも家族愛を優先する彼女の日常に否応なく訪れる試練。
この世界で彼女がくだす決断と、肝心な恋愛の結末は?
◇◇◇◇◇設定はあくまでも「貴族風」なので、現実の貴族社会などとは異なります。
本物の貴族社会ではこんなこと通用しない、ということも多々あります。
R-Kingdom_1
他サイトでも掲載しています。
【完】経理部の女王様が落ちた先には
Bu-cha
恋愛
エブリスタにて恋愛トレンドランキング4位
高級なスーツ、高級な腕時計を身に付け
ピンヒールの音を響かせ歩く
“経理部の女王様”
そんな女王様が落ちた先にいたのは
虫1匹も殺せないような男だった・・・。
ベリーズカフェ総合ランキング4位
2022年上半期ベリーズカフェ総合ランキング53位
2022年下半期ベリーズカフェ総合ランキング44位
関連物語
『ソレは、脱がさないで』
ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高4位
エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高2位
『大きなアナタと小さなわたしのちっぽけなプライド』
ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高13位
『初めてのベッドの上で珈琲を』
エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高9位
『“こだま”の森~FUJIメゾン・ビビ』
ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高 17位
私の物語は全てがシリーズになっておりますが、どれを先に読んでも楽しめるかと思います。
伏線のようなものを回収していく物語ばかりなので、途中まではよく分からない内容となっております。
物語が進むにつれてその意味が分かっていくかと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる