Two grave holes for three

あきたいぬ

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アリソン・フォード研究所

1891年、ロンドンにて

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 四六時中スモッグで覆われていると、健康なものも精神を病むんだから、と穴場だという精神科を薦められて、私は今ロンドンの外れの通りをゆっくりと歩いていた。仕事の同期で良き友でもあるスタンリーは、私のここのところろくに睡眠をとれていない顔を見て「まるで刑務所に収監されている囚人みたいだな」と冗談だか本気なんだかわからないことを言った。

「その様子じゃ、食事もまともにとれていないんだろう?」
「おまえはタイプを打つだけのこの仕事を辞めて、すぐに心理学者になった方がいいぞ、スタンリー。」

 スタンリーはつまらないジョークだ、とでも言いたげに肩をすくめたが、私は半ば本気でそう思っていた。今の今までほかの誰にも体の不調を見破られたことはなかったのに、近くに寄ったからとひょっこり課の違う私のところを訪れた瞬間にこれだ。これで気がつかない方がおかしいとスタンリーは言ったが、もっとも気難しい私にあまり近づくものがいないので、一概に周りが鈍感である、と言い切ることもできない。
 スタンリーは数いる私たちの同期の中でも、飛び抜けて才覚に優れているやつだ。あっというまに出世をしていくのに嫌みは一切なく、それでいて周りによく気を配れる兄貴肌である。これで独身なのが信じられないほどだ。
 力なく笑った私に、スタンリーは端正な顔を歪めた。

「やはりかかった方がいい──ほら。」

 適当に積み上げられた裏紙の一枚に、さらさらと何やら書き付けたと思えば、ずい、と俺の目の前にさしだしてくる。彼らしい几帳面な文字で、そこにはこう書いてあった。

{アリソン・フォード研究所}
{ソーホー地区25の8の2}

「この前知人が行ったら、悩み事が一発で解決できたって。ま、知る人ぞ知る、ってやつだな。」

 ふうん、と曖昧な相づちを打って、私は住所が書かれたメモを受け取った。ちょうど今日は早上がりだし、仕事が終わったら行ってみるよ、と言うと、スタンリーは必ず行くように念押しして、一緒にいた同僚に引きずられるようにして出て行った。

 ソーホー地区は急発展したロンドンで、唯一開発が遅れたところと言っても良い。計画性のなさが前面に出た旧市街に、服かぼろ布かの判別もつかない布を纏った老若男女が裏路地のそこらに転がっている。スモッグも出始めて、あたりはより鬱屈な雰囲気を醸し出している。曲がりなりにもタイプライターという衣食住に困らない程度の給金をもらっている身としては、少しばかり肩身の狭い地区である。貧乏学生だった頃に行きつけのパブがあったが、あそこはどうなっているだろうと、そのパブがあった通りに足を踏み入れると、そこら一帯は大規模な道路工事をやっていて、それでそのパブがどうなったかもうっすらと想像がついてしまったので、顔をストールで隠しながら踵を返した。寄り道はそういいものではないようだ。

 それからくねくねと曲がった道をたどって、何回か迷いそうになりながらも、なんとか目的地と思われるところにまでたどり着いた。

{25の8の2}

 扉上の住所を確認して、私は大きく息を吸い込んだ。古めかしい所々穴の開いている木製の扉は、どこぞのホラーに出てくるような不気味さだ。ドアベルもカウもない。どうしようか逡巡した後、私はドアの前に立って、すこし声を張って「すまない、どなたかいないだろうか」と言った。

 するとパタパタと軽い音がし、古めかしいドアがきしんだ音を立てながらゆっくりと開く。

「あら・・」
「あ・・?」

 中から出てきたのは、私の腰ほどの身長しかない、幼い少女であった。この国にはめずらしい、黒い髪に黒い瞳。東洋人だろうか。小綺麗なワンピースとややミスマッチであるが、この年頃の少女特有の愛らしさに加え、均整のとれた顔のパーツも相まって、人形のような美しさを感じさせる。

「お客様かしら?」

 綺麗なクイーンズ・イングリッシュを話すその少女に呆気にとられながら、私は軽く頷いた。

「知人からの紹介で・・アリソン・フォード研究所とは、」
「ええ!それならここのことよ!」

 にっこりと満面の笑みで、少女は私を歓迎した。「いらっしゃい!すぐにご案内いたしますわ、ミスター!」

 ちょっとスカートを持ち上げて軽い礼をするその姿は、貴族のお嬢様を想像させた。さあ、と促されて一歩足を中に入れる。ひんやりとした空気が頬を撫で、私はストールをもう一度引っ張り上げた。

「ごめんなさい、ミスター。」私を見ていた少女が少し眉尻を下げて言う。「この季節になると、隙間風でかなり冷えるのよ。」
「どうぞ、スミスとお呼びください、お嬢さん。」
「じゃあスミスさん。こちらへどうぞ。」

 扉の先、すぐ目の前に下りの階段がある。どうやら地下に研究所はあるらしい。少女は慣れた様子で明かりの少ない階段を降りている。と、振り返って私に微笑んだ。

「明かりも切れてしまっているの。どうぞ足下に注意して、ゆっくり降りてきてくださいね。」
「ご忠告どうも。ええと・・」
「エミリア・シュミターですわ、スミスさん。」
「っと、すると君は英国人かい?」
「ええ。生まれも育ちも英国です。」

 くすくす、と笑うエミリアに、ぶしつけなことを聞いてしまった、と反省しながら、私は首をひねった。では、この少女は東洋人ではないのか。そもそも何故、こんな少女が曲がりなりにも精神科医の案内をしているのだろうか。精神科医の娘か、しかしソーホーにいるとは思えないくらい、エミリアの作法はしっかりしている。どうもちぐはぐな印象を受ける少女だ。
 そんなことを考えていると、いつのまにか階下についていたようだ。湿った空気の奥に、玄関と同じ、古びた木製の扉がある。少女はつかつかとその扉に近寄り、コンコンと二回ノックをした。

「お師匠、お客様ですわ。」

 そう言うと、返事も待たずに少女は扉に体を預け、体重を目一杯かけて押し開いた。石張りの床に木が擦れる音とともに、少しずつ中の様子が見えてくる。
 そこは、ごくごく普通のオフィスのようだった。事務机が数脚と、奥に社長が使うような大きめの机と椅子のセットが鎮座している。その椅子に座る大きな人影が一つ──

「エミリア。」ため息交じりに言った。「何度も言っている。僕の返事があってから扉を開けなさい。」
「そう言って、この前も扉の前でお客様をお待たせしたのを忘れたの?お師匠。」

ぷい、とそっぽを向きながらエミリアは言った。「私、そのとき言ったわ。『次はノックをしたらすぐに開けるから、よろしくて?』って!」

「ああ、わかったわかった。この話はもう終わりだ。」

降参だ、とでも言うように、両手を挙げながら椅子から立ち上がった男が、今度はまっすぐ私を射貫く。

「お客様だね。お待たせしてすまない。さぁ、こちらへ。」
「あ、ああ。」

 促されるままに、応接室と思われるスペースへと移動する。男はエミリアに茶を持ってくるように告げ、「さて、」と私の正面に腰を下ろした。

「ようこそ、我が研究所へ!・・と歓迎したいのはやまやまなんだがね。失礼を承知で申し上げるが、ここがどういう場所か、ご存じでいらっしゃったのかな?」

「いや、実は、」と私は口ごもる。決して大柄でない、にこやかな顔つきの男だが、その外見に反して何を考えているかわからない胡散臭さ・・いや、底の知れなさといったほうがいいだろうか。どうも腹の底が落ち着かない。促されて座った椅子は客用の、ふかふかとした座り心地のいいものであろうに、私は深く座る気にもなれず、少し前に身を乗り出すような奇妙な姿勢に落ち着いた。

「実は、紹介なんだ。腕のいい精神科医がいる、と。」
「ほう、精神科医。」男は苦笑していった。「どなたからの紹介か当ててみよう・・スタンリー・Fだね?」

「すごいな、何故わかったんだ。」
「いや、スタンリーは・・僕の古い友人でね。この前も知人を助けてほしいと駆け込んできたのだよ。腕のいい精神科と僕を評するのは彼だけで・・おっと、不安げな顔はしないでほしいな。私も腕には自信があるんだ。」

 エミリアが運んできた紅茶を一口すすって、男はうっそりと微笑んだ。エミリアに負けず劣らず端正な顔だが、それ以上に瞳の奥がどうも違う方を見ているようで、私は曖昧な返事をしながら紅茶に手を伸ばす。

「スタンリーは私の同僚で、信頼における奴だ。そのスタンリーが紹介したんだから、私はあなたのことを信用するよ。トマス・スミスだ。」

「アリソン・フォードだ。よろしく、スミス。早速だが、話を聞きたいな。君のその寝不足の原因、できるだけ詳しく、話してもらえるかい?」

私の寝不足を見抜いたのはこれで二人目だなと苦笑しながら、私はゆっくりと口を開いた。
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