芥川の怪談

橋平礼

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『澁谷怪談』

二、耳底の囈語 ―― 白線の外側

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二、耳底の囈語 ―― 白線の外側

 私は、厭世的な気味悪さを振り払うべく、強いて視線を低く落とした。掌中の硝子板(スマートフォン)が放つ青白い光は、まるで墓場に漂う燐光のように私の顔を照らしていたであろう。私は、意味をなさぬ文字列を追うふりをしながら、全神経を耳に集中させた。あの男が、あの呪わしい「右袖」をなびかせながら、私の側を通り過ぎてゆくのを待ったのである。

 しばらくすると、不意に、あの神経を苛む絶叫が止んだ。
 
 雑踏の喧騒が、潮が引くように一段と遠のいた気がする。

 (……去ったか)

  私は胸の内で、安っぽく、しかし切実な安堵を覚えた。自尊心の強い人間ほど、正体不明の狂気からは一刻も早く逃れたいと願うものだ。折しも、駅の構内放送が、無機質な鉄の声で電車の接近を告げた。

 「まもなく、一番線に……」

  その機械的な響きは、冷徹な理性の代弁者のように私の耳に届いた。私は、救いを求めるような心地で、鉄の軌道が描く闇の方へと何気なく向き直ったのである。

 その瞬間であった。

「……知りませんか?」

 真横。いや、鼓膜の裏側へ直接指を突っ込まれたような近さである。



  ねっとりとした、死臭に似た湿り気を帯びた声が、私の脳髄に直接、泥を流し込むように注ぎ込まれた。

  私は全身の毛穴が逆立つような衝撃を覚え、弾かれたように顔を横に向けた。

  そこには――至近距離。鼻先が触れんばかりの近さに、あの男の顔があった。

 それは、人間の生きた表情というものを、完全に剥落させた「面」であった。

  男の顔は、腐りかけた梨のように土気色に沈み、そこには生気の一滴すら見当たらない。何より恐ろしいのは、その瞳であった。焦点の合わぬ、濁った硝子玉のような両眼が、深淵の如き虚無を湛えて、じっと私の瞳の奥を覗き込んでいる。男の唇は、乾いた蛇の皮のようにめくれ上がり、そこから漏れ出る吐息は、氷のように冷たく、私の頬を撫でた。

「ヒッ……!」

  私の喉の奥で、無様な、短い悲鳴が弾けた。

  全身の力が抜け、膝が笑い、私の体は大きくよろめいた。それは、理性が崩壊し、生存本能が悲鳴を上げた瞬間であった。

  ちょうどその時、駅のホームには、この世の終わりを告げるような鋭い警報音が鳴り響いた。

 突風。

  迫り来る列車の風圧が、私の背広を激しく煽る。

  巨大な鉄の塊が、断末魔のようなブレーキ音を響かせながら、闇を切り裂いて突っ込んでくる。

  私は、よろめいた勢いのまま、安全という名の薄氷を踏み外し、死の境界線――あの冷酷な白線の外側へと、無防備な体を投げ出してしまっていたのである。

 眼前に迫る列車の前照灯は、あたかも冥府の入り口を照らす劫火のように、私の網膜を真っ白に焼き尽くそうとしていた。
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